捨てられた地味な王宮修復師(実は有能)、強面辺境伯の栄養管理で溺愛され、辺境を改革する ~王都の貴重な物が失われても知りませんよ?~

水上

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第23話:国境の古地図

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 辺境伯領の東、隣国との国境付近で緊張が高まっていた。

 原因は、先日開発に成功した青の渓谷――最高級ラピスラズリの鉱山だ。
 その莫大な経済価値を知った隣国が、突然「あの土地は本来、我が国の領土である」と主張し始めたのである。

「……盗人猛々しいとはこのことだ」

 辺境伯邸の応接室。
 ジェラルドは革張りのソファに深く沈み込み、不快そうに唸った。

 対面に座っているのは、隣国から派遣された特使、ザガン伯爵だ。
 細長い口髭を撫でながら、慇懃無礼な笑みを浮かべている。

「人聞きが悪いですなぁ、ジェラルド閣下。我々はただ、正当な権利を主張しているだけです。……これをご覧ください」

 ザガンは従者に命じ、一枚の古びた羊皮紙をテーブルに広げさせた。

 それは、この地方の地図だった。
 紙は茶色く変色し、所々が虫に食われてボロボロになっている。
 いかにも数百年は経過していそうな代物だ。

「これは三百年前、我が国の王家が作成させた公式地図です。ご覧ください、国境線が現在よりも西側……、つまり青の渓谷を含む位置に引かれています」

 ザガンの指が、太く黒いインクで引かれた国境線をなぞる。
 確かにその線は、鉱山を隣国側に取り込むように大きく湾曲していた。

「もしこれを認めなければ、我が国は武力による国境線の修正も辞さない構えです」

「……戦争をちらつかせて脅迫か。野蛮な連中だ」

 ジェラルドの目が剣呑に光る。
 だが、相手が三百年前の証拠を出してきた以上、無下にはできない。
 国際法上、古い条約や地図は強力な効力を持つ。

「リディア」

 ジェラルドが傍らに控えていたリディアを呼んだ。

「鑑定してくれ。……この紙切れが、本当に三百年前の真実を語っているのかを」

「かしこまりました」

 リディアは静かに進み出た。
 ザガンが鼻で笑う。

「おや、このような小娘に何がわかると? これは王立図書館で厳重に保管されていた一級資料ですよ」

「……失礼いたします」

 リディアは雑音を無視し、愛用のルーペを取り出した。
 彼女の視線は、国境線そのものではなく、紙のあちこちに空いている小さな穴に向けられた。

(……紙魚の食害痕ですね。確かに、紙自体はかなり古いもののようです)

 紙魚は、古書や掛け軸を食べる虫だ。
 その食い跡は不規則で、レース状の穴を作る。
 この地図にも、無数の虫食い穴が散らばっていた。

 リディアはルーペの倍率を上げ、問題の国境線と虫食い穴が重なっている部分を凝視した。

「……見つけました」

 リディアは顔を上げ、ジェラルドに向かって小さく頷いた。
 ジェラルドがニヤリと口角を上げる。

「特使殿。……残念だが、お引き取り願おうか」

「な、なんですと!? 証拠を無視するおつもりか!」

「証拠? ああ、確かに証拠だ。偽造の証拠と呼ぶべきだがな」

 ジェラルドの言葉に、ザガンが顔を真っ赤にして立ち上がった。

「侮辱だ! 偽造とはどういうことだ!」

「リディア、教えてやれ」

 リディアは冷静に、地図の一点を指差した。

「特使様。ここをご覧ください。黒い国境線が、虫食いの穴を横切っていますね」

「それがどうした! 古い地図なんだ、虫くらい食うだろう!」

「ええ。ですが問題はインクの滲みです」

 リディアはルーペをザガンに手渡した。

「よく見てください。線が穴の縁にかかった部分……、インクが紙の断面に染み込み、穴の内側に向かって微かに滲んでいるのが見えませんか?」

 ザガンがおずおずと覗き込む。
 確かに、黒いインクは穴のギザギザした断面に沿って、じわりと広がっていた。

「これが何を意味するかお分かりですか? ……線が引かれた時、そこには『いうことです」

 リディアの声が、静まり返った室内に響く。

「もし三百差前に線が引かれ、その後に虫が食べたのなら、線ごと紙が失われているはずです。インクが穴の断面に滲むことはありません。……つまり、この線は、虫が紙を食べてボロボロにした後――ごく最近になってから、古い紙の上に書き足されたものです」

 リディアの指摘は、物理的に反論不可能な事実だった。

 インクは、存在しない穴の縁には滲まない。
 穴が開いてから書いたからこそ、毛細管現象で断面にインクが吸われたのだ。

「な、な……っ!」

 ザガンは言葉を失い、パクパクと口を開閉させた。
 古い羊皮紙を用意し、わざわざ虫食いまで再現して古さを演出したのだろうが、その虫食いこそが命取りになったのだ。

 ジェラルドがテーブルを拳で叩いた。

「聞いたな? 貴国のご先祖様は、三百年後の虫食いの位置を予知して線を引く能力をお持ちだったらしい。……あるいは、貴様らが昨日今日、適当に線を引いただけか」

 ジェラルドがゆっくりと立ち上がる。その影が、ザガンを完全に飲み込んだ。
 子供が泣くどころか、歴戦の猛者でも失神しそうな外交用の笑顔が炸裂する。

「偽造文書を使って他国の領土を掠め取ろうとする行為……これは宣戦布告と受け取っていいのだな? 我が軍はいつでも相手になるぞ。……青の渓谷で採れた顔料で、貴様らの顔を真っ青に塗ってやろうか?」

「ひ、ひぃぃっ!!」

 ザガンは地図をひったくり、逃げるように後ずさった。

「ご、誤解だ! 資料の取り違えがあったようだ! で、出直してくる!」

 捨て台詞を残し、特使一行は嵐のように去っていった。

 彼らが二度とこの件で戻ってくることはないだろう。
 この恥ずべき偽造工作が公になれば、国際的な信用を失うのは彼らの方だからだ。

「……ふん。口ほどにもない」

 ジェラルドはソファに座り直し、ネクタイを緩めた。

「見事だったぞ、リディア。虫食いの穴一つで、一国を退けるとはな」

「修復師にとって、虫食いの痕跡を見極めるのは基本ですから。……後から書き足されたサインや偽の署名を見抜く時によく使う手です」

 リディアが淡々と答えると、ジェラルドは満足げに頷いた。

「私の武力と、君の知力。……この二つが揃えば、我が領地は無敵だ」

 彼はリディアを手招きし、隣に座らせた。

「外交交渉で勝ったご褒美だ。……君の好きな画材でも、甘い菓子でも、何でも要求していいぞ」

「でしたら……」

 リディアは少し考え、はにかむように微笑んだ。

「今夜はジェラルド様の手料理が食べたいです。……あの、お野菜たっぷりのスープを」

「……そんなものでいいのか?」

「はい。ジェラルド様のスープは、どんな高級料理よりも元気が出ますから」

 ジェラルドは一瞬きょとんとし、それから耳を赤くしてそっぽを向いた。

「……承知した。副交感神経を優位にし、良質な睡眠を誘う特別メニューを用意しよう。有能な知恵袋を飢えさせるわけにはいかんからな」

 国境の危機を救ったのは、軍隊でも剣でもなく、一人の少女の静かな観察眼だった。
 頼もしいパートナーと共に、リディアは平和な夕食の時間を迎えるのだった。
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