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第6話:悪臭とソルベ
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その日、リディアは領都にある教会の礼拝堂で、強烈な吐き気と戦っていた。
「うっ……」
口元をハンカチで押さえ、作業用の足場の上でよろめく。
充満しているのは、古い獣の皮や骨を煮詰めて作る接着剤――膠の臭いだ。
修復作業には欠かせない材料だが、今回持ち込まれた膠は質が悪く、腐敗臭に近い独特のアンモニア臭を放っていた。
換気の悪い礼拝堂の中で、その臭いは暴力的なまでにリディアの嗅覚を殴りつけてくる。
「おいおい、手際が悪いな修復師殿!」
下から野太い声が飛んできた。
この教会の管理を任されているバーン司祭だ。
恰幅の良い腹を揺らし、不満げにリディアを見上げている。
「予算がないと言っただろう? そんな丁寧にやらんでいい。金色のペンキでも塗って、さっさと終わらせてくれ」
「……司祭様。祭壇画は神聖なものです。ペンキなどで上塗りすれば、下の絵画層が呼吸できずに死んでしまいます」
「御託はいい! 安く、早く、見栄え良く! それが私のオーダーだ!」
バーン司祭の高圧的な態度と、鼻を突く悪臭。
リディアは作業中、何か違和感を覚えていた。
しかし、彼女の胃袋は限界を迎えていた。
朝食に食べたものを戻してしまいそうだ。
視界がぐにゃりと歪む。
(……だめ、意識が……)
足場から崩れ落ちそうになった、その時だった。
「――換気をしろと言ったはずだ」
氷点下の冷気を纏った声が、礼拝堂の空気を凍りつかせた。
入り口に、ジェラルドが立っていた。
その背後で、衛兵たちが慌てて全ての窓を開け放っていく。
「閣下!? な、なぜこのような場所に……!」
バーン司祭が裏返った声を上げるが、ジェラルドは彼を無視して足場へと歩み寄り、リディアを見上げた。
「顔色が土気色だぞ、リディア。……この腐臭の中で作業をしていては、胃が拒絶反応を起こすのも無理はない」
ジェラルドは足場を軽々と登り、リディアの隣に立った。
彼の手には、銀色の保冷容器が握られている。
「まずは感覚受容体を強制洗浄する。今は気分が悪いだろうが、騙されたと思って口を開けろ。……少し冷たいぞ」
有無を言わさぬ迫力に、リディアは反射的に口を開けた。
スプーンで放り込まれたのは、淡い緑色の氷菓子――ソルベだった。
「んっ!?」
舌に乗った瞬間、鮮烈な酸味が爆発した。
レモンの突き抜けるような酸っぱさに、生姜のピリッとした刺激、そして強力なミントの清涼感。
それらが一気に鼻腔へと駆け抜け、こびりついていた膠の悪臭を洗い流していく。
「……はぁ」
リディアは大きく息を吸い込んだ。
肺の中まで浄化されたかのように、呼吸が楽になっている。
冷たいソルベが喉を通ると、縮こまっていた胃袋が正常な位置に戻るような感覚があった。
「レモンのクエン酸と生姜のジンゲロールだ。吐き気を抑え、麻痺した嗅覚をリセットするよう調合した」
ジェラルドはもう一口、ソルベを運んでくれた。
「生き返ったか?」
「はい……! ありがとうございます、ジェラルド様。頭がすっきりしました」
瞳に理知的な光が戻るのを確認し、ジェラルドは「よし」と呟いて、下で震えている司祭へと視線を向けた。
その目は、先ほどリディアに向けたものとは別人のように冷酷だった。
「さて、司祭殿。リディアの嗅覚が戻ったところで、仕事の話をしようか」
「し、仕事の話とは……?」
「この祭壇画の修復予算についてだ」
リディアはソルベの爽快感を胸に残したまま、目の前の祭壇画――黄金に輝く聖人の後光部分に向き直った。
頭がクリアになった今なら、先ほどの違和感の正体がはっきりとわかる。
「司祭様。過去の修復記録と帳簿には、『最高級の金箔を十束使用』と記されていますね?」
「あ、ああ、そうだとも! 神の栄光を称えるため、惜しみなく金を使った!」
司祭は脂汗を拭いながら声を張り上げた。
「……おかしいですね」
リディアは冷静に指摘した。
彼女は道具箱から小さなヘラを取り出し、剥落しかけている金色の部分をわずかに削った。
「本物の金箔を使って水押しを行う場合、金をより輝かせるために、下地には赤色の土――赤ボーロを塗るのが伝統的な技法です。赤色が金の下から透けることで、温かみのある深みが出るのです」
リディアが削った部分の下から現れたのは、赤色ではなかった。
鈍い、黄土色だ。
「ですが、この下地は黄色。いえ、ただの粘土です。そして、この上に貼られているのは金箔ではありません。真鍮の粉を油で溶いたものです」
「なっ……!?」
「真鍮は時間と共に酸化して黒ずみます。だから、金のような輝きがないのです。……司祭様、最高級金箔の予算は、どこへ消えたのですか?」
リディアの静かで、逃れようのない問いかけに、司祭は後ずさりした。
化学と美術史の知識に基づいた事実は、どんな言い訳よりも重い。
「そ、それは……、業者が騙したのだ! 私は知らん!」
「往生際が悪いぞ」
ジェラルドが低い声で告げた。
彼は懐から一冊の帳簿を取り出した。
「教会の帳簿は既に押収済みだ。金箔代と称して計上された予算が、貴様の私腹を肥やすための遊興費に流れていることは明白だ。……神の前で嘘をつくとは、いい度胸だな」
ジェラルドが指を鳴らすと、待機していた衛兵たちが一斉に司祭を取り囲んだ。
「閣下、お許しをぉぉ!」という情けない悲鳴と共に、腐敗した聖職者は連行されていった。
再び静けさが戻った礼拝堂。
窓から吹き込む風が、膠の臭いを運び去っていく。
「……まったく。神聖な場所を汚すなんて、とんでもない輩だ」
ジェラルドは呆れたように息を吐き、それからリディアに向き直った。
「見事な推理だった。下地の色一つで、横領を見抜くとはな」
「修復師にとっては基本ですから。……それに、ジェラルド様のソルベのおかげです。あのままだったら、気持ち悪くて判断力が鈍っていたかもしれません」
リディアが礼を言うと、ジェラルドはふっと口角を上げた。
「君の鼻は、我が領地の犬より優秀だ。だが、あんな悪臭に晒すのは忍びない」
「鼻が利くのも、良し悪しですね」
「いや、それ自体は良いことだ。……君が良い香りだと感じる場所こそが、安全で清潔な場所だという証明になる」
ジェラルドはリディアの手を取り、ハンカチで丁寧に指先を拭ってくれた。
その手つきは優しく、先ほど司祭を断罪した時の冷徹さは微塵もない。
「帰ったら、口直しに温かいスープを作ってやる。もちろん臭いがキツくないやつをな」
「ふふ、はい。楽しみにしています」
悪臭は消え、代わりに爽やかなミントの香りと、信頼できる人の温かさが残った。
リディアは祭壇画を見上げた。
次の修復では、今度こそ本物の金箔と赤い下地を使って、本来の美しい輝きを取り戻してあげよう。
そう心に誓い、彼女はジェラルドと共に教会を後にした。
「うっ……」
口元をハンカチで押さえ、作業用の足場の上でよろめく。
充満しているのは、古い獣の皮や骨を煮詰めて作る接着剤――膠の臭いだ。
修復作業には欠かせない材料だが、今回持ち込まれた膠は質が悪く、腐敗臭に近い独特のアンモニア臭を放っていた。
換気の悪い礼拝堂の中で、その臭いは暴力的なまでにリディアの嗅覚を殴りつけてくる。
「おいおい、手際が悪いな修復師殿!」
下から野太い声が飛んできた。
この教会の管理を任されているバーン司祭だ。
恰幅の良い腹を揺らし、不満げにリディアを見上げている。
「予算がないと言っただろう? そんな丁寧にやらんでいい。金色のペンキでも塗って、さっさと終わらせてくれ」
「……司祭様。祭壇画は神聖なものです。ペンキなどで上塗りすれば、下の絵画層が呼吸できずに死んでしまいます」
「御託はいい! 安く、早く、見栄え良く! それが私のオーダーだ!」
バーン司祭の高圧的な態度と、鼻を突く悪臭。
リディアは作業中、何か違和感を覚えていた。
しかし、彼女の胃袋は限界を迎えていた。
朝食に食べたものを戻してしまいそうだ。
視界がぐにゃりと歪む。
(……だめ、意識が……)
足場から崩れ落ちそうになった、その時だった。
「――換気をしろと言ったはずだ」
氷点下の冷気を纏った声が、礼拝堂の空気を凍りつかせた。
入り口に、ジェラルドが立っていた。
その背後で、衛兵たちが慌てて全ての窓を開け放っていく。
「閣下!? な、なぜこのような場所に……!」
バーン司祭が裏返った声を上げるが、ジェラルドは彼を無視して足場へと歩み寄り、リディアを見上げた。
「顔色が土気色だぞ、リディア。……この腐臭の中で作業をしていては、胃が拒絶反応を起こすのも無理はない」
ジェラルドは足場を軽々と登り、リディアの隣に立った。
彼の手には、銀色の保冷容器が握られている。
「まずは感覚受容体を強制洗浄する。今は気分が悪いだろうが、騙されたと思って口を開けろ。……少し冷たいぞ」
有無を言わさぬ迫力に、リディアは反射的に口を開けた。
スプーンで放り込まれたのは、淡い緑色の氷菓子――ソルベだった。
「んっ!?」
舌に乗った瞬間、鮮烈な酸味が爆発した。
レモンの突き抜けるような酸っぱさに、生姜のピリッとした刺激、そして強力なミントの清涼感。
それらが一気に鼻腔へと駆け抜け、こびりついていた膠の悪臭を洗い流していく。
「……はぁ」
リディアは大きく息を吸い込んだ。
肺の中まで浄化されたかのように、呼吸が楽になっている。
冷たいソルベが喉を通ると、縮こまっていた胃袋が正常な位置に戻るような感覚があった。
「レモンのクエン酸と生姜のジンゲロールだ。吐き気を抑え、麻痺した嗅覚をリセットするよう調合した」
ジェラルドはもう一口、ソルベを運んでくれた。
「生き返ったか?」
「はい……! ありがとうございます、ジェラルド様。頭がすっきりしました」
瞳に理知的な光が戻るのを確認し、ジェラルドは「よし」と呟いて、下で震えている司祭へと視線を向けた。
その目は、先ほどリディアに向けたものとは別人のように冷酷だった。
「さて、司祭殿。リディアの嗅覚が戻ったところで、仕事の話をしようか」
「し、仕事の話とは……?」
「この祭壇画の修復予算についてだ」
リディアはソルベの爽快感を胸に残したまま、目の前の祭壇画――黄金に輝く聖人の後光部分に向き直った。
頭がクリアになった今なら、先ほどの違和感の正体がはっきりとわかる。
「司祭様。過去の修復記録と帳簿には、『最高級の金箔を十束使用』と記されていますね?」
「あ、ああ、そうだとも! 神の栄光を称えるため、惜しみなく金を使った!」
司祭は脂汗を拭いながら声を張り上げた。
「……おかしいですね」
リディアは冷静に指摘した。
彼女は道具箱から小さなヘラを取り出し、剥落しかけている金色の部分をわずかに削った。
「本物の金箔を使って水押しを行う場合、金をより輝かせるために、下地には赤色の土――赤ボーロを塗るのが伝統的な技法です。赤色が金の下から透けることで、温かみのある深みが出るのです」
リディアが削った部分の下から現れたのは、赤色ではなかった。
鈍い、黄土色だ。
「ですが、この下地は黄色。いえ、ただの粘土です。そして、この上に貼られているのは金箔ではありません。真鍮の粉を油で溶いたものです」
「なっ……!?」
「真鍮は時間と共に酸化して黒ずみます。だから、金のような輝きがないのです。……司祭様、最高級金箔の予算は、どこへ消えたのですか?」
リディアの静かで、逃れようのない問いかけに、司祭は後ずさりした。
化学と美術史の知識に基づいた事実は、どんな言い訳よりも重い。
「そ、それは……、業者が騙したのだ! 私は知らん!」
「往生際が悪いぞ」
ジェラルドが低い声で告げた。
彼は懐から一冊の帳簿を取り出した。
「教会の帳簿は既に押収済みだ。金箔代と称して計上された予算が、貴様の私腹を肥やすための遊興費に流れていることは明白だ。……神の前で嘘をつくとは、いい度胸だな」
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「修復師にとっては基本ですから。……それに、ジェラルド様のソルベのおかげです。あのままだったら、気持ち悪くて判断力が鈍っていたかもしれません」
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「鼻が利くのも、良し悪しですね」
「いや、それ自体は良いことだ。……君が良い香りだと感じる場所こそが、安全で清潔な場所だという証明になる」
ジェラルドはリディアの手を取り、ハンカチで丁寧に指先を拭ってくれた。
その手つきは優しく、先ほど司祭を断罪した時の冷徹さは微塵もない。
「帰ったら、口直しに温かいスープを作ってやる。もちろん臭いがキツくないやつをな」
「ふふ、はい。楽しみにしています」
悪臭は消え、代わりに爽やかなミントの香りと、信頼できる人の温かさが残った。
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