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第4話:運命の出会い
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王宮の重厚な扉を背にすると、夜の冷気がドレスの薄い生地を通り抜けて肌を刺した。
エレノアは小さく身震いし、すぐにそれを生理的反応として処理する。
(気温は摂氏12度前後。このドレスの熱抵抗値では、体温保持に不十分ですね)
婚約破棄を突きつけられ、衆人環視の中で断罪された直後だというのに、彼女の思考はあくまでドライだった。
涙など一滴も流れていない。
涙腺から水分を排出することによるストレスホルモンの低下作用は科学的に認められているが、今の状況で目を腫らし、視界を悪くするのは賢明ではないからだ。
それよりも問題は、今後の去就だ。
実家の伯爵家は、王太子に盲従する典型的な事なかれ主義だ。
王太子に恥をかかせた娘など、即座に勘当されるだろう。
研究資金はどうする?
実験器具の確保は?
今日の寝床は?
「……お前、泣いていないのか」
不意に、地の底から響くような低い声が降ってきた。
エレノアは足を止め、声の主を見上げる。
そこには、闇夜を凝縮したような巨躯が立っていた。
身長は190センチを超えているだろうか。
夜会服の上からでも分かる分厚い胸板、丸太のような腕。
そして、鋭い眼光を放つ金色の瞳。
――アレクセイ・ヴォルガード辺境伯。
北の国境を守護する武人で、その圧倒的な武力と無愛想な風貌から、社交界では恐れられている人物だ。
「……ヴォルガード辺境伯閣下。ごきげんよう」
エレノアは完璧な角度で礼をした。
相手が誰だろうが、礼節は人間関係の潤滑油である。
「泣く理由がありません。角膜の乾燥を防ぐためなら瞬きで十分です」
「……変わった女だ」
アレクセイは眉間の皺をさらに深くした。
威圧感たっぷりだが、エレノアは彼の瞳に侮蔑や嘲笑の色がないことに気づく。
むしろ、迷い猫を見るような困惑と、探るような色が混ざっていた。
「あの場で、王太子とあの小娘を論破した手腕、見事だった」
「事実を陳列しただけです。……それで、私を嘲笑いに来たのですか?」
「いや、商談に来た」
アレクセイは短く告げると、一歩踏み出した。その巨体がエレノアの視界を覆う。
「俺の領地に来い。エレノア・ヴァレンタイン」
それは、あまりに唐突なヘッドハンティングだった。
「辺境伯領……、北の最果てですね。私に何を求めているのですか?」
「俺が欲しいのは、お前の知識だ」
アレクセイの言葉に、エレノアの目がわずかに見開かれる。
「我が領の兵士や民は、感染症や病で命を落とすことが多い。不衛生な環境、蔓延する疫病……。力での解決には限界がある」
彼は真剣な眼差しで、エレノアを直視した。
「お前が開発している石鹸、そして洗浄に関する理論。あれがあれば、救える命があるはずだ。……違うか?」
エレノアの胸の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。
王太子は彼女の研究を「地味」「可愛げがない」と嘲笑った。
だが、この男は違った。
その本質的な価値を、正確に見抜いている。
「……私の研究には、お金がかかります。設備も必要です」
「いくらでも出そう。屋敷の離れを研究棟として改築してもいい。その代わり、領地の衛生改革の全権をお前に委ねる」
破格の待遇だ。
最高技術責任者としての招聘に等しい。
「ただし、条件がある」
さらにアレクセイは真顔で、驚きの提案をするのだった。
エレノアは小さく身震いし、すぐにそれを生理的反応として処理する。
(気温は摂氏12度前後。このドレスの熱抵抗値では、体温保持に不十分ですね)
婚約破棄を突きつけられ、衆人環視の中で断罪された直後だというのに、彼女の思考はあくまでドライだった。
涙など一滴も流れていない。
涙腺から水分を排出することによるストレスホルモンの低下作用は科学的に認められているが、今の状況で目を腫らし、視界を悪くするのは賢明ではないからだ。
それよりも問題は、今後の去就だ。
実家の伯爵家は、王太子に盲従する典型的な事なかれ主義だ。
王太子に恥をかかせた娘など、即座に勘当されるだろう。
研究資金はどうする?
実験器具の確保は?
今日の寝床は?
「……お前、泣いていないのか」
不意に、地の底から響くような低い声が降ってきた。
エレノアは足を止め、声の主を見上げる。
そこには、闇夜を凝縮したような巨躯が立っていた。
身長は190センチを超えているだろうか。
夜会服の上からでも分かる分厚い胸板、丸太のような腕。
そして、鋭い眼光を放つ金色の瞳。
――アレクセイ・ヴォルガード辺境伯。
北の国境を守護する武人で、その圧倒的な武力と無愛想な風貌から、社交界では恐れられている人物だ。
「……ヴォルガード辺境伯閣下。ごきげんよう」
エレノアは完璧な角度で礼をした。
相手が誰だろうが、礼節は人間関係の潤滑油である。
「泣く理由がありません。角膜の乾燥を防ぐためなら瞬きで十分です」
「……変わった女だ」
アレクセイは眉間の皺をさらに深くした。
威圧感たっぷりだが、エレノアは彼の瞳に侮蔑や嘲笑の色がないことに気づく。
むしろ、迷い猫を見るような困惑と、探るような色が混ざっていた。
「あの場で、王太子とあの小娘を論破した手腕、見事だった」
「事実を陳列しただけです。……それで、私を嘲笑いに来たのですか?」
「いや、商談に来た」
アレクセイは短く告げると、一歩踏み出した。その巨体がエレノアの視界を覆う。
「俺の領地に来い。エレノア・ヴァレンタイン」
それは、あまりに唐突なヘッドハンティングだった。
「辺境伯領……、北の最果てですね。私に何を求めているのですか?」
「俺が欲しいのは、お前の知識だ」
アレクセイの言葉に、エレノアの目がわずかに見開かれる。
「我が領の兵士や民は、感染症や病で命を落とすことが多い。不衛生な環境、蔓延する疫病……。力での解決には限界がある」
彼は真剣な眼差しで、エレノアを直視した。
「お前が開発している石鹸、そして洗浄に関する理論。あれがあれば、救える命があるはずだ。……違うか?」
エレノアの胸の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。
王太子は彼女の研究を「地味」「可愛げがない」と嘲笑った。
だが、この男は違った。
その本質的な価値を、正確に見抜いている。
「……私の研究には、お金がかかります。設備も必要です」
「いくらでも出そう。屋敷の離れを研究棟として改築してもいい。その代わり、領地の衛生改革の全権をお前に委ねる」
破格の待遇だ。
最高技術責任者としての招聘に等しい。
「ただし、条件がある」
さらにアレクセイは真顔で、驚きの提案をするのだった。
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