16 / 40
第16話:歌劇場の幽霊騒動
しおりを挟む
領都にある歌劇場は、ジェラルドが領地経営の一環として力を入れている文化施設の一つだ。
しかし今日、そのロビーはプリマドンナのヒステリックな叫び声で震えていた。
「歌えませんわ! こんな呪われたホールでは!」
ソプラノ歌手の豊満な胸が、怒りで大きく波打っている。
支配人はオロオロとハンカチで汗を拭い、駆けつけたジェラルドとリディアに泣きついた。
「閣下、リディア様……、これです。改装工事を終えてから、歌手や演奏家たちから『音が変わった』『自分の声が幽霊のように遅れて聞こえる』と苦情が殺到しておりまして……」
ジェラルドは眉をひそめ、腕を組んだ。
「幽霊だと? 非科学的だ。聴覚の錯覚か、単に彼女の三半規管が不調なだけではないのか? ビタミンB12が不足している可能性がある」
「いえ、ジェラルド様。……確かに、響きが変です」
リディアはロビーの中央に立ち、パン、と手を叩いた。
乾いた音が壁に当たり、不自然に長く、そして硬質に反響して戻ってくる。
いわゆるフラッターエコーに近い現象が起きている。
「改装で変えたのは、壁紙と絨毯、そして絵画の額縁だけだと聞きましたが?」
「はい。絵画は、立派なオーク材の新品の額縁に入れ替えました。以前のボロボロだった額縁は全て廃棄しまして……」
支配人の言葉に、リディアの中でパズルが嵌まった。
「……原因は、その立派な新品です」
リディアは壁に飾られた巨大な肖像画の前に立った。
磨き上げられた硬いオーク材の額縁は、鏡のように光を反射している。
「以前の額縁は、虫食いだらけでスカスカの木材でしたね?」
「ええ、恥ずかしい限りですが。穴だらけで、触ると粉が落ちるような代物でした」
「その穴が重要だったのです」
リディアは、新品の額縁の硬い表面をコンコンと叩いた。
「多孔質の古い木材や、虫食い穴は、音の振動を吸収する吸音材の役割を果たしていました。ですが、この高密度で硬い新品の額縁は、音を吸収せず、そのまま強く跳ね返してしまいます」
彼女はロビー全体を見渡した。
「壁一面に飾られた数十枚の絵画。それら全てが、今まで音を吸っていたスポンジから、音を跳ね返す鏡に変わってしまった。……それが、過剰な反響を生み、歌手たちの声を狂わせている幽霊の正体です」
支配人は口をあんぐりと開けた。
まさか、額縁ひとつでホールの音響が変わるとは。
「で、では、元のボロボロの額縁に戻せと!? もう捨ててしまいましたが……」
「いいえ。見た目の美しさは維持したまま、物理的な処置を施せばいいだけです」
リディアは道具箱から、厚手のフェルト生地を取り出した。
「額縁の裏側に、この吸音フェルトを挟み込みましょう。そして壁と額縁の間にわずかな隙間の空気層を作って設置します。そうすれば、新しい額縁でも音の反射を制御できます」
リディアの指示通り、全ての額縁に吸音加工が施された。
数時間後。
再び歌ってみたプリマドンナは、目を輝かせてその胸の前で手を組んだ。
「ブラボー! 素晴らしいわ! 幽霊は消えて、私の天使の歌声が戻ったわ!」
「……現金なものだ」
ジェラルドは呆れたように肩を竦めたが、その表情は満足げだった。
「トラブル解決の報酬だ、リディア。今夜の公演、貴賓席を確保した。……私の隣で、鑑賞する義務を命じる」
「えっ、あ、はい! 喜んでお供します」
それは実質的なデートの誘いだった。
その夜。
リディアは、ジェラルドが用意してくれたドレスに身を包んでいた。
彼女の瞳の色と同じ、深い瑠璃色のドレス。
髪はアップにして、小さな真珠の髪飾りをつけている。
眼鏡はそのままだが、それがかえって知的な魅力を引き立てていた。
ロビーに現れたリディアを見て、ジェラルドの動きが完全に止まった。
「……ジェラルド様? あの、似合いませんでしょうか……」
「……いや」
ジェラルドは咳払いをし、視線を泳がせた。
「似合いすぎている。……心拍数が上昇し、交感神経が優位になっている。健康に悪いレベルだ」
「ふふ、褒め言葉として受け取っておきます」
リディアがはにかむと、周囲の男性客たちの視線が一斉に彼女に注がれた。
「おい、あの子誰だ?」
「可愛いな」
「辺境伯の連れか?」
好奇心と、明らかな下心を含んだ視線。
リディアが居心地悪そうに身を縮めると、ジェラルドが一歩前に出た。
彼は無言で、周囲をぐるりと見渡した。
その眼光は、獲物を狙う猛獣のように鋭く、こめかみには微かに青筋が浮いている。
――ヒッ。
ロビー中の男性客が、一斉に目を逸らした。
中には恐怖でグラスを取り落としそうになる者もいた。
「……ふん」
ジェラルドは鼻を鳴らし、リディアに腕を差し出した。
「行くぞ。害虫駆除は完了した」
「あ、ありがとうございます……」
「……いいことを教えてやろう。この顔をただ置いておくだけで、君に群がる有象無象を散らすことができる。これも顔面割引の応用だ」
得意げに言う彼に、リディアは笑いを堪えきれなかった。
「ジェラルド様のそのお力、私のためだけに使ってくださいね」
「当然だ。君の護衛ができるのは、世界で私一人だ」
差し出された腕に、そっと手を添える。
硬い筋肉の感触と、伝わってくる体温。
ホールから響くオーケストラの調音よりも、リディアには二人の鼓動の音の方が心地よく聞こえていた。
美しく修復された歌劇場で、不器用な二人の、素敵な夜が始まろうとしていた。
しかし今日、そのロビーはプリマドンナのヒステリックな叫び声で震えていた。
「歌えませんわ! こんな呪われたホールでは!」
ソプラノ歌手の豊満な胸が、怒りで大きく波打っている。
支配人はオロオロとハンカチで汗を拭い、駆けつけたジェラルドとリディアに泣きついた。
「閣下、リディア様……、これです。改装工事を終えてから、歌手や演奏家たちから『音が変わった』『自分の声が幽霊のように遅れて聞こえる』と苦情が殺到しておりまして……」
ジェラルドは眉をひそめ、腕を組んだ。
「幽霊だと? 非科学的だ。聴覚の錯覚か、単に彼女の三半規管が不調なだけではないのか? ビタミンB12が不足している可能性がある」
「いえ、ジェラルド様。……確かに、響きが変です」
リディアはロビーの中央に立ち、パン、と手を叩いた。
乾いた音が壁に当たり、不自然に長く、そして硬質に反響して戻ってくる。
いわゆるフラッターエコーに近い現象が起きている。
「改装で変えたのは、壁紙と絨毯、そして絵画の額縁だけだと聞きましたが?」
「はい。絵画は、立派なオーク材の新品の額縁に入れ替えました。以前のボロボロだった額縁は全て廃棄しまして……」
支配人の言葉に、リディアの中でパズルが嵌まった。
「……原因は、その立派な新品です」
リディアは壁に飾られた巨大な肖像画の前に立った。
磨き上げられた硬いオーク材の額縁は、鏡のように光を反射している。
「以前の額縁は、虫食いだらけでスカスカの木材でしたね?」
「ええ、恥ずかしい限りですが。穴だらけで、触ると粉が落ちるような代物でした」
「その穴が重要だったのです」
リディアは、新品の額縁の硬い表面をコンコンと叩いた。
「多孔質の古い木材や、虫食い穴は、音の振動を吸収する吸音材の役割を果たしていました。ですが、この高密度で硬い新品の額縁は、音を吸収せず、そのまま強く跳ね返してしまいます」
彼女はロビー全体を見渡した。
「壁一面に飾られた数十枚の絵画。それら全てが、今まで音を吸っていたスポンジから、音を跳ね返す鏡に変わってしまった。……それが、過剰な反響を生み、歌手たちの声を狂わせている幽霊の正体です」
支配人は口をあんぐりと開けた。
まさか、額縁ひとつでホールの音響が変わるとは。
「で、では、元のボロボロの額縁に戻せと!? もう捨ててしまいましたが……」
「いいえ。見た目の美しさは維持したまま、物理的な処置を施せばいいだけです」
リディアは道具箱から、厚手のフェルト生地を取り出した。
「額縁の裏側に、この吸音フェルトを挟み込みましょう。そして壁と額縁の間にわずかな隙間の空気層を作って設置します。そうすれば、新しい額縁でも音の反射を制御できます」
リディアの指示通り、全ての額縁に吸音加工が施された。
数時間後。
再び歌ってみたプリマドンナは、目を輝かせてその胸の前で手を組んだ。
「ブラボー! 素晴らしいわ! 幽霊は消えて、私の天使の歌声が戻ったわ!」
「……現金なものだ」
ジェラルドは呆れたように肩を竦めたが、その表情は満足げだった。
「トラブル解決の報酬だ、リディア。今夜の公演、貴賓席を確保した。……私の隣で、鑑賞する義務を命じる」
「えっ、あ、はい! 喜んでお供します」
それは実質的なデートの誘いだった。
その夜。
リディアは、ジェラルドが用意してくれたドレスに身を包んでいた。
彼女の瞳の色と同じ、深い瑠璃色のドレス。
髪はアップにして、小さな真珠の髪飾りをつけている。
眼鏡はそのままだが、それがかえって知的な魅力を引き立てていた。
ロビーに現れたリディアを見て、ジェラルドの動きが完全に止まった。
「……ジェラルド様? あの、似合いませんでしょうか……」
「……いや」
ジェラルドは咳払いをし、視線を泳がせた。
「似合いすぎている。……心拍数が上昇し、交感神経が優位になっている。健康に悪いレベルだ」
「ふふ、褒め言葉として受け取っておきます」
リディアがはにかむと、周囲の男性客たちの視線が一斉に彼女に注がれた。
「おい、あの子誰だ?」
「可愛いな」
「辺境伯の連れか?」
好奇心と、明らかな下心を含んだ視線。
リディアが居心地悪そうに身を縮めると、ジェラルドが一歩前に出た。
彼は無言で、周囲をぐるりと見渡した。
その眼光は、獲物を狙う猛獣のように鋭く、こめかみには微かに青筋が浮いている。
――ヒッ。
ロビー中の男性客が、一斉に目を逸らした。
中には恐怖でグラスを取り落としそうになる者もいた。
「……ふん」
ジェラルドは鼻を鳴らし、リディアに腕を差し出した。
「行くぞ。害虫駆除は完了した」
「あ、ありがとうございます……」
「……いいことを教えてやろう。この顔をただ置いておくだけで、君に群がる有象無象を散らすことができる。これも顔面割引の応用だ」
得意げに言う彼に、リディアは笑いを堪えきれなかった。
「ジェラルド様のそのお力、私のためだけに使ってくださいね」
「当然だ。君の護衛ができるのは、世界で私一人だ」
差し出された腕に、そっと手を添える。
硬い筋肉の感触と、伝わってくる体温。
ホールから響くオーケストラの調音よりも、リディアには二人の鼓動の音の方が心地よく聞こえていた。
美しく修復された歌劇場で、不器用な二人の、素敵な夜が始まろうとしていた。
298
あなたにおすすめの小説
地味で役に立たないと言われて捨てられましたが、王弟殿下のお相手としては最適だったようです
有賀冬馬
恋愛
「君は地味で、将来の役に立たない」
そう言われ、幼なじみの婚約者にあっさり捨てられた侯爵令嬢の私。
社交界でも忘れ去られ、同情だけを向けられる日々の中、私は王宮の文官補佐として働き始める。
そこで出会ったのは、権力争いを嫌う変わり者の王弟殿下。
過去も噂も問わず、ただ仕事だけを見て評価してくれる彼の隣で、私は静かに居場所を見つけていく。
そして暴かれる不正。転落していく元婚約者。
「君が隣にいない宮廷は退屈だ」
これは、選ばれなかった私が、必要とされる私になる物語。
地味な私では退屈だったのでしょう? 最強聖騎士団長の溺愛妃になったので、元婚約者はどうぞお好きに
有賀冬馬
恋愛
「君と一緒にいると退屈だ」――そう言って、婚約者の伯爵令息カイル様は、私を捨てた。
選んだのは、華やかで社交的な公爵令嬢。
地味で無口な私には、誰も見向きもしない……そう思っていたのに。
失意のまま辺境へ向かった私が出会ったのは、偶然にも国中の騎士の頂点に立つ、最強の聖騎士団長でした。
「君は、僕にとってかけがえのない存在だ」
彼の優しさに触れ、私の世界は色づき始める。
そして、私は彼の正妃として王都へ……
崖からポイ捨てされた不運令嬢ですが、銀髪イケメン竜王に『最愛の伴侶』としてスカウトされました!
有賀冬馬
恋愛
不作も天災も、全部わたしのせい!?
「不運な女」と虐げられ、生贄として崖から捨てられたわたし、ミラ。
でも、落ちた先で待っていたのは、まぶしいほど綺麗な銀髪の竜王・アルベルト様でした!
「君がいたから、この国は守られていたんだよ」
えっ、わたしって実はすごい聖女だったの!?
竜宮城で贅沢三昧&溺愛生活スタート!
そんな中、わたしを捨てて大ピンチになった元婚約者が「ミラ、戻ってきて!」と泣きついてきて……。
「地味で無能」と捨てられた令嬢は、冷酷な【年上イケオジ公爵】に嫁ぎました〜今更私の価値に気づいた元王太子が後悔で顔面蒼白になっても今更遅い
腐ったバナナ
恋愛
伯爵令嬢クラウディアは、婚約者のアルバート王太子と妹リリアンに「地味で無能」と断罪され、公衆の面前で婚約破棄される。
お飾りの厄介払いとして押し付けられた嫁ぎ先は、「氷壁公爵」と恐れられる年上の冷酷な辺境伯アレクシス・グレイヴナー公爵だった。
当初は冷徹だった公爵は、クラウディアの才能と、過去の傷を癒やす温もりに触れ、その愛を「二度と失わない」と固く誓う。
彼の愛は、包容力と同時に、狂気的な独占欲を伴った「大人の愛」へと昇華していく。
何もしない公爵夫人ですが、なぜか屋敷がうまく回っています
鷹 綾
恋愛
辺境公爵カーネル・クリスの妻となったフィレ・バーナード。
けれど彼女は、屋敷を仕切ることも、改革を行うことも、声高に意見を述べることもしなかった。
指示を出さない。
判断を奪わない。
必要以上に関わらない。
「何もしない夫人」として、ただ静かにそこにいるだけ。
それなのに――
いつの間にか屋敷は落ち着き、
使用人たちは迷わなくなり、
人は出入りし、戻り、また進んでいくようになる。
誰かに依存しない。
誰かを支配しない。
それでも確かに“安心できる場所”は、彼女の周りに残っていた。
必要とされなくてもいい。
役に立たなくてもいい。
それでも、ここにいていい。
これは、
「何もしない」ことで壊れなかった関係と、
「奪わない」ことで続いていった日常を描く、
静かでやさしい結婚生活の物語。
辺境に追放されたガリガリ令嬢ですが、助けた男が第三王子だったので人生逆転しました。~実家は危機ですが、助ける義理もありません~
香木陽灯
恋愛
「そんなに気に食わないなら、お前がこの家を出ていけ!」
実の父と義妹に虐げられ、着の身着のままで辺境のボロ家に追放された伯爵令嬢カタリーナ。食べるものもなく、泥水のようなスープですすり、ガリガリに痩せ細った彼女が庭で拾ったのは、金色の瞳を持つ美しい男・ギルだった。
「……見知らぬ人間を招き入れるなんて、馬鹿なのか?」
「一人で食べるのは味気ないわ。手当てのお礼に一緒に食べてくれると嬉しいんだけど」
二人の奇妙な共同生活が始まる。ギルが獲ってくる肉を食べ、共に笑い、カタリーナは本来の瑞々しい美しさを取り戻していく。しかしカタリーナは知らなかった。彼が王位継承争いから身を隠していた最強の第三王子であることを――。
※ふんわり設定です。
※他サイトにも掲載中です。
『壁の花』の地味令嬢、『耳が良すぎる』王子殿下に求婚されています〜《本業》に差し支えるのでご遠慮願えますか?〜
水都 ミナト
恋愛
マリリン・モントワール伯爵令嬢。
実家が運営するモントワール商会は王国随一の大商会で、優秀な兄が二人に、姉が一人いる末っ子令嬢。
地味な外観でパーティには来るものの、いつも壁側で1人静かに佇んでいる。そのため他の令嬢たちからは『地味な壁の花』と小馬鹿にされているのだが、そんな嘲笑をものととせず彼女が壁の花に甘んじているのには理由があった。
「商売において重要なのは『信頼』と『情報』ですから」
※設定はゆるめ。そこまで腹立たしいキャラも出てきませんのでお気軽にお楽しみください。2万字程の作品です。
※カクヨム様、なろう様でも公開しています。
無能と婚約破棄された公爵令嬢ですが、冷徹皇帝は有能より“無害”を選ぶそうです
鷹 綾
恋愛
「君は普通だ。……いや、普通以下だ」
王太子にそう言われ、婚約を破棄された公爵令嬢フォウ。
王国でも屈指の有能一族に生まれながら、彼女だけは“平凡”。
兄は天才、妹は可憐で才色兼備、両親も社交界の頂点――
そんな家の中で「普通」は“無能”と同義だった。
王太子が選んだのは、有能で華やかな妹。
だがその裏で、兄は教会を敵に回し、父は未亡人の名誉を踏みにじり、母は国家機密を売り、妹は不貞を重ね、そして王太子は――王を越えようとした。
越えた者から崩れていく。
やがて王太子は廃嫡、公爵家は解体。
ただ一人、何も奪わず、何も越えなかったフォウだけが切り離される。
そんな彼女に手を差し伸べたのは、隣国の若き冷徹皇帝。
「有能は制御が難しい。無害のほうが使える」
駒として選ばれたはずの“無能な令嬢”。
けれど――
越えなかった彼女こそ、最後まで壊れなかった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる