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第18話:終わりの合図
王都から馬車で半日ほどの距離にある、商業都市の一角。
ヴァルモア商会が所有するゲストハウスの一室で、ロザリンドは湯気の立つコーヒーカップを手にしていた。
部屋はシンプルだが、調度品は上質で、何より静かだった。
怒鳴り声も、甘ったるい媚び声も、無理難題を押し付ける足音も聞こえない。
「……不思議ね」
ロザリンドは窓の外、活気ある港の風景を眺めながら呟いた。
かつては、この時間といえば戦場だった。
ヴィンセントの朝の支度、ミエルの気まぐれな朝食の注文、使用人への指示、そして工場のトラブル対応。
それら全てを同時にこなしながら、自分の感情を押し殺す日々。
だが今、彼女の手にあるのは、自分のためだけに淹れられたコーヒーと、これから始まる自分の仕事への期待だけだ。
コンコン、と控えめなノックがあった。
「ロザリンド様、商会の使いの者が参りました。新しい研究所の準備が整ったとのことです」
新しい雇い主であるヴァルモア会長の秘書の声だ。
「ええ、すぐに参ります」
ロザリンドはカップを置いた。
鏡に映る自分を見る。
顔色は良く、瞳には理知的な光が戻っていた。
彼女はもうバークリー伯爵夫人ではない。
一人の技術者、ロザリンド・ハミルトンとして、ここに立っている。
ふと、彼女の脳裏に、捨ててきた屋敷のことがよぎった。
あの巨大な屋敷は今頃、どうなっているだろうか。
ロザリンドは口元をわずかに緩めた。
それは感傷ではない。計算通りに作動した仕掛けへの、冷徹な確認作業だった。
その頃、バークリー伯爵邸では、最後の一人が裏門をくぐろうとしていた。
家政婦長のネリッサである。
彼女はこの屋敷に二十年仕えてきた古株だったが、その手には大きな旅行鞄が握られていた。
彼女は一度だけ振り返り、主のいない屋敷を見上げた。
カーテンは閉ざされ、窓は黒い瞳のように虚ろだ。
本来なら、主人が留守の間こそ、使用人は屋敷を磨き上げ、帰宅を待つものである。
だが、今のバークリー家に待つ義理のある使用人は一人もいなかった。
「……世話になったね。でも、もう潮時だよ」
ネリッサは低く呟いた。
ここ数ヶ月、ヴィンセントから給金が支払われたことは一度もなかった。
「経営が厳しいから待ってくれ」と言いながら、彼はミエルには高価な宝石を買い与えていた。
使用人たちの生活を支えていたのは、ロザリンドが実家の資産や、彼女自身のへそくりを切り崩して支払っていた給金だったのだ。
そのロザリンドが出て行った。
彼女は去り際に、全員分の退職金と、次の職場への紹介状を渡してくれた。
『今まで、わがままな夫に付き合ってくれてありがとう。でも、もう泥船に付き合う必要はないわ。あなた達の人生を生きなさい』
ロザリンドの、あの能面のような微笑みが、最後だけは人間らしい悲しみを帯びていたことを、ネリッサは忘れないだろう。
厨房には、食材一つ残っていない。
暖炉の薪も、備蓄庫のワインも、金目の銀食器も、すべて未払い給与の現物支給として、使用人たちが持ち去った。
残っているのは、ヴィンセントが自慢していた、趣味の悪い肖像画と、重たい家具だけ。
埃は、生きている人間がいなくなると、驚くべき速さで積もるものだ。
廊下の隅には、すでに薄っすらと白いものが浮き始めている。
花瓶の水は抜かれ、花は挿されていない。
ロザリンドが毎日欠かさず生けていた季節の花がなくなると、この屋敷がいかに冷たく、無機質な石の塊であるかが露呈した。
「さようなら、旦那様。……ご自分で靴下くらい、履けるようになるといいですね」
ネリッサは皮肉っぽく呟き、重い鉄の門を閉めた。
カチャン、という錠が下りる音が、バークリー家の終わりの合図のように響いた。
風が吹き抜け、庭の落ち葉がカサカサと舞う。
それを掃く者は、もう誰も残っていなかった。
ヴァルモア商会が所有するゲストハウスの一室で、ロザリンドは湯気の立つコーヒーカップを手にしていた。
部屋はシンプルだが、調度品は上質で、何より静かだった。
怒鳴り声も、甘ったるい媚び声も、無理難題を押し付ける足音も聞こえない。
「……不思議ね」
ロザリンドは窓の外、活気ある港の風景を眺めながら呟いた。
かつては、この時間といえば戦場だった。
ヴィンセントの朝の支度、ミエルの気まぐれな朝食の注文、使用人への指示、そして工場のトラブル対応。
それら全てを同時にこなしながら、自分の感情を押し殺す日々。
だが今、彼女の手にあるのは、自分のためだけに淹れられたコーヒーと、これから始まる自分の仕事への期待だけだ。
コンコン、と控えめなノックがあった。
「ロザリンド様、商会の使いの者が参りました。新しい研究所の準備が整ったとのことです」
新しい雇い主であるヴァルモア会長の秘書の声だ。
「ええ、すぐに参ります」
ロザリンドはカップを置いた。
鏡に映る自分を見る。
顔色は良く、瞳には理知的な光が戻っていた。
彼女はもうバークリー伯爵夫人ではない。
一人の技術者、ロザリンド・ハミルトンとして、ここに立っている。
ふと、彼女の脳裏に、捨ててきた屋敷のことがよぎった。
あの巨大な屋敷は今頃、どうなっているだろうか。
ロザリンドは口元をわずかに緩めた。
それは感傷ではない。計算通りに作動した仕掛けへの、冷徹な確認作業だった。
その頃、バークリー伯爵邸では、最後の一人が裏門をくぐろうとしていた。
家政婦長のネリッサである。
彼女はこの屋敷に二十年仕えてきた古株だったが、その手には大きな旅行鞄が握られていた。
彼女は一度だけ振り返り、主のいない屋敷を見上げた。
カーテンは閉ざされ、窓は黒い瞳のように虚ろだ。
本来なら、主人が留守の間こそ、使用人は屋敷を磨き上げ、帰宅を待つものである。
だが、今のバークリー家に待つ義理のある使用人は一人もいなかった。
「……世話になったね。でも、もう潮時だよ」
ネリッサは低く呟いた。
ここ数ヶ月、ヴィンセントから給金が支払われたことは一度もなかった。
「経営が厳しいから待ってくれ」と言いながら、彼はミエルには高価な宝石を買い与えていた。
使用人たちの生活を支えていたのは、ロザリンドが実家の資産や、彼女自身のへそくりを切り崩して支払っていた給金だったのだ。
そのロザリンドが出て行った。
彼女は去り際に、全員分の退職金と、次の職場への紹介状を渡してくれた。
『今まで、わがままな夫に付き合ってくれてありがとう。でも、もう泥船に付き合う必要はないわ。あなた達の人生を生きなさい』
ロザリンドの、あの能面のような微笑みが、最後だけは人間らしい悲しみを帯びていたことを、ネリッサは忘れないだろう。
厨房には、食材一つ残っていない。
暖炉の薪も、備蓄庫のワインも、金目の銀食器も、すべて未払い給与の現物支給として、使用人たちが持ち去った。
残っているのは、ヴィンセントが自慢していた、趣味の悪い肖像画と、重たい家具だけ。
埃は、生きている人間がいなくなると、驚くべき速さで積もるものだ。
廊下の隅には、すでに薄っすらと白いものが浮き始めている。
花瓶の水は抜かれ、花は挿されていない。
ロザリンドが毎日欠かさず生けていた季節の花がなくなると、この屋敷がいかに冷たく、無機質な石の塊であるかが露呈した。
「さようなら、旦那様。……ご自分で靴下くらい、履けるようになるといいですね」
ネリッサは皮肉っぽく呟き、重い鉄の門を閉めた。
カチャン、という錠が下りる音が、バークリー家の終わりの合図のように響いた。
風が吹き抜け、庭の落ち葉がカサカサと舞う。
それを掃く者は、もう誰も残っていなかった。
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