「君の成果は私の指導のおかげ」と笑うモラハラ夫は、幼馴染みにご執心です。~では、私がいなくなったらどうなるか、拝見させていただきましょう~

水上

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第32話:過去を振り返る男

 その日は、冷たい雨が降っていた。
 バークリー伯爵邸の正門には、太い鎖と錠前がかけられ、無慈悲な『差押』の貼紙が雨に濡れていた。

 ヴィンセント・バークリーは、傘もささずにその場に立ち尽くしていた。
 手にあるのは、薄汚れた革鞄が一つだけ。

 中身は、数着の衣類と、価値のないガラクタと化した思い出の品々だけだ。

「……嘘だ。こんなことが」

 彼は呟いたが、誰も答える者はいない。
 屋敷も、工場も、すべて銀行に持っていかれた。

 ミエルに持ち逃げされた宝石や銀食器があれば、少しは足しになったかもしれないが、今の彼には今日の宿代すら危うい小銭しか残っていなかった。

 通りすがりの馬車が泥水を跳ね上げていく。
 冷たい飛沫がヴィンセントの頬を打ち、彼は我に返った。

 行かなければならない。
 ここにはもう、彼の居場所はないのだから。

 王都の掃き溜めと呼ばれる下町の一角。
 腐った木材とカビの臭いが充満する安アパートの二階に、ヴィンセントの新しい城はあった。

 狭い部屋。
 家具は脚のグラつくテーブルと、煎餅のような薄いマットレスだけ。

 窓ガラスにはヒビが入っており、そこから容赦なく寒風が吹き込んでくる。

「……寒い」

 ヴィンセントは震える手でマッチを擦ろうとしたが、湿気っていて火がつかない。

 暖炉などという上等なものはない。
 あるのは小さなコンロだけだ。

 彼は何度もマッチを無駄にし、ようやく小さな火種を作ったが、濡れた薪は燻るばかりで、暖かい炎にはならなかった。

 逆に、目に染みる煙が部屋に充満し、彼は激しく咳き込んだ。

「ゲホッ、ゲホッ……! くそっ、どうしてつかないんだ!」

 苛立ちに任せて薪を蹴り飛ばすと、火の粉が舞い上がり、危うくマットレスを焦がしそうになった。

 彼は慌てて足で踏み消したが、その拍子に靴底が剥がれた。

 安物の革靴ではない。
 職人が仕立てた最高級の靴だったはずだ。

 だが、手入れをせずに泥道を歩き回ったせいで、ボロボロに朽ち果てていたのだ。

「ああ……」

 ヴィンセントはその場に座り込んだ。
 情けなくて、涙が出てきた。

 お腹が空いた。
 最後にまともな食事をしたのはいつだろう。

 彼は鞄から、市場で買ってきた硬い黒パンと、しなびた野菜を取り出した。
 スープを作ろうと思ったのだ。

 だが、包丁がない。
 鍋はあるが、中が錆びついている。

 今まで感じたことのない不自由を、ここ最近はずっと感じている。

「ロザリンド……」

 無意識に、その名前が口をついて出た。

 そして、遠い目をした彼は、かつての素晴らしい日常に想いを馳せていた。

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