「君の成果は私の指導のおかげ」と笑うモラハラ夫は、幼馴染みにご執心です。~では、私がいなくなったらどうなるか、拝見させていただきましょう~

水上

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第33話:残酷な現実に震える男

 かつて、仕事から帰ると、屋敷はいつも暖かかった。

 暖炉には最適な火加減で薪が燃え、テーブルには湯気の立つシチューと、焼きたての柔らかな白パンが並んでいた。

 風呂に入れば、熱いお湯がなみなみと張られ、ラベンダーの香りが疲れを癒やしてくれた。
 シャツに袖を通せば、糊が効いてパリッとしており、ボタンは一つとして綻んでいなかった。

 ヴィンセントは自分のシャツを見た。
 襟は黄ばみ、袖口は擦り切れ、一番上のボタンは三日前に取れたままだ。

 自分で縫おうとしたが、針で指を突き、糸が絡まって団子になり、結局諦めた。
 だから胸元がだらしなく開いている。

 彼はこれまで、それらが自動的に行われていると思っていた。
 貴族である自分には、快適な生活が約束されているのだと。

 だが違った。

 あの快適さは、ロザリンドという一人の女性が、見えないところで手を動かし、時間を削り、心を砕いて維持していた労働の結晶だったのだ。

「……あいつは、私を愛していたんじゃなかったのか?」

 ヴィンセントは、煤けた天井を見上げて呟いた。
 あんなに尽くしてくれた。

 自分の言うことには何でも「はい」と答え、彼が連れてきたミエルの世話まで完璧にこなしていた。
 あれが愛でなくて何だと言うんだ。

(それなのに、なぜ今、私はこんなところで一人震えているんだ?)

 理解できなかった。
 彼女が去った理由が、愛が尽きたからだとしても、ここまで徹底的に追い詰める必要があるのか。

 彼女は鬱憤を晴らすために懲らしめているだけだ。
 きっとそうだ。

 今にドアが開いて、「もう、しょうがない人ですね」と笑いながら入ってくるに違いない。
 そして、手際よくスープを作り、ボタンを付け直してくれるはずだ。

 ヴィンセントは期待を込めてドアを見た。
 だが、薄い板切れのようなドアは、風にガタガタと揺れるだけだった。

 隣の部屋から、夫婦喧嘩の声が聞こえてくる。

「あんたが稼ぎが悪いからよ!」

「うるせえ! お前こそ酒ばかり飲みやがって!」

 ドタン、バタン、という物音。
 それが今のヴィンセントの隣人たちだった。

 彼は硬いパンをかじった。
 石のように硬く、酸っぱい味がした。

 飲み込もうとして喉に詰まり、水で流し込む。
 水もまた、泥臭くて冷たかった。

「……帰りたい」

 伯爵邸へ? 
 いや、あそこはもう他人のものだ。

 では、どこへ?
 ロザリンドのいる場所へ?

 先日、商会で見た彼女の冷たい目を思い出し、ヴィンセントは身震いした。
 あそこには、自分の居場所はない。

 彼女はもう、ヴィンセントを必要としていない。

 その事実が、寒さよりも深く骨身に染みた。
 彼は膝を抱え、薄い毛布にくるまった。

 誰からも必要とされず、何もできず、ただ呼吸をして排泄するだけの肉塊。
 それが、バークリー伯爵であるヴィンセントの成れの果てだった。

 夜が深まり、雨音が強くなる。

 かつてはロザリンドが温めてくれていたベッドの感触を思い出しながら、ヴィンセントは孤独という名の氷の棺の中で、浅い眠りに落ちていった。

 夢の中でさえ、彼女は背を向けたまま、決して振り返ってはくれなかった。

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