「君の成果は私の指導のおかげ」と笑うモラハラ夫は、幼馴染みにご執心です。~では、私がいなくなったらどうなるか、拝見させていただきましょう~

水上

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第22話:止まった歯車

 翌朝、ヴィンセントは寒さと空腹で目を覚ました。
 ベッドから起き上がっても、洗面器の水は替えられておらず、髭を剃るためのお湯もない。

「お腹すいたぁ、髪がまとまらないよぉ」というミエルのぐずり声が聞こえてくる。

「……くそッ、ロザリンドのやつ、いつまで意地を張っているんだ」

 ヴィンセントは苛立ちを露わにしながら、皺の寄ったシャツに袖を通した。
 自分でボタンを留めるのに手間取り、爪を噛む。

 屋敷には食べるものがない。
 金庫も空だ。

 だが、彼にはまだ工場がある。
 あそこへ行けば、売上金があるはずだ。

 それに、自分が顔を出せば、職人たちが恐縮して食事くらい用意するだろう。

「ミエル、出かけるぞ。工場へ行く」

「えぇ~? またあの臭いところぉ? 私、カフェでパンケーキが食べたいのにぃ」

「後で食わせてやるから、とにかく来い!」

 ヴィンセントはミエルの腕を強引に引き、屋敷を出た。

 彼はまだ信じていた。
 自分がその場に現れさえすれば、世界は再び都合よく回り出すのだと。

 工場の正門をくぐった瞬間、ヴィンセントは異変を感じた。

 音がしない。
 いつもならピストン音と、機織りのリズミカルな音が轟いているはずの時間だ。

 しかし、そこには不気味な静寂と、職人たちの怒号だけが響いていた。

「おい、どうなっている!」

 ヴィンセントが工場の中へと踏み込む。
 目に飛び込んできたのは、無惨な光景だった。

 先日、ミエルの発案で塗り替えられたピンク色の精紡機。
 毒々しいショッキングピンクの塗料で厚塗りされたその機械たちは、完全に沈黙していた。

 そして、その周囲を、油と汗にまみれた職人たちが取り囲み、殺気立った目で睨み合っている。

「社長! やっと来やがったか!」

 職長が、ヴィンセントの姿を認めるなり駆け寄ってきた。

 いつもの卑屈な態度はどこにもない。
 その目は血走っていた。

「どういうことだ、職長。なぜラインが止まっている? サボタージュか?」

 ヴィンセントが威圧しようと声を張り上げるが、職長は怯まなかった。
 むしろ、唾を吐き捨てるように言い返した。

「サボタージュだぁ? ふざけるな! 機械が動かねえんだよ!」

 職長は、ピンク色の鉄塊をスパナで指し示した。

「あんたたちが塗らせたペンキだ! あれがギアの隙間に流れ込んで、熱で固着しちまったんだよ! 無理に動かそうとしたら、心棒が焼き付いて煙を吹きやがった!」

 ヴィンセントは絶句した。

 近づいて見ると、確かに可動部の継ぎ目から、黒く焦げた油とピンク色の塗料が混ざったような、不快な粘着物が溢れ出している。

「な……馬鹿な。たかがペンキくらいで、鉄の機械が壊れるわけがないだろう」

「たかがペンキだと!? ここはミクロン単位の調整が必要な精密機械なんだぞ! それを『可愛くしろ』だなんてふざけた命令しやがって!」

 職長の声に呼応するように、周りの職人たちも詰め寄ってきた。

「どうすんだよ! これじゃ仕事にならねえ!」

「今月の給料は出るんだろうな!」

「あんたが強引にやれって言ったんだろ!」

 罵声の嵐。
 ヴィンセントは後ずさりした。

 彼らがこんな風に牙を剥くなど、想像もしていなかった。
 社長である自分は絶対的な存在であり、彼らはただ命令に従う手足だと思っていたからだ。

 その手足が今、制御不能になって暴れ出そうとしている。

「ひっ……! ヴィンセントぉ、怖いよぉ!」

 後ろに隠れていたミエルが、悲鳴を上げた。
 彼女は職人たちの剣幕に怯えながらも、震える声で口を挟んだ。

「な、なによぉ! みんなして意地悪言わないでよ! 機械だって、可愛くしてあげたんだから喜んでるはずでしょ!?」

 一瞬、場が静まり返った。
 そして次の瞬間、職人の一人が冷え冷えとした声で言った。

「……喜んでる? これがか?」

 彼は、ピンク色の塗料にまみれて動かなくなった、死体のような機械を蹴り飛ばした。

「あんたのそののせいで、俺たちの飯の種が死んだんだよ! 何が可愛いだ! ふざけるのもいい加減にしろ!」

 ミエルは「ひいっ」と喉を鳴らし、涙目でヴィンセントにしがみついた。

「な、なにあの人たち……、野蛮人! ヴィンセント、なんとか言ってよぉ! 私、悪くないもん! 愛があれば動くはずだもん!」

 ヴィンセントは脂汗を拭った。
 愛だの可愛さだので機械が直るなら苦労はない。

 そんなことは、今の彼でもわかる。
 必要なのは解決策だ。

「わ、わかった。落ち着け! 修理すればいいんだろう、修理すれば!」

 ヴィンセントは叫んだ。

「分解して洗浄しろ! マニュアルがあるはずだ!」

 職長が、冷ややかな目で見返した。

「マニュアル? ああ、あるぜ。事務所の棚にな」

「なら、それを見ればいいじゃないか!」

「……見てみろよ。あんたに読めるならな」

 不吉な予感がした。

 ヴィンセントは職人たちを押し退け、工場に併設された事務所へと走った。
 
 そこで、絶望が口を開けて待っているとも知らずに……。

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