「君の成果は私の指導のおかげ」と笑うモラハラ夫は、幼馴染みにご執心です。~では、私がいなくなったらどうなるか、拝見させていただきましょう~

水上

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第15話:脱出の糸口

「……そちらが、奥方かな?」

 ヴィンセントは一瞬、面白くなさそうな顔をしたが、すぐに愛想笑いを浮かべた。

「ええ、妻のロザリンドです。見ての通り、少し堅物でしてね。私の指示がないと何もできない女ですが、まあ、手先だけは器用なんですよ」

 彼はロザリンドの肩を抱き寄せ、所有物であることを誇示するように指に力を込めた。
 ロザリンドは、痛みを表情に出さず、優雅にカーテシーを行った。

「お初にお目にかかります、ヴァルモア会長。ロザリンド・バークリーでございます」

「……ふむ」

 会長は、ロザリンドの瞳をじっと覗き込んだ。
 その鋭い視線に、ロザリンドは怯まなかった。

 むしろ、彼女の方から静かに視線を合わせた。
 それは、言葉を交わさずとも通じ合う、プロフェッショナル同士の通信のような一瞬だった。

「バークリー伯爵」

 会長はヴィンセントに向き直ったが、その興味は明らかに失せていた。

「工場の機械をピンク色に塗ったそうだな」

「ええ! ご存じでしたか! やはり業界のトレンドとして――」

「……機械が泣いていなければいいがな」

 皮肉を皮肉と受け取らず、ヴィンセントは「ははは、機械にも感情があれば喜んでいるでしょう」と笑った。

 会長は小さく溜息をつき、再びロザリンドを見た。
 今度は、その目に明確な敬意が宿っていた。

「奥方。……いや、ロザリンド女史とお呼びすべきかな」

 その呼び方に、ヴィンセントが眉をひそめる。
 会長は懐から一枚の名刺を取り出し、ロザリンドに差し出した。

 それは、一般には出回っていない、会長直通の連絡先が記された特別なカードだった。

「実は、我が商会では今、新しい紡績工場の設立を計画していてね。だが、現場を統括できる真に優秀な技師長が不足しているのだ」

 会長は意味深に言葉を切った。

「もし、貴女のような優れた見識を持つ方が、その手腕を自由に振るえる環境をお探しなら……、いつでも歓迎するよ」

 ヴィンセントは横で、「ははは、会長も冗談がお上手だ。妻にそんな大役が務まるはずがないでしょう。彼女は私の管理下にあってこそ輝くのですから」と笑い飛ばした。

 だが、ロザリンドは知っていた。

 これは冗談ではない。
 正式なヘッドハンティングだ。

 彼女は震える手を押さえ、恭しくその名刺を受け取った。

「……過分なお言葉、光栄に存じます」

 ロザリンドは顔を上げた。
 その時、彼女の能面の微笑みに、わずかな、しかし確かな意思の光が宿った。

「その技師長の不足につきましては……、近日中に、良いご報告ができるかと存じます」

「ほう?」

 会長の口元がニヤリと上がった。

 彼はロザリンドの意図を――彼女が近々、今の環境を捨てるつもりであることを――瞬時に悟ったのだ。

「それは楽しみだ。秋の果実は、熟して落ちるのを待つだけでは手に入らんからな。……吉報を待っている」

 会長は軽く帽子に手を触れ、去っていった。
 残されたヴィンセントは、上機嫌だった。

「やったぞ、ロザリンド! 会長に気に入られたようだ。私の社交術のおかげだな」

「ええ、旦那様。本当に……、素晴らしい成果でございました」

 ロザリンドは、手の中の名刺を強く握りしめた。
 その厚みのある紙の感触だけが、この虚飾に満ちた夜会の中で唯一の現実だった。

(ありがとう、ヴィンセント。貴方が無能なおかげで、私の価値をご存じの方が向こうから来てくださいました)

 彼女は、隣で勝ち誇っている夫を、もはや憐れむことすらしなかった。

 彼は知らない。
 自分が繋いだと思っていた縁が、実は妻の脱出用ロープであったことを。

 そして、そのロープの端を、彼自身が笑顔で手渡してしまったことを。

「さあ、帰ろうか。ミエルが退屈して待っているかもしれない」

「はい、旦那様」

 ロザリンドは名刺をハンドバッグの奥深くに滑り込ませた。
 それは、彼女の未来への片道切符だった。

 会場を後にする彼女の背中は、冷たい月の光を浴びて、どこまでも毅然としていた。

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