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第4話:ナイフでスープは掬えません
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会場を後にしようとしたヴィオラの背中に、甲高い声が突き刺さった。
「待ってください! 逃げるなんて卑怯ですぅ!」
ヴィオラは足を止め、無機質な動作で振り返った。
そこには、涙目で頬を膨らませたミシェルが立っていた。
彼女の後ろでは、王太子ジュリアンがまだ呆然としており、周囲の貴族たちは遠巻きに事の成り行きを見守っている。
ミシェルは、自分が可哀想な被害者に見える角度を熟知しているようだった。
潤んだ瞳でヴィオラを睨みつけ、震える声で訴える。
「ヴィオラ様、殿下に恥をかかせて……、そんなに楽しいですか? 殿下はただ、みんなの安全のためにデータを提示しただけなのに。それをあんな専門用語でまくし立てて誤魔化すなんて……、人間として最低です!」
周囲の空気が少し揺らいだ。
ミシェルの感情論は、大衆を扇動する力がある。
論理よりも情緒を好む者たちが、確かに、あそこまで言わなくてもという顔をし始めたのだ。
ヴィオラは小さく溜息をついた。
(やれやれ。データの不備を指摘したことが、人間として最低ですか。相関関係が全く見えませんね)
「誤魔化してなどいません。私は事実を述べたまでです」
「嘘です! 私、聞いたことありますもん。ヴィオラ様の作った接着剤は、剥がそうとするとすぐにバリッてなっちゃうって! 殿下が言う通り、強度がない不良品なんでしょう?」
ミシェルは勝ち誇った顔をした。
おそらく、どこかのメイドか職人が、作業中に無理やり剥がそうとして失敗した噂話でも耳にしたのだろう。
だが、その指摘はヴィオラにとって、恰好の講義材料でしかなかった。
「……なるほど。貴女は剥離強度のことを言っているのですね」
「は、はくり……?」
「いいですか、ミシェル様。接着における強度は一種類ではありません。横にずらす力に耐える剪断強度と、引き剥がす力に耐える剥離強度。この二つは、往々にしてトレードオフの関係にあります」
ヴィオラは人差し指と親指で四角形を作るジェスチャーをしながら、一歩ずつミシェルに歩み寄った。
「今回の王宮補修で求められたのは、重い石材が自重でずり落ちないための、圧倒的な剪断強度です。そのためには、樹脂を硬く設計し、変形を抑える必要がありました。……ここまでは理解できますか?」
「え、えっと……、固いほうが、強い……?」
「ええ。ですが、硬い樹脂は柔軟性に欠けます。つまり、端からめくり上げるような剥離の力には脆くなります。本配合では、あえて剥離強度を犠牲にすることで、絶対的な剪断強度を優先させているのです。これを不良品と呼ぶのは、ナイフに向かって、なぜスプーンのようにスープが掬えないのかと文句を言うのと同じですよ」
ヴィオラの淡々とした口調は、感情的な反論を許さない圧があった。
ミシェルは後ずさりする。
「そ、そんなの……、言い訳です! 両方強くすればいいじゃないですか!」
「それができれば苦労はありません。貴女は、意図的な設計思想と、許容される剥離強度の閾値について、どうお考えですか? 代替案があるなら数式で提示してください」
「し、しきい……? せっけい……?」
ミシェルの思考が停止した。
彼女の武器である可愛らしさも涙も、物理法則と材料力学の前では無力だ。
専門用語の嵐に打たれ、彼女は口をパクパクとさせる金魚のようになってしまった。
その時だった。
「――くくっ」
低く、腹の底に響くような笑い声が聞こえた。
それは、洗練されたパーティー会場には不釣り合いなほど、野太く、力強い響きを持っていた。
その声の主の正体に、会場の人々は驚きを隠せなかった。
「待ってください! 逃げるなんて卑怯ですぅ!」
ヴィオラは足を止め、無機質な動作で振り返った。
そこには、涙目で頬を膨らませたミシェルが立っていた。
彼女の後ろでは、王太子ジュリアンがまだ呆然としており、周囲の貴族たちは遠巻きに事の成り行きを見守っている。
ミシェルは、自分が可哀想な被害者に見える角度を熟知しているようだった。
潤んだ瞳でヴィオラを睨みつけ、震える声で訴える。
「ヴィオラ様、殿下に恥をかかせて……、そんなに楽しいですか? 殿下はただ、みんなの安全のためにデータを提示しただけなのに。それをあんな専門用語でまくし立てて誤魔化すなんて……、人間として最低です!」
周囲の空気が少し揺らいだ。
ミシェルの感情論は、大衆を扇動する力がある。
論理よりも情緒を好む者たちが、確かに、あそこまで言わなくてもという顔をし始めたのだ。
ヴィオラは小さく溜息をついた。
(やれやれ。データの不備を指摘したことが、人間として最低ですか。相関関係が全く見えませんね)
「誤魔化してなどいません。私は事実を述べたまでです」
「嘘です! 私、聞いたことありますもん。ヴィオラ様の作った接着剤は、剥がそうとするとすぐにバリッてなっちゃうって! 殿下が言う通り、強度がない不良品なんでしょう?」
ミシェルは勝ち誇った顔をした。
おそらく、どこかのメイドか職人が、作業中に無理やり剥がそうとして失敗した噂話でも耳にしたのだろう。
だが、その指摘はヴィオラにとって、恰好の講義材料でしかなかった。
「……なるほど。貴女は剥離強度のことを言っているのですね」
「は、はくり……?」
「いいですか、ミシェル様。接着における強度は一種類ではありません。横にずらす力に耐える剪断強度と、引き剥がす力に耐える剥離強度。この二つは、往々にしてトレードオフの関係にあります」
ヴィオラは人差し指と親指で四角形を作るジェスチャーをしながら、一歩ずつミシェルに歩み寄った。
「今回の王宮補修で求められたのは、重い石材が自重でずり落ちないための、圧倒的な剪断強度です。そのためには、樹脂を硬く設計し、変形を抑える必要がありました。……ここまでは理解できますか?」
「え、えっと……、固いほうが、強い……?」
「ええ。ですが、硬い樹脂は柔軟性に欠けます。つまり、端からめくり上げるような剥離の力には脆くなります。本配合では、あえて剥離強度を犠牲にすることで、絶対的な剪断強度を優先させているのです。これを不良品と呼ぶのは、ナイフに向かって、なぜスプーンのようにスープが掬えないのかと文句を言うのと同じですよ」
ヴィオラの淡々とした口調は、感情的な反論を許さない圧があった。
ミシェルは後ずさりする。
「そ、そんなの……、言い訳です! 両方強くすればいいじゃないですか!」
「それができれば苦労はありません。貴女は、意図的な設計思想と、許容される剥離強度の閾値について、どうお考えですか? 代替案があるなら数式で提示してください」
「し、しきい……? せっけい……?」
ミシェルの思考が停止した。
彼女の武器である可愛らしさも涙も、物理法則と材料力学の前では無力だ。
専門用語の嵐に打たれ、彼女は口をパクパクとさせる金魚のようになってしまった。
その時だった。
「――くくっ」
低く、腹の底に響くような笑い声が聞こえた。
それは、洗練されたパーティー会場には不釣り合いなほど、野太く、力強い響きを持っていた。
その声の主の正体に、会場の人々は驚きを隠せなかった。
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