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第7話:眠れる森の修復師
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その夜、リディアはとんでもない集中力に支配されていた。
アトリエのランプの光の下、彼女の指先から生まれた極細の筆が、祭壇画の聖女の瞳に最後の光を入れる。
劣化したワニスと汚れを取り除き、剥落した絵具層を補彩し、本来の輝きを取り戻させる。
それは、失われた時間に再び命を吹き込む、神聖な儀式にも似ていた。
「……あと、少し……」
窓の外はとっくに闇に沈み、時計の針は真夜中を指そうとしている。
だが、リディアの脳は興奮状態にあった。
アドレナリンが全身を駆け巡り、疲労も眠気も感じない。
むしろ、このまま朝まで作業を続けたいとさえ思っていた。
背後で静かに扉が開く音がした。
リディアは振り返らなかった。
このアトリエに、この時間に入ってくる人物は一人しかいない。
「……時刻は二三時四五分。私の命令を無視して一〇時間以上も連続作業を続けた言い訳を、簡潔に述べよ」
地を這うような低い声。
ジェラルドが、腕を組んで入り口に立っていた。
その顔は、軍規を破った兵士を断罪する審問官のようだ。
「も、申し訳ありません! ですが、今が一番良いところで……!」
「良いところのまま倒れられては、修復作業が中断する。我が領地にとって多大な損失だ」
ジェラルドはため息をつき、リディアの作業台へ歩み寄ってきた。
その手には、湯気の立つマグカップが握られている。
甘く、優しい香りだ。
「これを飲め」
「でも……」
「命令だ。これを飲んで三〇分以内にベッドに入らなければ、君を文化財保護法違反の現行犯で拘束し、朝までベッドに縛り付けてやる」
「なっ……!?」
あまりにも物騒な脅し文句に、リディアは筆を置いた。
差し出されたのは、蜂蜜とハーブの香りがするホットミルクだった。
「……睡眠導入効果のあるトリプトファンと、鎮静作用のあるカモミールを過剰なほど詰め込んだ。抵抗しても無駄だ。飲めば三〇分後、君の脳は強制的にシャットダウンする」
有無を言わさぬ口調で差し出され、リディアはこくりと頷いてカップを受け取った。
温かいミルクが、興奮していた神経を優しく鎮めていく。
確かに、瞼が重くなってきた気がする。
「……ありがとうございます」
「礼は、明日の朝、健康な顔で言うんだな」
ジェラルドはリディアが飲み干すのを見届けると、空のカップを受け取り、アトリエから出て行った。
ベッドに入り、身体の力を抜く。
疲労は限界のはずなのに、高ぶった神経はなかなか静まらず、浅い眠りしか訪れない。
うつらうつらとする意識の狭間で、リディアは悪夢に囚われた。
――そこは、王宮の広間だった。
『リディア、貴様との婚約を破棄する!』
王太子アルフレッドの嘲笑が響く。ミナが扇子で口元を隠してクスクスと笑っている。
『お前のような地味でカビ臭い娘は、我が家の恥だ!』
実の両親が、冷たい目で彼女を突き放す。
さらに、周囲の貴族たちが「いらない子」「役立たず」と囁き合う声が、波のように押し寄せてくる。
違う、そんなこと――!
叫ぼうとしても声が出ない。
手を伸ばしても、誰も助けてくれない。
底なしの孤独と絶望が、リディアの身体を冷たく縛り付けていく。
「――っ、はぁ!」
息苦しさで、リディアは現実の世界に引き戻された。
全身は冷や汗でぐっしょりと濡れ、心臓が警鐘のように激しく鳴り響いている。
暗い部屋の中、一人きり。
夢で突きつけられた孤独が、現実となって彼女にのしかかってきた。
涙が、ぼろぼろとこぼれ落ちる。
突然の静かなノックの音に、リディアはびくりと肩を震わせた。
扉が静かに開き、ランプを持ったジェラルドの大きな影が部屋に入ってくる。
「何か声が聞こえたが……、悪い夢か?」
彼はリディアの様子を見て全てを察したようだった。
ジェラルドはベッドサイドに近づくと、ランプをテーブルに置き、震えるリディアの肩にそっと毛布をかけ直した。
「さすがに夢の中までは護衛できない。……だが、現実での君の安全は保証する」
その声は、夢の中の誰の声とも違う、絶対的な安心感に満ちていた。
彼は懐から小さな水筒を取り出し、カップに温かい液体を注いだ。
今度は、バナナの甘い香りがする。
「これを飲め。精神を安定させるセロトニンの原料になる」
差し出されたホット・バナナミルクを、リディアは震える手で受け取った。
温かさが、指先からゆっくりと身体に広がっていく。
恐怖で凍りついていた心が、少しずつ溶けていくのがわかった。
「……申し訳、ありません。夜中に、お騒がせして……」
「気にするな。君という貴重な人材のメンテナンスは、私の最優先事項だ」
リディアが飲み干すのを見届け、ジェラルドは彼女を再びベッドに横たわらせた。
そして、驚くべきことを口にした。
「もう一度眠るまで、私が枕元で本を読んでやる。……声を聞いていれば、悪い夢は寄ってこないものだ」
「えっ!? そ、そんな、ジェラルド様にそのようなお手間を……!」
恐縮するリディアを意に介さず、ジェラルドは近くにあった椅子に腰かけ、サイドテーブルに置かれていた本――古代鉱物学概論という見ただけで眠くなりそうな難解な本――を手に取った。
「……第一章、珪酸塩鉱物の分類と構造。石英類は、三次元的な網目状構造を持ち、化学式はSiO₂で表される……」
彼の低く、落ち着いた声が、静かな部屋に響き渡る。
内容は全く頭に入ってこない。
けれど、その単調で揺るぎない声のリズムが、まるで優しい子守唄のように、リディアのささくれだった神経を穏やかになでていった。
王宮で浴びせられた、甲高く、悪意に満ちた声とは違う。
ただ、そこにいる、という事実だけで全てを守ってくれるような、力強い声。
リディアは、その声に包まれながら、いつの間にか深く、安らかな眠りの海へと沈んでいった。
次に目を覚ました時、窓の外は朝の優しい光で満ちていた。
もう、悪夢の気配はどこにもなかった。
アトリエのランプの光の下、彼女の指先から生まれた極細の筆が、祭壇画の聖女の瞳に最後の光を入れる。
劣化したワニスと汚れを取り除き、剥落した絵具層を補彩し、本来の輝きを取り戻させる。
それは、失われた時間に再び命を吹き込む、神聖な儀式にも似ていた。
「……あと、少し……」
窓の外はとっくに闇に沈み、時計の針は真夜中を指そうとしている。
だが、リディアの脳は興奮状態にあった。
アドレナリンが全身を駆け巡り、疲労も眠気も感じない。
むしろ、このまま朝まで作業を続けたいとさえ思っていた。
背後で静かに扉が開く音がした。
リディアは振り返らなかった。
このアトリエに、この時間に入ってくる人物は一人しかいない。
「……時刻は二三時四五分。私の命令を無視して一〇時間以上も連続作業を続けた言い訳を、簡潔に述べよ」
地を這うような低い声。
ジェラルドが、腕を組んで入り口に立っていた。
その顔は、軍規を破った兵士を断罪する審問官のようだ。
「も、申し訳ありません! ですが、今が一番良いところで……!」
「良いところのまま倒れられては、修復作業が中断する。我が領地にとって多大な損失だ」
ジェラルドはため息をつき、リディアの作業台へ歩み寄ってきた。
その手には、湯気の立つマグカップが握られている。
甘く、優しい香りだ。
「これを飲め」
「でも……」
「命令だ。これを飲んで三〇分以内にベッドに入らなければ、君を文化財保護法違反の現行犯で拘束し、朝までベッドに縛り付けてやる」
「なっ……!?」
あまりにも物騒な脅し文句に、リディアは筆を置いた。
差し出されたのは、蜂蜜とハーブの香りがするホットミルクだった。
「……睡眠導入効果のあるトリプトファンと、鎮静作用のあるカモミールを過剰なほど詰め込んだ。抵抗しても無駄だ。飲めば三〇分後、君の脳は強制的にシャットダウンする」
有無を言わさぬ口調で差し出され、リディアはこくりと頷いてカップを受け取った。
温かいミルクが、興奮していた神経を優しく鎮めていく。
確かに、瞼が重くなってきた気がする。
「……ありがとうございます」
「礼は、明日の朝、健康な顔で言うんだな」
ジェラルドはリディアが飲み干すのを見届けると、空のカップを受け取り、アトリエから出て行った。
ベッドに入り、身体の力を抜く。
疲労は限界のはずなのに、高ぶった神経はなかなか静まらず、浅い眠りしか訪れない。
うつらうつらとする意識の狭間で、リディアは悪夢に囚われた。
――そこは、王宮の広間だった。
『リディア、貴様との婚約を破棄する!』
王太子アルフレッドの嘲笑が響く。ミナが扇子で口元を隠してクスクスと笑っている。
『お前のような地味でカビ臭い娘は、我が家の恥だ!』
実の両親が、冷たい目で彼女を突き放す。
さらに、周囲の貴族たちが「いらない子」「役立たず」と囁き合う声が、波のように押し寄せてくる。
違う、そんなこと――!
叫ぼうとしても声が出ない。
手を伸ばしても、誰も助けてくれない。
底なしの孤独と絶望が、リディアの身体を冷たく縛り付けていく。
「――っ、はぁ!」
息苦しさで、リディアは現実の世界に引き戻された。
全身は冷や汗でぐっしょりと濡れ、心臓が警鐘のように激しく鳴り響いている。
暗い部屋の中、一人きり。
夢で突きつけられた孤独が、現実となって彼女にのしかかってきた。
涙が、ぼろぼろとこぼれ落ちる。
突然の静かなノックの音に、リディアはびくりと肩を震わせた。
扉が静かに開き、ランプを持ったジェラルドの大きな影が部屋に入ってくる。
「何か声が聞こえたが……、悪い夢か?」
彼はリディアの様子を見て全てを察したようだった。
ジェラルドはベッドサイドに近づくと、ランプをテーブルに置き、震えるリディアの肩にそっと毛布をかけ直した。
「さすがに夢の中までは護衛できない。……だが、現実での君の安全は保証する」
その声は、夢の中の誰の声とも違う、絶対的な安心感に満ちていた。
彼は懐から小さな水筒を取り出し、カップに温かい液体を注いだ。
今度は、バナナの甘い香りがする。
「これを飲め。精神を安定させるセロトニンの原料になる」
差し出されたホット・バナナミルクを、リディアは震える手で受け取った。
温かさが、指先からゆっくりと身体に広がっていく。
恐怖で凍りついていた心が、少しずつ溶けていくのがわかった。
「……申し訳、ありません。夜中に、お騒がせして……」
「気にするな。君という貴重な人材のメンテナンスは、私の最優先事項だ」
リディアが飲み干すのを見届け、ジェラルドは彼女を再びベッドに横たわらせた。
そして、驚くべきことを口にした。
「もう一度眠るまで、私が枕元で本を読んでやる。……声を聞いていれば、悪い夢は寄ってこないものだ」
「えっ!? そ、そんな、ジェラルド様にそのようなお手間を……!」
恐縮するリディアを意に介さず、ジェラルドは近くにあった椅子に腰かけ、サイドテーブルに置かれていた本――古代鉱物学概論という見ただけで眠くなりそうな難解な本――を手に取った。
「……第一章、珪酸塩鉱物の分類と構造。石英類は、三次元的な網目状構造を持ち、化学式はSiO₂で表される……」
彼の低く、落ち着いた声が、静かな部屋に響き渡る。
内容は全く頭に入ってこない。
けれど、その単調で揺るぎない声のリズムが、まるで優しい子守唄のように、リディアのささくれだった神経を穏やかになでていった。
王宮で浴びせられた、甲高く、悪意に満ちた声とは違う。
ただ、そこにいる、という事実だけで全てを守ってくれるような、力強い声。
リディアは、その声に包まれながら、いつの間にか深く、安らかな眠りの海へと沈んでいった。
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