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第10話:王都からの手紙
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辺境の生活にも慣れ、頬に健康的な赤みが戻ってきた頃。
リディアは、ジェラルドとのティータイムで、王都から届いた新聞記事に目を通していた。
「……王宮礼拝堂が闇に包まれた、ですか」
見出しには、不吉な言葉が踊っている。
記事によれば、王宮にある大聖堂のステンドグラスが、清掃作業後に突然輝きを失い、昼間でも堂内が薄暗くなってしまったという。
民衆は「神の加護が消えた」と噂し、不安が広がっているらしい。
「原因は不明とされているが、君には心当たりがあるようだな」
対面に座るジェラルドが、血管を拡張しリラックス効果を高めるベルガモットの香りが漂う紅茶を飲みながら問うた。
「はい……、恐らく、ミナ様がお掃除をされたのだと思います」
リディアは静かにカップを置いた。
「あのステンドグラスは、数百年前に作られた貴重なものです。ガラス表面にはグリザイユと呼ばれる、顔料を焼き付けた繊細な影の描写が施されています。一見すると煤や汚れに見えますが、その影があるからこそ、光が透過した時に荘厳な立体感が生まれるのです」
彼女はため息交じりに続けた。
「私がいた頃は、柔らかい筆で埃を払うだけに留めていました。ですが、もしミナ様が『汚れだから綺麗にしましょう』と、強力なアルカリ性洗剤とタワシでゴシゴシ擦ったとしたら……」
「……焼き付けられた影が全て剥がれ落ち、ただの色ガラスの板になったわけか」
「はい。影を失ったステンドグラスは、光を乱反射させるだけで、あの神秘的な透過光を通さなくなります。……もう、二度と元には戻りません」
無知とは、時に悪意よりも残酷に文化を破壊する。
リディアの胸に微かな痛みが走ったが、それはかつて守っていたものが壊された悲しみであり、未練ではなかった。
その時、執事が恭しく銀の盆を持って現れた。
盆の上には、豪奢な封蝋が施された一通の手紙が載っている。王家の紋章だ。
「……王太子殿下からです」
執事の言葉に、部屋の空気が一瞬で凍りついた。
ジェラルドが新聞を置き、ゆっくりと手紙を手に取る。
「検閲する。君の精神衛生に有害なウイルスが含まれている可能性が高い」
彼はペーパーナイフで封を切り、中身を一読した。
瞬間、鈍い音がした。
ジェラルドが握りしめたペーパーナイフの柄が、へし折れていた。
「……あのアホ男め」
こめかみに太い血管を浮き上がらせ、ジェラルドは低く唸った。
その表情は子供が泣くレベルを超え、歴戦の兵士でも失禁するレベルの憤怒に満ちている。
「血圧が急上昇した。この手紙は君に見せる価値もない。暖炉の燃料にするのが妥当だ」
「ジェラルド様。……読ませてください」
リディアは静かに手を差し出した。
「私はもう、逃げませんから」
ジェラルドはしばし逡巡したが、リディアの瞳に揺るぎない意志を見て取り、渋々手紙を渡した。
リディアは便箋を開いた。
そこには、見慣れた流麗な筆跡で、こう綴られていた。
『リディア。辺境での侘しい暮らしに泣いている頃だろう。王宮のステンドグラスが不調だ。お前が管理を怠っていたツケが回ってきたらしい。だが、私は寛大だ。今すぐ戻ってきて修理をするなら、婚約破棄を撤回し、側室として迎えることも検討してやろう。愛するミナも、お前の帰りを待っている。彼女の手伝いができることを光栄に思え――』
最後まで読み終え、リディアはふぅ、と息を吐いた。
怒りも、悲しみも湧いてこなかった。
ただ、呆れるほどに空っぽだった。
「……贋作師は、見る人が見たいものを描きます」
リディアは静かに口を開いた。
「自分は偉大で、愛されていて、正しい。そんな都合のいい幻を見せてくれるから、人は贋作に騙されるのです。……殿下のこの言葉も、ご自分が信じたい妄想を書き連ねただけの、三流の贋作と同じですね」
「……リディア」
「本物の画家は、見る人が見たくないものさえも描きます。老いや、死や、悲しみさえも……」
リディアは手紙を丁寧に折りたたむと、それを真ん中から破いた。
さらに重ねて、もう一度。
細切れになった紙片は、ただのゴミと化した。
「中身のない手紙でした。読む必要はありませんでしたね」
リディアは微笑み、紙片を屑籠へと落とした。
それは、彼女の中で完全に過去との決別が完了した音だった。
ジェラルドは、ポカンとした顔でリディアを見ていたが、やがて口元に大きな笑みを浮かべた。
「……ははっ! そうだ、その通りだ!」
彼は上機嫌に立ち上がり、リディアの元へ歩み寄ると、その小さな手を両手で包み込んだ。
「君の言う通りだ。あんなものは、資源の無駄遣いだ。……よく言った、リディア」
「はい。それに私、今はとても忙しいのです。この領地には、磨けば輝く原石がたくさんありますから」
リディアはジェラルドを見上げた。
この強面の辺境伯と共に、この痩せた土地を、美しい場所へと変えていく。
その未来の方が、王宮のどんな栄華よりも鮮やかに見えた。
「ああ。頼りにしているぞ」
ジェラルドの手の温もりが、心地よく伝わってくる。
王都ではステンドグラスの光が消え、王太子やミナたちが戸惑っている。
だが、辺境のこの部屋には、温かな紅茶の香りと、確かな信頼という光が満ちていた。
リディアは、ジェラルドとのティータイムで、王都から届いた新聞記事に目を通していた。
「……王宮礼拝堂が闇に包まれた、ですか」
見出しには、不吉な言葉が踊っている。
記事によれば、王宮にある大聖堂のステンドグラスが、清掃作業後に突然輝きを失い、昼間でも堂内が薄暗くなってしまったという。
民衆は「神の加護が消えた」と噂し、不安が広がっているらしい。
「原因は不明とされているが、君には心当たりがあるようだな」
対面に座るジェラルドが、血管を拡張しリラックス効果を高めるベルガモットの香りが漂う紅茶を飲みながら問うた。
「はい……、恐らく、ミナ様がお掃除をされたのだと思います」
リディアは静かにカップを置いた。
「あのステンドグラスは、数百年前に作られた貴重なものです。ガラス表面にはグリザイユと呼ばれる、顔料を焼き付けた繊細な影の描写が施されています。一見すると煤や汚れに見えますが、その影があるからこそ、光が透過した時に荘厳な立体感が生まれるのです」
彼女はため息交じりに続けた。
「私がいた頃は、柔らかい筆で埃を払うだけに留めていました。ですが、もしミナ様が『汚れだから綺麗にしましょう』と、強力なアルカリ性洗剤とタワシでゴシゴシ擦ったとしたら……」
「……焼き付けられた影が全て剥がれ落ち、ただの色ガラスの板になったわけか」
「はい。影を失ったステンドグラスは、光を乱反射させるだけで、あの神秘的な透過光を通さなくなります。……もう、二度と元には戻りません」
無知とは、時に悪意よりも残酷に文化を破壊する。
リディアの胸に微かな痛みが走ったが、それはかつて守っていたものが壊された悲しみであり、未練ではなかった。
その時、執事が恭しく銀の盆を持って現れた。
盆の上には、豪奢な封蝋が施された一通の手紙が載っている。王家の紋章だ。
「……王太子殿下からです」
執事の言葉に、部屋の空気が一瞬で凍りついた。
ジェラルドが新聞を置き、ゆっくりと手紙を手に取る。
「検閲する。君の精神衛生に有害なウイルスが含まれている可能性が高い」
彼はペーパーナイフで封を切り、中身を一読した。
瞬間、鈍い音がした。
ジェラルドが握りしめたペーパーナイフの柄が、へし折れていた。
「……あのアホ男め」
こめかみに太い血管を浮き上がらせ、ジェラルドは低く唸った。
その表情は子供が泣くレベルを超え、歴戦の兵士でも失禁するレベルの憤怒に満ちている。
「血圧が急上昇した。この手紙は君に見せる価値もない。暖炉の燃料にするのが妥当だ」
「ジェラルド様。……読ませてください」
リディアは静かに手を差し出した。
「私はもう、逃げませんから」
ジェラルドはしばし逡巡したが、リディアの瞳に揺るぎない意志を見て取り、渋々手紙を渡した。
リディアは便箋を開いた。
そこには、見慣れた流麗な筆跡で、こう綴られていた。
『リディア。辺境での侘しい暮らしに泣いている頃だろう。王宮のステンドグラスが不調だ。お前が管理を怠っていたツケが回ってきたらしい。だが、私は寛大だ。今すぐ戻ってきて修理をするなら、婚約破棄を撤回し、側室として迎えることも検討してやろう。愛するミナも、お前の帰りを待っている。彼女の手伝いができることを光栄に思え――』
最後まで読み終え、リディアはふぅ、と息を吐いた。
怒りも、悲しみも湧いてこなかった。
ただ、呆れるほどに空っぽだった。
「……贋作師は、見る人が見たいものを描きます」
リディアは静かに口を開いた。
「自分は偉大で、愛されていて、正しい。そんな都合のいい幻を見せてくれるから、人は贋作に騙されるのです。……殿下のこの言葉も、ご自分が信じたい妄想を書き連ねただけの、三流の贋作と同じですね」
「……リディア」
「本物の画家は、見る人が見たくないものさえも描きます。老いや、死や、悲しみさえも……」
リディアは手紙を丁寧に折りたたむと、それを真ん中から破いた。
さらに重ねて、もう一度。
細切れになった紙片は、ただのゴミと化した。
「中身のない手紙でした。読む必要はありませんでしたね」
リディアは微笑み、紙片を屑籠へと落とした。
それは、彼女の中で完全に過去との決別が完了した音だった。
ジェラルドは、ポカンとした顔でリディアを見ていたが、やがて口元に大きな笑みを浮かべた。
「……ははっ! そうだ、その通りだ!」
彼は上機嫌に立ち上がり、リディアの元へ歩み寄ると、その小さな手を両手で包み込んだ。
「君の言う通りだ。あんなものは、資源の無駄遣いだ。……よく言った、リディア」
「はい。それに私、今はとても忙しいのです。この領地には、磨けば輝く原石がたくさんありますから」
リディアはジェラルドを見上げた。
この強面の辺境伯と共に、この痩せた土地を、美しい場所へと変えていく。
その未来の方が、王宮のどんな栄華よりも鮮やかに見えた。
「ああ。頼りにしているぞ」
ジェラルドの手の温もりが、心地よく伝わってくる。
王都ではステンドグラスの光が消え、王太子やミナたちが戸惑っている。
だが、辺境のこの部屋には、温かな紅茶の香りと、確かな信頼という光が満ちていた。
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