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第9話:傷ついた器
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その日、辺境伯邸の廊下に、耳をつんざくような破壊音が響き渡った。
リディアが慌てて音のした方へ駆けつけると、そこには青ざめた顔で立ち尽くす若いメイドと、床に散らばった陶器の破片があった。
それは、この屋敷の玄関ホールに飾られていた、美しい青磁の壺だった。
「も、申し訳ございません! 手が滑って……!」
メイドは震えながら、破片を拾い集めようとしていた。
そこへ、低い足音が近づいてきた。
ジェラルドだ。
「……何事だ」
彼が姿を現した瞬間、周囲の空気がピリリと張り詰める。
メイドは「ひっ」と息を呑み、その場に平伏した。
「お、お許しください! 大切な壺を割ってしまいました……!」
「……ふむ」
ジェラルドは無表情で、粉々になった壺を見下ろした。
それは先代の辺境伯が収集したコレクションの一つで、かなりの高値がつく品だ。
「形あるものはいつか壊れる。エントロピー増大の法則だ」
ジェラルドは淡々と言った。
「だが、壊れた器は機能を果たさん。ただの産業廃棄物だ。怪我をする前に片付けろ。代わりの品は倉庫から出させる」
合理的で、冷徹な判断だった。
メイドは泣きそうな顔で「はい……、すぐに捨ててまいります」と、箒と塵取りを手に取った。
「待ってください!」
リディアの声が、その場を制した。
彼女は小走りで近づくと、メイドの手から塵取りを奪うようにして、破片の前にしゃがみ込んだ。
「捨ててはいけません。……まだ、生きています」
「リディア?」
ジェラルドが怪訝そうに眉を寄せる。
「君の鑑定眼でも見えるはずだ。それはもう修復不可能なレベルで粉砕している。接着剤で繋ぎ合わせたところで、強度は落ちるし、継ぎ目が目立って美観を損なう。資産価値はゼロだ」
「いいえ、ジェラルド様。……割れたからこそ、生まれる美しさがあります」
リディアは真剣な眼差しで、散らばった破片を、まるで宝石でも拾うかのように丁寧にハンカチの上に集め始めた。
「私に、この子を預けていただけませんか? 必ず、蘇らせてみせます」
アトリエに持ち込まれた壺の破片は、大小合わせて三十個以上。
リディアはそれらをパズルのように組み合わせ、断面をクリーニングし、そして特別な接着剤を調合し始めた。
使うのは、漆だ。
強力な接着力を持つ樹液に、小麦粉を混ぜて糊を作る。
ジェラルドは、腕組みをしてその作業をじっと見ていた。
彼にとって、効率の悪い作業を見るのは苦痛のはずだが、リディアが筆を動かす姿からは目を離せないようだった。
「……割れ目を隠すのではなく、わざわざ目立たせるのか?」
リディアが接着した継ぎ目の上に、さらに漆を塗り、その上から金粉を蒔いていくのを見て、ジェラルドが問うた。
「はい。金継ぎという技法です」
リディアは息を詰めて、金粉を定着させていく。
青い磁器の肌に、稲妻のような黄金のラインが走る。
それは、単なるひび割れではなく、新たな景色となって壺に刻まれていく。
「修復とは、新品に戻すことではありません」
リディアは筆を置き、静かに語り始めた。
「傷も、汚れも、過ごした時間の証として受け入れ、その上で美しく在り続ける手助けをすること。……傷をなかったことにするのではなく、傷ごと愛せるようにすることです」
彼女は、完成した壺をそっと持ち上げた。
元の完全無欠な青磁も美しかった。
だが、黄金の傷跡を纏ったその姿は、一度壊れ、痛みを乗り越えたものだけが持つ、凛とした強さと色気を放っていた。
「……私の人生も、そうありたいと思います。たとえ、誰にも理解されなったとしてもいいんです」
リディアは自嘲気味に微笑んだ。
婚約破棄され、実家からも捨てられ、傷物とされた自分。
けれど、その傷を隠して生きるのではなく、傷さえも自分の歴史として、胸を張って生きたい。
この壺のように……。
ジェラルドは、しばらく言葉を発しなかった。
彼はリディアから壺を受け取り、様々な角度から眺めた。
そして、壺をテーブルに戻すと、大きな手でリディアの頭をポンと撫でた。
「……美しいな」
「え……?」
「この壺のことだ。……そして、君の哲学もだ」
ジェラルドの声は、いつになく優しかった。
「誰にも理解されなくていい、だと? ……馬鹿を言うな。君という、難解で美しい最高傑作の絵画を解釈できる専門家が、世界に一人くらいいてもいいはずだ」
「ジェラルド、様……」
「傷があるから価値が下がるなんてことはない。君が乗り越えてきた傷跡は、この金継ぎと同じだ。……私が、その価値を保証する」
真っ直ぐな瞳で見つめられ、リディアの心臓が大きく跳ねた。
それは、これまでのどんな褒め言葉よりも、深く魂に響く肯定だった。
「……あ、ありがとうございます」
涙がこぼれそうになり、リディアは慌てて眼鏡の位置を直して誤魔化した。
「さあ、元に戻しに行こう。あのメイドも、首が繋がって安心するだろう」
ジェラルドが壺を抱えて歩き出す。
その背中を見つめながら、リディアは思った。
もし自分が壊れかけたとしても、この人はきっと、何度でも金継ぎのように繋ぎ止め、新しい価値を見出してくれる。
そう信じられることが、何よりも嬉しかった。
玄関ホールに戻された壺は、窓からの光を受け、黄金の継ぎ目を誇らしげに輝かせていた。
それは、辺境の屋敷に新たな彩りを添える、世界に一つだけの名品となった。
リディアが慌てて音のした方へ駆けつけると、そこには青ざめた顔で立ち尽くす若いメイドと、床に散らばった陶器の破片があった。
それは、この屋敷の玄関ホールに飾られていた、美しい青磁の壺だった。
「も、申し訳ございません! 手が滑って……!」
メイドは震えながら、破片を拾い集めようとしていた。
そこへ、低い足音が近づいてきた。
ジェラルドだ。
「……何事だ」
彼が姿を現した瞬間、周囲の空気がピリリと張り詰める。
メイドは「ひっ」と息を呑み、その場に平伏した。
「お、お許しください! 大切な壺を割ってしまいました……!」
「……ふむ」
ジェラルドは無表情で、粉々になった壺を見下ろした。
それは先代の辺境伯が収集したコレクションの一つで、かなりの高値がつく品だ。
「形あるものはいつか壊れる。エントロピー増大の法則だ」
ジェラルドは淡々と言った。
「だが、壊れた器は機能を果たさん。ただの産業廃棄物だ。怪我をする前に片付けろ。代わりの品は倉庫から出させる」
合理的で、冷徹な判断だった。
メイドは泣きそうな顔で「はい……、すぐに捨ててまいります」と、箒と塵取りを手に取った。
「待ってください!」
リディアの声が、その場を制した。
彼女は小走りで近づくと、メイドの手から塵取りを奪うようにして、破片の前にしゃがみ込んだ。
「捨ててはいけません。……まだ、生きています」
「リディア?」
ジェラルドが怪訝そうに眉を寄せる。
「君の鑑定眼でも見えるはずだ。それはもう修復不可能なレベルで粉砕している。接着剤で繋ぎ合わせたところで、強度は落ちるし、継ぎ目が目立って美観を損なう。資産価値はゼロだ」
「いいえ、ジェラルド様。……割れたからこそ、生まれる美しさがあります」
リディアは真剣な眼差しで、散らばった破片を、まるで宝石でも拾うかのように丁寧にハンカチの上に集め始めた。
「私に、この子を預けていただけませんか? 必ず、蘇らせてみせます」
アトリエに持ち込まれた壺の破片は、大小合わせて三十個以上。
リディアはそれらをパズルのように組み合わせ、断面をクリーニングし、そして特別な接着剤を調合し始めた。
使うのは、漆だ。
強力な接着力を持つ樹液に、小麦粉を混ぜて糊を作る。
ジェラルドは、腕組みをしてその作業をじっと見ていた。
彼にとって、効率の悪い作業を見るのは苦痛のはずだが、リディアが筆を動かす姿からは目を離せないようだった。
「……割れ目を隠すのではなく、わざわざ目立たせるのか?」
リディアが接着した継ぎ目の上に、さらに漆を塗り、その上から金粉を蒔いていくのを見て、ジェラルドが問うた。
「はい。金継ぎという技法です」
リディアは息を詰めて、金粉を定着させていく。
青い磁器の肌に、稲妻のような黄金のラインが走る。
それは、単なるひび割れではなく、新たな景色となって壺に刻まれていく。
「修復とは、新品に戻すことではありません」
リディアは筆を置き、静かに語り始めた。
「傷も、汚れも、過ごした時間の証として受け入れ、その上で美しく在り続ける手助けをすること。……傷をなかったことにするのではなく、傷ごと愛せるようにすることです」
彼女は、完成した壺をそっと持ち上げた。
元の完全無欠な青磁も美しかった。
だが、黄金の傷跡を纏ったその姿は、一度壊れ、痛みを乗り越えたものだけが持つ、凛とした強さと色気を放っていた。
「……私の人生も、そうありたいと思います。たとえ、誰にも理解されなったとしてもいいんです」
リディアは自嘲気味に微笑んだ。
婚約破棄され、実家からも捨てられ、傷物とされた自分。
けれど、その傷を隠して生きるのではなく、傷さえも自分の歴史として、胸を張って生きたい。
この壺のように……。
ジェラルドは、しばらく言葉を発しなかった。
彼はリディアから壺を受け取り、様々な角度から眺めた。
そして、壺をテーブルに戻すと、大きな手でリディアの頭をポンと撫でた。
「……美しいな」
「え……?」
「この壺のことだ。……そして、君の哲学もだ」
ジェラルドの声は、いつになく優しかった。
「誰にも理解されなくていい、だと? ……馬鹿を言うな。君という、難解で美しい最高傑作の絵画を解釈できる専門家が、世界に一人くらいいてもいいはずだ」
「ジェラルド、様……」
「傷があるから価値が下がるなんてことはない。君が乗り越えてきた傷跡は、この金継ぎと同じだ。……私が、その価値を保証する」
真っ直ぐな瞳で見つめられ、リディアの心臓が大きく跳ねた。
それは、これまでのどんな褒め言葉よりも、深く魂に響く肯定だった。
「……あ、ありがとうございます」
涙がこぼれそうになり、リディアは慌てて眼鏡の位置を直して誤魔化した。
「さあ、元に戻しに行こう。あのメイドも、首が繋がって安心するだろう」
ジェラルドが壺を抱えて歩き出す。
その背中を見つめながら、リディアは思った。
もし自分が壊れかけたとしても、この人はきっと、何度でも金継ぎのように繋ぎ止め、新しい価値を見出してくれる。
そう信じられることが、何よりも嬉しかった。
玄関ホールに戻された壺は、窓からの光を受け、黄金の継ぎ目を誇らしげに輝かせていた。
それは、辺境の屋敷に新たな彩りを添える、世界に一つだけの名品となった。
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