殿下が婚約破棄してくれたおかげで泥船から脱出できました。さて、私がいなくなったあと、そちらは大丈夫なのでしょうか?

水上

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第10話:泥水と香水

 (※ジェラルド視点)

「く、臭い……! 耐えられないわ!」

 王太子宮殿の奥まった一室、ミア専用のサロンで、ヒステリックな叫び声が響いた。
 彼女は鼻をハンカチで押さえ、涙目で訴えている。

「もう三日もお風呂に入っていないのよ? 髪もベタベタだし、ドレスも汗臭い! こんなの私じゃない!」

「すまない、マイ・エンジェル。もう少しの辛抱だ」

 なだめる私もまた、いつもの洗練された様ではなかった。
 金髪は脂ぎって艶を失い、高価な軍服からは、香水で誤魔化しきれない体臭が漂っていた。

 王都を襲った水不足は、深刻なフェーズに突入していた。
 飲み水は配給制となり、入浴や洗濯といった贅沢は禁止。
下水道の水量も減ったため、華の都と呼ばれた王都全体に、ドブのような異臭が立ち込め始めていた。

「殿下、ご報告いたします」

 そこへ、疲労困憊した様子で建設大臣が入室してきた。
 彼もまた、薄汚れたシャツを着ている。

「原因が判明いたしました。やはり、北のアークライト領です」

「あの女か! やはり水を堰き止めていたのか!」

「いえ、堰き止めてはいません。ただ……、大規模な植林を行った結果、地下水脈の流れが変わり、全てアークライト領の貯水池に吸い込まれているようです」

「同じことだ! すぐに使者を送れ! 木を切り倒して水をよこせと命令しろ!」

 私はバンと机を叩きました。
 その手についた手垢が、今の王家の威信の低下を物語っているようだった……。

     *

 数日後。
 アークライト辺境伯領、領主館の応接室。

 王都からの使者として訪れたのは、殿下の腰巾着である男爵でした。
 彼は開口一番、高圧的に言い放ちました。

「直ちにあの忌々しい木を伐採せよ! これは王太子殿下の命令である!」

 私は優雅に紅茶を啜り、きょとんとした顔を作りました。

「まあ、なんと野蛮なことを。あれは国の緑化推進運動の一環ですわよ? せっかく根付いた若木を切り倒すなんて、自然への冒涜ですわ」

「御託はいい! 貴様のせいで王都は干上がっているのだ! これは反逆罪に当たるぞ!」

「反逆? 心外ですわね。私はただ、自分の領土に木を植えただけ。水がどちらへ流れるかは、お天道様と重力の気まぐれでしょう?」

 私はカップをソーサーに置き、冷ややかな視線を使者に向けました。

「それに、法的根拠は? 現行法では、地下水の所有権は、その土地の所有者に帰属すると明記されています。他領の地下水脈に文句をつけるなら、まずは法律を改正してからいらしてくださいな」

「ぐぬぬ……」

 男爵は言葉に詰まりました。

 論理と法律で武装した私に、感情論だけで勝てるはずがありません。
 彼は悔しげに唇を噛み、そして……、プライドを捨てました。

「……た、頼む。水を分けてくれ。このままでは、王都で疫病が発生しかねない」

「あら、最初からそう仰ればよろしいのに」

 私はニッコリと微笑み、あらかじめ用意していた契約書をテーブルに滑らせました。

「ご安心ください。我がアークライト領は慈悲深い領地です。余っているお水、喜んでお分けいたしますわ」

「ほ、本当か!?」

「ええ。ただし、輸送料と容器代は頂戴いたします」

 男爵が契約書を手に取り、その金額を見た瞬間、目玉が飛び出しそうになりました。

「な、なんだこの金額は!? 市場価格の十倍ではないか!」

「ええ。だって、水は重いですもの」

 私は指を折りながら説明しました。

「水を運ぶには、専用の魔導タンク車が必要です。さらに、山越えの危険手当、ドライバーの人件費、そして緊急対応の特急料金……、計算すると、これでもギリギリの価格設定ですのよ?」

 もちろん、嘘です。

 先日開通したばかりの、アークライト・トンネルを使えば、輸送コストは十分の一以下。
 残りの九割は、私の純利益です。

「こ、こんな金額、殿下が認めるはずがない!」

「そうですか? では、お帰りください。私は構いませんわ。ただ……」

 私は鼻先で小さく空気を嗅ぐ仕草をしました。

「ミア様は、臭いにあと何日耐えられるかしら? 噂では、香水の匂いと体臭が混ざって、なかなかに芳しい香りが漂っているそうですけれど」

 男爵の顔色が青から白へと変わりました。

 彼も知っているのです。
 ジェラルド殿下が、ミア様の不快を取り除くためなら、国の予算をドブに捨てることも厭わない男であることを。

「……わ、分かった。サインする。だが、支払いは来月だ!」

「結構です。ただし、アークライト領発行の手形にて決済させていただきますわ」

 震える手で署名された契約書。
 それを回収した瞬間、私の背後で控えていたレイモンド様が、窓の外に向かって合図を送りました。

 
 すると、重厚な車輪の音が響き始めます。

「仕事が早いですわね」

 窓から見下ろせば、すでに水を満載した給水車の大行列が、王都へ向かって出発するところでした。
 そのタンクの側面には、アークライト・ウォーター ~慈悲のしずく~とペイントされています。

「これにて商談成立ですわ。ああ、言い忘れましたが」

 私は呆然とする使者に、最後の毒を盛りました。

「そのお水、飲料用としては最高級品ですが……、お風呂に使うには少々硬水すぎますの。髪がギシギシになるかもしれませんから、ミア様にはトリートメントを多めに使うようお伝えくださいませ」

 こうして、王都の水不足は一応の解決を見ました。
 王太子殿下のポケットマネーと、国の予備費を、私の金庫へと大量に吸い上げながら。

 王都の人々は、給水車を見るたびにこう思うでしょう。

 無能な王太子のせいで水がなくなったが、アークライト様が助けてくれたと。

 お金を得て、名声を得て、敵の懐を削る。
 これぞ、一石三鳥の錬金術ですわ。

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