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第36話:ほどけた糸
数年の月日が流れた。
王都の中央広場に面したガラス張りのホールは、かつてない熱気に包まれていた。
ヴァルモア商会・春の新作コレクション。
そのメインステージに立っていたのは、ロザリンド・ハミルトンだった。
彼女は今や、繊維業界でその名を知らぬ者はいないほどとなっていた。
彼女が開発した新素材は国境を越え、王侯貴族から軍部まで幅広く採用されている。
今日の彼女の装いは、淡い桜色のドレスだった。
かつて「地味な色が似合う」と自らを洗脳していた頃の面影はない。
その柔らかな色は、彼女の内側から溢れる幸福感と自信を体現しているようだった。
「……素晴らしい発表でした、ロザリンド」
ステージ袖に戻った彼女に、温かい声がかけられた。
アーサー・ヴァルモア。
商会の次期会頭であり、ロザリンドの現在のビジネスパートナーだ。
彼はロザリンドに敬意を払い、彼女の才能を誰よりも愛していた。
「ありがとう、アーサー。貴方のサポートのおかげよ」
ロザリンドは自然に微笑んだ。
その笑顔には、かつての能面のような冷たさは微塵もない。
目尻が下がり、瞳が温かく潤む。
それは、凍りついていた湖が春の日差しで溶け、その水面に美しい花々を映しているかのような、生身の女性の笑顔だった。
「君のアイデアだった着心地と機能性の融合、大成功だね。観客の目が釘付けだったよ」
「ええ。……昔は、『機能なんてどうでもいい、見た目が全てだ』と言われたこともあったけれど」
ロザリンドはふと、遠い過去を懐かしむように呟いた。
ヴィンセント・バークリー。
かつての夫。
彼の顔を思い出そうとしたが、霧がかかったようにぼんやりとしていて、うまく輪郭を結ばない。
憎しみも、悲しみも、もう風化していた。
彼との日々は、今の彼女を形成するための苦い教訓として消化され、血肉となっていたからだ。
「過去の話かい?」
アーサーが心配そうに覗き込む。
ロザリンドは首を横に振った。
「いいえ。ただ、今の私がどれほど恵まれているか、噛み締めていただけよ」
彼女はアーサーの手を取り、光の溢れるパーティー会場へと歩き出した。
そこには、彼女と対等に議論し、共に未来を創る仲間たちが待っている。
煌びやかなホールの外。
冷たい風が吹き荒れる石畳の路上に、一人の男がうずくまっていた。
ヴィンセント・バークリー。
かつて伯爵だった男は今、日雇いの荷運びでその日暮らしをしていた。
着ているのは支給されたボロ布のような作業着。
自慢だった蜂蜜色の髪は白髪混じりの脂ぎった塊となり、顔には深い皺と汚れが刻まれている。
「……うぅ、寒い」
彼は懐の硬貨を数えた。
今日の稼ぎはパン二つ分。
酒を買う余裕はない。
ふと、目の前のショーウィンドウが目に止まった。
そこには、華やかなドレスを着たマネキンが飾られている。
そして、その横に大きなポスターが貼られていた。
『繊維の女王、ロザリンド・ハミルトン』
ヴィンセントは、吸い寄せられるようにガラスに張り付いた。
ポスターの中の女性は、眩しいほどの笑顔でこちらを見ている。
彼が知っている能面の妻ではない。
彼が一度も引き出せなかった、心からの笑顔。
「あぁ……」
指先がガラスをなぞる。
冷たい。
その冷たさが、彼女との間にある決定的な断絶を突きつけてくる。
その時、ホールの大きな扉が開いた。
光と共に、着飾った人々が出てくる。
その中心に、彼女がいた。
王都の中央広場に面したガラス張りのホールは、かつてない熱気に包まれていた。
ヴァルモア商会・春の新作コレクション。
そのメインステージに立っていたのは、ロザリンド・ハミルトンだった。
彼女は今や、繊維業界でその名を知らぬ者はいないほどとなっていた。
彼女が開発した新素材は国境を越え、王侯貴族から軍部まで幅広く採用されている。
今日の彼女の装いは、淡い桜色のドレスだった。
かつて「地味な色が似合う」と自らを洗脳していた頃の面影はない。
その柔らかな色は、彼女の内側から溢れる幸福感と自信を体現しているようだった。
「……素晴らしい発表でした、ロザリンド」
ステージ袖に戻った彼女に、温かい声がかけられた。
アーサー・ヴァルモア。
商会の次期会頭であり、ロザリンドの現在のビジネスパートナーだ。
彼はロザリンドに敬意を払い、彼女の才能を誰よりも愛していた。
「ありがとう、アーサー。貴方のサポートのおかげよ」
ロザリンドは自然に微笑んだ。
その笑顔には、かつての能面のような冷たさは微塵もない。
目尻が下がり、瞳が温かく潤む。
それは、凍りついていた湖が春の日差しで溶け、その水面に美しい花々を映しているかのような、生身の女性の笑顔だった。
「君のアイデアだった着心地と機能性の融合、大成功だね。観客の目が釘付けだったよ」
「ええ。……昔は、『機能なんてどうでもいい、見た目が全てだ』と言われたこともあったけれど」
ロザリンドはふと、遠い過去を懐かしむように呟いた。
ヴィンセント・バークリー。
かつての夫。
彼の顔を思い出そうとしたが、霧がかかったようにぼんやりとしていて、うまく輪郭を結ばない。
憎しみも、悲しみも、もう風化していた。
彼との日々は、今の彼女を形成するための苦い教訓として消化され、血肉となっていたからだ。
「過去の話かい?」
アーサーが心配そうに覗き込む。
ロザリンドは首を横に振った。
「いいえ。ただ、今の私がどれほど恵まれているか、噛み締めていただけよ」
彼女はアーサーの手を取り、光の溢れるパーティー会場へと歩き出した。
そこには、彼女と対等に議論し、共に未来を創る仲間たちが待っている。
煌びやかなホールの外。
冷たい風が吹き荒れる石畳の路上に、一人の男がうずくまっていた。
ヴィンセント・バークリー。
かつて伯爵だった男は今、日雇いの荷運びでその日暮らしをしていた。
着ているのは支給されたボロ布のような作業着。
自慢だった蜂蜜色の髪は白髪混じりの脂ぎった塊となり、顔には深い皺と汚れが刻まれている。
「……うぅ、寒い」
彼は懐の硬貨を数えた。
今日の稼ぎはパン二つ分。
酒を買う余裕はない。
ふと、目の前のショーウィンドウが目に止まった。
そこには、華やかなドレスを着たマネキンが飾られている。
そして、その横に大きなポスターが貼られていた。
『繊維の女王、ロザリンド・ハミルトン』
ヴィンセントは、吸い寄せられるようにガラスに張り付いた。
ポスターの中の女性は、眩しいほどの笑顔でこちらを見ている。
彼が知っている能面の妻ではない。
彼が一度も引き出せなかった、心からの笑顔。
「あぁ……」
指先がガラスをなぞる。
冷たい。
その冷たさが、彼女との間にある決定的な断絶を突きつけてくる。
その時、ホールの大きな扉が開いた。
光と共に、着飾った人々が出てくる。
その中心に、彼女がいた。
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