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第16話:旅立つ者たちと残された者たち
翌朝、バークリー伯爵邸の玄関ホールには、山のような革鞄が積み上げられていた。
今日から二週間、ヴィンセントとミエルは視察という名目で、避暑地の別荘へ向かうことになっていた。
もちろん、実態はただの遊興旅行だ。
「ヴィンセントぉ、あの帽子どこに入れたっけぇ? ピンクのリボンのやつぅ」
「ああ、あれならロザリンドが別の鞄に入れてくれたはずだよ。……おい、ロザリンド。ミエルの帽子は?」
ヴィンセントが苛立たしげに声を張り上げる。
ロザリンドは、階段の上から静かに降りてきた。
手には、きっちりと畳まれたショールと、ミエルが探していた帽子を持っている。
「こちらでございます、ミエルさん。朝晩は冷え込みますから、ショールも一緒に入れておきましたわ」
彼女は慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、帽子を手渡した。
「わぁい! さすがロザリンドさん、気が利くぅ!」
ミエルは帽子を受け取ると、鏡の前で被り始めた。
ヴィンセントは、そんな妻の働きぶりを見て満足げに頷いた。
「うん、よくやった。君もこのくらい気が回るようになれば、一人前の妻と言えるな」
彼はロザリンドの肩に手を置き、恩着せがましく言った。
「本当は君も連れて行ってやりたかったんだがね。工場の管理があるだろう? 誰かが留守を守らなければならないからな。君はそういう裏方の仕事が好きだから、ちょうどいいだろう?」
その言葉には、「お前のような地味な女は、華やかな場所には相応しくない」という侮蔑と、「来なくてよかった」という安堵が透けて見えた。
ロザリンドは、その手から逃げることなく、深く頭を下げた。
「お気遣い痛み入ります、旦那様。私は屋敷の守りに専念いたしますので、どうぞ心置きなく楽しんでいらしてくださいませ」
その声は、湧き水のように澄んでいた。
一点の曇りもない、完璧な従順。
ヴィンセントは機嫌を良くし、「土産くらいは買ってきてやるよ」と笑った。
馬車が到着し、御者が荷物を積み込み始める。
ミエルははしゃいで馬車に乗り込み、窓から手を振った。
「行ってきまぁす! お土産、期待しててねぇ!」
ヴィンセントも乗り込み、窓から顔を出した。
「留守を頼んだぞ。戻ったら、例の新しい取引の話を聞かせてもらうからな」
「はい。……どうぞ、お気をつけて」
ロザリンドは、馬車が見えなくなるまで、門の前で深くお辞儀を続けた。
蹄の音が遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなった時。
彼女はゆっくりと顔を上げた。
その表情から、先ほどまでの温和な微笑みは完全に消え失せていた。
あるのは、氷のような冷徹さと、任務遂行の鋭さだけ。
「……行きましたね」
彼女は踵を返し、屋敷の中へと戻った。
玄関ホールには、数名の使用人が整列して待っていた。
執事、料理長、そして数名のメイドたち。
彼らの表情もまた、どこか晴れ晴れとしていた。
「奥様」
執事が一歩前に出た。
「全員、準備は整っております。給金の精算も、奥様からいただいた退職金で全て完了いたしました」
「ええ、ありがとう。皆、今までよく耐えてくれましたね」
ロザリンドは初めて、心の底からの感謝を込めて彼らに微笑みかけた。
それは作り物ではない、人間らしい温かみのある表情だった。
彼らもまた、ロザリンドの手配によって、ヴァルモア商会系列の屋敷やホテルへの再就職が決まっていた。
給料の未払いが続くこの泥船から、ロザリンドと共に脱出するのだ。
「さあ、急ぎましょう。彼らが戻るまで二週間ありますが、痕跡を残さず消えるには時間が惜しいわ」
号令と共に、屋敷では大規模な引っ越しの準備が始まった。
今日から二週間、ヴィンセントとミエルは視察という名目で、避暑地の別荘へ向かうことになっていた。
もちろん、実態はただの遊興旅行だ。
「ヴィンセントぉ、あの帽子どこに入れたっけぇ? ピンクのリボンのやつぅ」
「ああ、あれならロザリンドが別の鞄に入れてくれたはずだよ。……おい、ロザリンド。ミエルの帽子は?」
ヴィンセントが苛立たしげに声を張り上げる。
ロザリンドは、階段の上から静かに降りてきた。
手には、きっちりと畳まれたショールと、ミエルが探していた帽子を持っている。
「こちらでございます、ミエルさん。朝晩は冷え込みますから、ショールも一緒に入れておきましたわ」
彼女は慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、帽子を手渡した。
「わぁい! さすがロザリンドさん、気が利くぅ!」
ミエルは帽子を受け取ると、鏡の前で被り始めた。
ヴィンセントは、そんな妻の働きぶりを見て満足げに頷いた。
「うん、よくやった。君もこのくらい気が回るようになれば、一人前の妻と言えるな」
彼はロザリンドの肩に手を置き、恩着せがましく言った。
「本当は君も連れて行ってやりたかったんだがね。工場の管理があるだろう? 誰かが留守を守らなければならないからな。君はそういう裏方の仕事が好きだから、ちょうどいいだろう?」
その言葉には、「お前のような地味な女は、華やかな場所には相応しくない」という侮蔑と、「来なくてよかった」という安堵が透けて見えた。
ロザリンドは、その手から逃げることなく、深く頭を下げた。
「お気遣い痛み入ります、旦那様。私は屋敷の守りに専念いたしますので、どうぞ心置きなく楽しんでいらしてくださいませ」
その声は、湧き水のように澄んでいた。
一点の曇りもない、完璧な従順。
ヴィンセントは機嫌を良くし、「土産くらいは買ってきてやるよ」と笑った。
馬車が到着し、御者が荷物を積み込み始める。
ミエルははしゃいで馬車に乗り込み、窓から手を振った。
「行ってきまぁす! お土産、期待しててねぇ!」
ヴィンセントも乗り込み、窓から顔を出した。
「留守を頼んだぞ。戻ったら、例の新しい取引の話を聞かせてもらうからな」
「はい。……どうぞ、お気をつけて」
ロザリンドは、馬車が見えなくなるまで、門の前で深くお辞儀を続けた。
蹄の音が遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなった時。
彼女はゆっくりと顔を上げた。
その表情から、先ほどまでの温和な微笑みは完全に消え失せていた。
あるのは、氷のような冷徹さと、任務遂行の鋭さだけ。
「……行きましたね」
彼女は踵を返し、屋敷の中へと戻った。
玄関ホールには、数名の使用人が整列して待っていた。
執事、料理長、そして数名のメイドたち。
彼らの表情もまた、どこか晴れ晴れとしていた。
「奥様」
執事が一歩前に出た。
「全員、準備は整っております。給金の精算も、奥様からいただいた退職金で全て完了いたしました」
「ええ、ありがとう。皆、今までよく耐えてくれましたね」
ロザリンドは初めて、心の底からの感謝を込めて彼らに微笑みかけた。
それは作り物ではない、人間らしい温かみのある表情だった。
彼らもまた、ロザリンドの手配によって、ヴァルモア商会系列の屋敷やホテルへの再就職が決まっていた。
給料の未払いが続くこの泥船から、ロザリンドと共に脱出するのだ。
「さあ、急ぎましょう。彼らが戻るまで二週間ありますが、痕跡を残さず消えるには時間が惜しいわ」
号令と共に、屋敷では大規模な引っ越しの準備が始まった。
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