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第24話:震える指
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その日の午後、辺境伯邸の空気は重苦しく淀んでいた。
王都から来た使者が去った後も、リディアの心臓の早鐘は止まらなかった。
『これは王太子殿下からの慈悲深い最後通告である。直ちに王都へ戻り、王家のための奉仕を行え。さもなくば、君の実家であるクロワ家がどうなるか……、賢明な君ならわかるね?』
使者が残していった言葉は、明確な脅迫だった。
絶縁されたとはいえ、実家の両親や使用人たちに罪はない。
自分のせいで彼らが路頭に迷うかもしれないという恐怖が、リディアの胸を冷たく締め付けていた。
「……大丈夫。断る権利はこちらにあるはず……」
リディアはアトリエに戻り、自分に言い聞かせるように呟いた。
目の前には、修復中の油彩画がある。
作業に没頭すれば、不安も消えるはずだ。
そう信じて、いつものように面相筆を握った。
だが。
「……っ」
筆先が、小刻みに揺れていた。
止めようと力を込めれば込めるほど、震えは大きくなる。
指先が自分の意思を離れ、勝手に痙攣しているようだ。
王宮で罵倒され続けた日々の記憶がフラッシュバックする。
『役立たず』『お前の代わりなどいくらでもいる』『実家の恥晒しめ』――幻聴が耳元で囁く。
「だめ……、止まって、お願い……」
リディアは左手で右手を抑え込んだ。
それでも震えは止まらない。
筆の軸がパレットに当たる音が、不気味に響く。
呼吸が浅くなり、視界が滲む。
その時、温かく大きな手が、リディアの両手を包み込んだ。
「……過呼吸気味だ。息を吐け」
頭上から降ってきたのは、ジェラルドの落ち着いた声だった。
彼はリディアの背後から覆いかぶさるようにして、震える手を優しく固定した。
「ジェラルド、様……。私、手が……、仕事が、できない……」
「喋るな。まずは呼吸の制御だ。……吸って、吐く。私の呼吸に合わせろ」
ジェラルドの胸板が、リディアの背中でゆっくりと上下する。
その大きく安定したリズムに身を委ねていると、パニックで浅くなっていた呼吸が少しずつ深くなっていった。
リディアが落ち着いたのを確認すると、ジェラルドは手を離し、ポケットから小さな包みを取り出した。
「口を開けろ」
放り込まれたのは、香ばしいナッツだった。
アーモンド、カシューナッツ、そして昆布のような海藻のチップスが混ざっている。
「……これは?」
「マグネシウム爆弾だ。神経の興奮を鎮め、筋肉の収縮を正常化するマグネシウムを大量に含んでいる」
ジェラルドはリディアに椅子を勧め、自分も近くの椅子を引き寄せて座った。
「極度のストレスや恐怖を感じると、体内からマグネシウムが急速に尿として排出される。それが神経過敏や筋肉の痙攣――つまり震えを引き起こす原因だ」
彼は淡々と、医学的な事実として解説した。
「君が弱いわけではない。単なるミネラル不足という生理現象だ。これを食えば、物理的に神経伝達は正常化する」
心が弱いから震えるのではないという彼の言葉に、リディアは救われた。
精神論で叱咤するのではなく、身体の仕組みとして許容してくれる。
リディアはポリポリとナッツを噛み砕いた。
塩気と香ばしさが口に広がり、張り詰めていた神経が少しずつ緩んでいくのがわかる。
「それと、これも飲め」
ジェラルドが次に差し出したのは、湯気の立つマグカップだった。
ほろ苦いカカオの香りに、ピリッとした刺激臭が混じっている。
「スパイシー・ココアだ。テオブロミンで血管を拡張し、チリパウダーとシナモンで血流を末端まで押し流す。……冷えた指先を温めれば、動きも滑らかになる」
リディアはカップを両手で包み、一口飲んだ。
濃厚なココアの甘さの後から、スパイスの熱が喉を駆け下りる。
胃の底からじんわりと温まり、こわばっていた肩の力が抜けていく。
「……ありがとうございます。少し、落ち着きました」
リディアは小さく息を吐いた。
だが、カップを置こうとした指先は、まだ微かに震えていた。
マグネシウムやカカオで身体の調子は整っても、心の奥底にこびりついた王都への恐怖までは、すぐには消えない。
「……すみません。まだ、少し……」
リディアが情けなさそうに俯くと、ジェラルドは何も言わず、彼女の手を自分の膝の上に引き寄せた。
そして、その大きく温かい両手で、リディアの震える手をすっぽりと包み込んだ。
「精神論で震えは止まらんと言ったが……、医学的アプローチでも止まらないなら、物理的に止めるまでだ」
「え……?」
「震えが止まるまで、私がこうして握っていてやる。……今夜はずっとだ」
ジェラルドは真剣な眼差しでリディアを見つめた。
「王都の脅しなど気にするな。実家への圧力? 上等だ。ならば私がクロワ家の借金を全て買い取り、君の両親ごとこの領地へ亡命させてやってもいい」
「ジェラルド様……」
「君を不安にさせる要素は、私が全て排除する。君はただ、安心してその筆を握ればいい」
彼の掌からは、体温以上の熱が伝わってきた。
それは絶対に守るという、揺るぎない意志の熱だった。
不思議なことに、彼の手に包まれていると、あれほど止まらなかった震えが、嘘のように静まっていく。
「……ジェラルド様の手は、魔法の手ですね」
「ただの大きな手だ。……だが、君の支えになるなら、いくらでも貸してやる」
その夜、ジェラルドは言葉通り、リディアが眠りにつくまでずっと手を握り続けてくれた。
王都からの呼び出しという暗い影はまだ消えていない。
けれど、この温かい手が繋がっている限り、リディアはもう二度と、孤独な恐怖に震えることはないだろう。
翌朝、アトリエに向かったリディアの筆先には、迷い一つない、凛とした線が引かれていた。
王都から来た使者が去った後も、リディアの心臓の早鐘は止まらなかった。
『これは王太子殿下からの慈悲深い最後通告である。直ちに王都へ戻り、王家のための奉仕を行え。さもなくば、君の実家であるクロワ家がどうなるか……、賢明な君ならわかるね?』
使者が残していった言葉は、明確な脅迫だった。
絶縁されたとはいえ、実家の両親や使用人たちに罪はない。
自分のせいで彼らが路頭に迷うかもしれないという恐怖が、リディアの胸を冷たく締め付けていた。
「……大丈夫。断る権利はこちらにあるはず……」
リディアはアトリエに戻り、自分に言い聞かせるように呟いた。
目の前には、修復中の油彩画がある。
作業に没頭すれば、不安も消えるはずだ。
そう信じて、いつものように面相筆を握った。
だが。
「……っ」
筆先が、小刻みに揺れていた。
止めようと力を込めれば込めるほど、震えは大きくなる。
指先が自分の意思を離れ、勝手に痙攣しているようだ。
王宮で罵倒され続けた日々の記憶がフラッシュバックする。
『役立たず』『お前の代わりなどいくらでもいる』『実家の恥晒しめ』――幻聴が耳元で囁く。
「だめ……、止まって、お願い……」
リディアは左手で右手を抑え込んだ。
それでも震えは止まらない。
筆の軸がパレットに当たる音が、不気味に響く。
呼吸が浅くなり、視界が滲む。
その時、温かく大きな手が、リディアの両手を包み込んだ。
「……過呼吸気味だ。息を吐け」
頭上から降ってきたのは、ジェラルドの落ち着いた声だった。
彼はリディアの背後から覆いかぶさるようにして、震える手を優しく固定した。
「ジェラルド、様……。私、手が……、仕事が、できない……」
「喋るな。まずは呼吸の制御だ。……吸って、吐く。私の呼吸に合わせろ」
ジェラルドの胸板が、リディアの背中でゆっくりと上下する。
その大きく安定したリズムに身を委ねていると、パニックで浅くなっていた呼吸が少しずつ深くなっていった。
リディアが落ち着いたのを確認すると、ジェラルドは手を離し、ポケットから小さな包みを取り出した。
「口を開けろ」
放り込まれたのは、香ばしいナッツだった。
アーモンド、カシューナッツ、そして昆布のような海藻のチップスが混ざっている。
「……これは?」
「マグネシウム爆弾だ。神経の興奮を鎮め、筋肉の収縮を正常化するマグネシウムを大量に含んでいる」
ジェラルドはリディアに椅子を勧め、自分も近くの椅子を引き寄せて座った。
「極度のストレスや恐怖を感じると、体内からマグネシウムが急速に尿として排出される。それが神経過敏や筋肉の痙攣――つまり震えを引き起こす原因だ」
彼は淡々と、医学的な事実として解説した。
「君が弱いわけではない。単なるミネラル不足という生理現象だ。これを食えば、物理的に神経伝達は正常化する」
心が弱いから震えるのではないという彼の言葉に、リディアは救われた。
精神論で叱咤するのではなく、身体の仕組みとして許容してくれる。
リディアはポリポリとナッツを噛み砕いた。
塩気と香ばしさが口に広がり、張り詰めていた神経が少しずつ緩んでいくのがわかる。
「それと、これも飲め」
ジェラルドが次に差し出したのは、湯気の立つマグカップだった。
ほろ苦いカカオの香りに、ピリッとした刺激臭が混じっている。
「スパイシー・ココアだ。テオブロミンで血管を拡張し、チリパウダーとシナモンで血流を末端まで押し流す。……冷えた指先を温めれば、動きも滑らかになる」
リディアはカップを両手で包み、一口飲んだ。
濃厚なココアの甘さの後から、スパイスの熱が喉を駆け下りる。
胃の底からじんわりと温まり、こわばっていた肩の力が抜けていく。
「……ありがとうございます。少し、落ち着きました」
リディアは小さく息を吐いた。
だが、カップを置こうとした指先は、まだ微かに震えていた。
マグネシウムやカカオで身体の調子は整っても、心の奥底にこびりついた王都への恐怖までは、すぐには消えない。
「……すみません。まだ、少し……」
リディアが情けなさそうに俯くと、ジェラルドは何も言わず、彼女の手を自分の膝の上に引き寄せた。
そして、その大きく温かい両手で、リディアの震える手をすっぽりと包み込んだ。
「精神論で震えは止まらんと言ったが……、医学的アプローチでも止まらないなら、物理的に止めるまでだ」
「え……?」
「震えが止まるまで、私がこうして握っていてやる。……今夜はずっとだ」
ジェラルドは真剣な眼差しでリディアを見つめた。
「王都の脅しなど気にするな。実家への圧力? 上等だ。ならば私がクロワ家の借金を全て買い取り、君の両親ごとこの領地へ亡命させてやってもいい」
「ジェラルド様……」
「君を不安にさせる要素は、私が全て排除する。君はただ、安心してその筆を握ればいい」
彼の掌からは、体温以上の熱が伝わってきた。
それは絶対に守るという、揺るぎない意志の熱だった。
不思議なことに、彼の手に包まれていると、あれほど止まらなかった震えが、嘘のように静まっていく。
「……ジェラルド様の手は、魔法の手ですね」
「ただの大きな手だ。……だが、君の支えになるなら、いくらでも貸してやる」
その夜、ジェラルドは言葉通り、リディアが眠りにつくまでずっと手を握り続けてくれた。
王都からの呼び出しという暗い影はまだ消えていない。
けれど、この温かい手が繋がっている限り、リディアはもう二度と、孤独な恐怖に震えることはないだろう。
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