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第3話:論理的断罪
「この論文の図表3に示された、80℃環境下での剪断強度データについて質問があります」
「は?」
予想外の切り返しに、ジュリアンが口を開けたまま固まる。
ヴィオラは書類を指先で弾き、冷徹に追い打ちをかけた。
「ここです。80℃で強度が40%低下したとありますが、この試験片の養生時間と湿度管理の詳細はどうなっていますか? グラフのカーブを見る限り、明らかに硬化不良を起こした状態で加熱試験を行っていますね」
「よ、養生……? しつど……?」
「さらに言えば、使用されている被着体の表面処理についての記述が抜けています。私の配合は、酸化アルミニウム被膜への化学吸着を前提とした設計です。もしこれを、単なる脱脂のみのステンレス鋼で試験したのであれば、データが悪くなるのは当然――いいえ、むしろ故意に数値を下げるための不正操作と言えます」
ヴィオラは一歩、前に踏み出した。
その迫力に、ジュリアンがたじろぐ。
「さあ、答えてください殿下。この試験を行った際の、相対湿度は何パーセントでしたか? イソシアネート基は水分と反応して発泡します。このデータのばらつきは、明らかに多湿環境での施工ミスを示唆していますが」
「そ、それは……、ええと、その……」
ジュリアンの視線が泳ぐ。
彼はただ、ヴィオラを追い落とすための悪い報告書を作らせただけで、中身など一行も理解していなかったのだ。
専門用語の嵐に、反論どころか理解すら追いつかない。
「……答えられないのですね」
ヴィオラは興味を失ったように、手にした書類をパラリと落とした。
「自分が提示した証拠の内容すら把握していない。……論理的破綻も甚だしいですね」
ジュリアンの顔色が、赤から青、そして白へと変わっていく。
周囲の貴族たちの目は、もはや地味な令嬢を見る目ではなく、底知れない知識を持つ賢者と浅はかな王太子を見る目に変わっていた。
ヴィオラは優雅にカーテシーを行った。
それは完璧な所作でありながら、これ以上の対話は無駄という絶縁状のようにも見えた。
「婚約破棄の件、謹んでお受けいたします。殿下のおっしゃる通り、私たちの間には信頼という名の架橋点が一つも形成されなかったようですので」
「ぐ、ぐぬぅ……!」
「それでは、私はこれで。――ああ、最後に一つだけ忠告を」
背を向けて歩き出したヴィオラは、立ち尽くすジュリアンとミシェルを振り返り、淡く微笑んだ。
「熱可塑性の愛は、冷めると本当に脆いですよ。衝撃を与えないよう、温室の中で大事になさってください」
その言葉は、まるで予言のように会場に響き渡った。
こうして、ヴィオラ・クライストは王太子の婚約者という地位を失った。
だが、彼女の足取りは驚くほど軽かった。
重たい足枷が外れ、広大な世界へと解き放たれたかのように。
しかし彼女はまだ知らない。
この会場の片隅で、一人の男がこの一部始終を熱心に見つめていたことを。
そして、その男こそが、彼女の知識と技術を正当に評価し、最高の強度で結ばれることになる運命の相手であることを……。
「は?」
予想外の切り返しに、ジュリアンが口を開けたまま固まる。
ヴィオラは書類を指先で弾き、冷徹に追い打ちをかけた。
「ここです。80℃で強度が40%低下したとありますが、この試験片の養生時間と湿度管理の詳細はどうなっていますか? グラフのカーブを見る限り、明らかに硬化不良を起こした状態で加熱試験を行っていますね」
「よ、養生……? しつど……?」
「さらに言えば、使用されている被着体の表面処理についての記述が抜けています。私の配合は、酸化アルミニウム被膜への化学吸着を前提とした設計です。もしこれを、単なる脱脂のみのステンレス鋼で試験したのであれば、データが悪くなるのは当然――いいえ、むしろ故意に数値を下げるための不正操作と言えます」
ヴィオラは一歩、前に踏み出した。
その迫力に、ジュリアンがたじろぐ。
「さあ、答えてください殿下。この試験を行った際の、相対湿度は何パーセントでしたか? イソシアネート基は水分と反応して発泡します。このデータのばらつきは、明らかに多湿環境での施工ミスを示唆していますが」
「そ、それは……、ええと、その……」
ジュリアンの視線が泳ぐ。
彼はただ、ヴィオラを追い落とすための悪い報告書を作らせただけで、中身など一行も理解していなかったのだ。
専門用語の嵐に、反論どころか理解すら追いつかない。
「……答えられないのですね」
ヴィオラは興味を失ったように、手にした書類をパラリと落とした。
「自分が提示した証拠の内容すら把握していない。……論理的破綻も甚だしいですね」
ジュリアンの顔色が、赤から青、そして白へと変わっていく。
周囲の貴族たちの目は、もはや地味な令嬢を見る目ではなく、底知れない知識を持つ賢者と浅はかな王太子を見る目に変わっていた。
ヴィオラは優雅にカーテシーを行った。
それは完璧な所作でありながら、これ以上の対話は無駄という絶縁状のようにも見えた。
「婚約破棄の件、謹んでお受けいたします。殿下のおっしゃる通り、私たちの間には信頼という名の架橋点が一つも形成されなかったようですので」
「ぐ、ぐぬぅ……!」
「それでは、私はこれで。――ああ、最後に一つだけ忠告を」
背を向けて歩き出したヴィオラは、立ち尽くすジュリアンとミシェルを振り返り、淡く微笑んだ。
「熱可塑性の愛は、冷めると本当に脆いですよ。衝撃を与えないよう、温室の中で大事になさってください」
その言葉は、まるで予言のように会場に響き渡った。
こうして、ヴィオラ・クライストは王太子の婚約者という地位を失った。
だが、彼女の足取りは驚くほど軽かった。
重たい足枷が外れ、広大な世界へと解き放たれたかのように。
しかし彼女はまだ知らない。
この会場の片隅で、一人の男がこの一部始終を熱心に見つめていたことを。
そして、その男こそが、彼女の知識と技術を正当に評価し、最高の強度で結ばれることになる運命の相手であることを……。
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