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第24話:理解が追いつかない男
バークリー伯爵邸の玄関のベルが、神経を逆撫でするような音を立てて鳴り響いた。
これで三度目だ。
ヴィンセントは、寒さと空腹で震える体を起こし、のろのろと玄関へ向かった。
使用人がいない今、当主である彼自身が対応せざるを得ない。
「……どなたかな。朝から騒々しい」
ドアを開けると、そこに立っていたのは、見慣れた銀行の制服を着た男だった。
以前、融資の相談をした際に揉み手をしていた担当者ではない。
冷徹な目をした、事務的な回収員だった。
「バークリー伯爵ですね。中央銀行の者です」
男は帽子も取らず、一通の封書を差し出した。
「当座貸越の返済期限が過ぎております。本日正午までに決済が確認できない場合、担保に入っているこの屋敷と工場の差し押さえ手続きに入ります」
「な……、なんだと?」
ヴィンセントは封筒をひったくった。
中には、赤いインクで『督促状』と書かれた紙が入っている。
「馬鹿な! 返済はまだ先のはずだ! それに、我が家は黒字経営だぞ。ちょっとした手違いだろう」
「手違いではありません。ここ数ヶ月、利息の支払いすら滞っております。これまでは奥様の個人口座から補填されていましたが、先日、その自動振替が停止されましたので」
男は淡々と事実を告げた。
「奥様の補填……?」
ヴィンセントは耳を疑った。
「何を言っている。家の借金を返していたのは、私の事業収益だ。妻の金など……」
「いいえ。事業収益は、伯爵が交際費や個人の遊興費として使い込まれていたため、実質的な返済原資は奥様の資産でした。……数字は嘘をつきませんよ」
男は冷ややかな視線をヴィンセントに向け、「では、正午までに」と言い残して去っていった。
ヴィンセントは執務室に駆け込んだ。
棚に残されていた帳簿を広げる。
ロザリンドが残していった、唯一の資料だ。
彼は必死にページをめくった。
銀行の男が言っていたことが嘘だと証明するために。
「ありえない……。私は社長だぞ。会社の金は私が稼いでいたはずだ……」
だが、帳簿に並ぶ数字は、彼にとって未知の言語だった。
『損益分岐点比率』
『歩留まり率』
『変動費調整額』
ロザリンドの幾帳面な文字で記された項目は、複雑な計算式で繋がっていた。
彼女は、ただ漫然と記録していたのではない。
原材料の相場変動、為替レート、季節ごとの需要予測を数式に組み込み、ギリギリのラインで黒字を捻出していたのだ。
ヴィンセントが利益だと思って自由に使っていた金は、実はロザリンドが将来の設備投資や納税準備金として積み立てていた金だった。
それを彼が浪費するたび、彼女は裏で自分のドレスや宝石を売り、実家の配当金を注ぎ込んで穴埋めをしていたのだ。
「……読めない」
ヴィンセントは頭を抱えた。
目の前の数字が、うねる蛇のように見えた。
彼は簡単な足し算と引き算しかしてこなかった。
売上が上がった、だから金がある、という程度の認識だった。
だが現実は違った。
売上が上がっても、彼がミエルにドレスを買えば、その瞬間に赤字に転落するような、薄氷の上の経営だったのだ。
その時、ドアが開いた。
「ヴィンセントぉ、お腹すいたよぉ。パンくらい焼いてよぉ」
ミエルが入ってきた。
彼女は髪もとかさず、不機嫌そうに頬を膨らませている。
ヴィンセントは藁にもすがる思いで顔を上げた。
「ミエル! ちょうどいいところに来た!」
「えぇ? なぁに?」
「計算だ! 君ならできるだろう? この帳簿を見てくれ。どこかに隠し財産があるはずなんだ。ロザリンドが隠したへそくりが!」
ヴィンセントはミエルを机の前に座らせ、帳簿を押し付けた。
「ほら、ここだ。この『繰越利益剰余金』というやつがどこにあるのか、計算してくれ!」
彼は必死の思いで言った。
しかし、彼女から返ってきた言葉は……。
これで三度目だ。
ヴィンセントは、寒さと空腹で震える体を起こし、のろのろと玄関へ向かった。
使用人がいない今、当主である彼自身が対応せざるを得ない。
「……どなたかな。朝から騒々しい」
ドアを開けると、そこに立っていたのは、見慣れた銀行の制服を着た男だった。
以前、融資の相談をした際に揉み手をしていた担当者ではない。
冷徹な目をした、事務的な回収員だった。
「バークリー伯爵ですね。中央銀行の者です」
男は帽子も取らず、一通の封書を差し出した。
「当座貸越の返済期限が過ぎております。本日正午までに決済が確認できない場合、担保に入っているこの屋敷と工場の差し押さえ手続きに入ります」
「な……、なんだと?」
ヴィンセントは封筒をひったくった。
中には、赤いインクで『督促状』と書かれた紙が入っている。
「馬鹿な! 返済はまだ先のはずだ! それに、我が家は黒字経営だぞ。ちょっとした手違いだろう」
「手違いではありません。ここ数ヶ月、利息の支払いすら滞っております。これまでは奥様の個人口座から補填されていましたが、先日、その自動振替が停止されましたので」
男は淡々と事実を告げた。
「奥様の補填……?」
ヴィンセントは耳を疑った。
「何を言っている。家の借金を返していたのは、私の事業収益だ。妻の金など……」
「いいえ。事業収益は、伯爵が交際費や個人の遊興費として使い込まれていたため、実質的な返済原資は奥様の資産でした。……数字は嘘をつきませんよ」
男は冷ややかな視線をヴィンセントに向け、「では、正午までに」と言い残して去っていった。
ヴィンセントは執務室に駆け込んだ。
棚に残されていた帳簿を広げる。
ロザリンドが残していった、唯一の資料だ。
彼は必死にページをめくった。
銀行の男が言っていたことが嘘だと証明するために。
「ありえない……。私は社長だぞ。会社の金は私が稼いでいたはずだ……」
だが、帳簿に並ぶ数字は、彼にとって未知の言語だった。
『損益分岐点比率』
『歩留まり率』
『変動費調整額』
ロザリンドの幾帳面な文字で記された項目は、複雑な計算式で繋がっていた。
彼女は、ただ漫然と記録していたのではない。
原材料の相場変動、為替レート、季節ごとの需要予測を数式に組み込み、ギリギリのラインで黒字を捻出していたのだ。
ヴィンセントが利益だと思って自由に使っていた金は、実はロザリンドが将来の設備投資や納税準備金として積み立てていた金だった。
それを彼が浪費するたび、彼女は裏で自分のドレスや宝石を売り、実家の配当金を注ぎ込んで穴埋めをしていたのだ。
「……読めない」
ヴィンセントは頭を抱えた。
目の前の数字が、うねる蛇のように見えた。
彼は簡単な足し算と引き算しかしてこなかった。
売上が上がった、だから金がある、という程度の認識だった。
だが現実は違った。
売上が上がっても、彼がミエルにドレスを買えば、その瞬間に赤字に転落するような、薄氷の上の経営だったのだ。
その時、ドアが開いた。
「ヴィンセントぉ、お腹すいたよぉ。パンくらい焼いてよぉ」
ミエルが入ってきた。
彼女は髪もとかさず、不機嫌そうに頬を膨らませている。
ヴィンセントは藁にもすがる思いで顔を上げた。
「ミエル! ちょうどいいところに来た!」
「えぇ? なぁに?」
「計算だ! 君ならできるだろう? この帳簿を見てくれ。どこかに隠し財産があるはずなんだ。ロザリンドが隠したへそくりが!」
ヴィンセントはミエルを机の前に座らせ、帳簿を押し付けた。
「ほら、ここだ。この『繰越利益剰余金』というやつがどこにあるのか、計算してくれ!」
彼は必死の思いで言った。
しかし、彼女から返ってきた言葉は……。
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