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第1話:妻の成果は夫の手柄
夜明け前の工房は、冷えた薬品と古い油の匂いが沈殿していた。
薄暗いランプの明かりの下、ロザリンド・バークリーは震える指先でその布地を撫でた。
スポイトから垂らした水滴は、染み込むことなく、まるで水銀のように表面を転がり落ちた。
「完成した……」
乾いた唇から、熱を帯びた吐息が漏れる。
撥水絹。
それは、バークリー伯爵家が代々経営する繊維工場の、積年の課題だった。
絹の美しい光沢を維持したまま、水汚れに強い特性を持たせる。
先代から続く赤字を埋め、傾いた家運を立て直すための起死回生の一手。
ロザリンドはこの半年間、寝る間も惜しんで配合実験を繰り返してきた。
指先は薬品で荒れ、かつて社交界で讃えられたプラチナブロンドの髪も、今は無造作にひっつめられている。
けれど、この布さえあれば。
彼女は充血した瞳をこすり、作業台に突っ伏すようにして安堵の息をついた。
これで夫も認めてくれるだろうか。
数字と効率ばかりを口にする可愛げのない妻ではなく、バークリー家を支えるパートナーとして。
工房の重い扉が開いたのは、東の空が白み始めた頃だった。
「やあ、ロザリンド。まだやっていたのかい?」
現れたのは、夫のヴィンセント・バークリーだった。
仕立ての良いモーニングコートに身を包み、蜂蜜色の髪を完璧に整えている。
徹夜明けでボロボロのロザリンドとは対照的に、彼は爽やかな朝の光そのものだった。
「ヴィンセント様、ご覧ください。ついに成功しましたの。この配合比率なら、コストを抑えつつ撥水性を――」
ロザリンドは弾む心で報告書を差し出した。
だが、ヴィンセントはそれを手に取ることもなく、作業台の上の布地へと歩み寄った。
「ふうん。これがそうか」
彼は布をつまみ上げ、無造作に光に透かす。
ロザリンドの心臓が跳ねた。
それはまだ定着処理を終えたばかりの、繊細な試作品だ。
素手で乱暴に扱えば、皮脂で変色する恐れがある。
「あ、あの、ヴィンセント様。そこを持つと……」
「ロザリンド」
ヴィンセントは穏やかな、しかし有無を言わせない笑みを向けて彼女を遮った。
「君はいつも細かいことを気にしすぎるね。だから眉間に皺が寄るんだよ」
彼は諭すように言いながら、布地を自分の懐に入れた。
「まあとにかく、ご苦労だったね。私の指導通りに動いてくれたおかげで、ようやく形になったようだ」
ロザリンドは言葉を失った。
指導?
彼は一度として現場に来たことはない。
「君の好きなようにやればいい」と丸投げし、予算の承認印を押すことさえ渋っていたではないか。
薬品の調達も、職人への頭下げも、すべてロザリンドが一人で行ったのだ。
「ですが、これは私が独自の計算式で……」
「そうそう、今日の新作発表会でこれを披露するから。君も準備しておいで。ああ、その顔色の悪さは化粧で隠してくれよ? 妻がやつれていると、私が苦労させているように見えてしまうからね」
ヴィンセントは優雅に手を振り、踵を返した。
彼にとってロザリンドの徹夜の結晶は、自分が発表するための小道具でしかなかった。
胸の奥で、黒い澱のようなものが渦巻いた。
だが、ロザリンドはそれをぐっと飲み込んだ。
今はまだ、事業を成功させることが先決だ。
個人の感情は、経営の邪魔にしかならない。
彼女は自分にそう言い聞かせ、冷え切った紅茶を一気に飲み干した。
薄暗いランプの明かりの下、ロザリンド・バークリーは震える指先でその布地を撫でた。
スポイトから垂らした水滴は、染み込むことなく、まるで水銀のように表面を転がり落ちた。
「完成した……」
乾いた唇から、熱を帯びた吐息が漏れる。
撥水絹。
それは、バークリー伯爵家が代々経営する繊維工場の、積年の課題だった。
絹の美しい光沢を維持したまま、水汚れに強い特性を持たせる。
先代から続く赤字を埋め、傾いた家運を立て直すための起死回生の一手。
ロザリンドはこの半年間、寝る間も惜しんで配合実験を繰り返してきた。
指先は薬品で荒れ、かつて社交界で讃えられたプラチナブロンドの髪も、今は無造作にひっつめられている。
けれど、この布さえあれば。
彼女は充血した瞳をこすり、作業台に突っ伏すようにして安堵の息をついた。
これで夫も認めてくれるだろうか。
数字と効率ばかりを口にする可愛げのない妻ではなく、バークリー家を支えるパートナーとして。
工房の重い扉が開いたのは、東の空が白み始めた頃だった。
「やあ、ロザリンド。まだやっていたのかい?」
現れたのは、夫のヴィンセント・バークリーだった。
仕立ての良いモーニングコートに身を包み、蜂蜜色の髪を完璧に整えている。
徹夜明けでボロボロのロザリンドとは対照的に、彼は爽やかな朝の光そのものだった。
「ヴィンセント様、ご覧ください。ついに成功しましたの。この配合比率なら、コストを抑えつつ撥水性を――」
ロザリンドは弾む心で報告書を差し出した。
だが、ヴィンセントはそれを手に取ることもなく、作業台の上の布地へと歩み寄った。
「ふうん。これがそうか」
彼は布をつまみ上げ、無造作に光に透かす。
ロザリンドの心臓が跳ねた。
それはまだ定着処理を終えたばかりの、繊細な試作品だ。
素手で乱暴に扱えば、皮脂で変色する恐れがある。
「あ、あの、ヴィンセント様。そこを持つと……」
「ロザリンド」
ヴィンセントは穏やかな、しかし有無を言わせない笑みを向けて彼女を遮った。
「君はいつも細かいことを気にしすぎるね。だから眉間に皺が寄るんだよ」
彼は諭すように言いながら、布地を自分の懐に入れた。
「まあとにかく、ご苦労だったね。私の指導通りに動いてくれたおかげで、ようやく形になったようだ」
ロザリンドは言葉を失った。
指導?
彼は一度として現場に来たことはない。
「君の好きなようにやればいい」と丸投げし、予算の承認印を押すことさえ渋っていたではないか。
薬品の調達も、職人への頭下げも、すべてロザリンドが一人で行ったのだ。
「ですが、これは私が独自の計算式で……」
「そうそう、今日の新作発表会でこれを披露するから。君も準備しておいで。ああ、その顔色の悪さは化粧で隠してくれよ? 妻がやつれていると、私が苦労させているように見えてしまうからね」
ヴィンセントは優雅に手を振り、踵を返した。
彼にとってロザリンドの徹夜の結晶は、自分が発表するための小道具でしかなかった。
胸の奥で、黒い澱のようなものが渦巻いた。
だが、ロザリンドはそれをぐっと飲み込んだ。
今はまだ、事業を成功させることが先決だ。
個人の感情は、経営の邪魔にしかならない。
彼女は自分にそう言い聞かせ、冷え切った紅茶を一気に飲み干した。
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