「君は完璧だから、放っておいても大丈夫」と笑った夫。~王宮から私が去ったあと「愛していた」と泣きついても、もう手遅れです~

水上

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第6話:果たされない約束と雨の夜

 王都でも指折りの格式高いレストランの個室には、静謐な時間が流れていた。

 テーブルの上には、手つかずの前菜と、冷え切ったスープ。
 そして、キャンドルの炎だけが揺らめいている。

 壁に掛けられた振り子時計が、重苦しい音を立てて時を刻んでいた。

 セシリアは、背筋を伸ばしたまま椅子に座っていた。

 今夜のために新調した、夜空のような深い藍色のドレス。
 首元には、夫であるテオドールから贈られたパールのネックレスが飾られている。

 メイクも完璧だ。

 泣き腫らしたような目はコンシーラーで隠し、唇には自作のルージュの試作品ではなく、今日のために選んだ落ち着いたローズピンクを引いている。

 全ては、結婚三周年の記念日を祝うためだった。

「……奥様、その」

 給仕長が申し訳なさそうに声をかけてきた。

「そろそろ、閉店のお時間でございますが……」

「ええ、存じております」

 セシリアは表情ひとつ変えず、穏やかに微笑んだ。
 時計の針は、約束の時間を三時間も過ぎている。

「本日はキャンセルということで」

「は、はい。承知いたしました……。あの、王太子殿下は……」

「急な公務が入られたのでしょう。国を憂うお方ですから」

 セシリアは淀みなく嘘を吐いた。

 夫の体面を守るためだ。
 王太子が予約をすっぽかしたという事実は信用に関わる。

 彼女はゆっくりと立ち上がり、チップを弾んで店を出た。
 外は、いつの間にか激しい雨が降り始めていた。

 馬車の中で、セシリアは窓の外を流れる景色を眺めていた。
 雨粒がガラスを叩き、街の灯りを滲ませている。

 多忙な公務と研究の合間を縫って、何週間も前からこの日を楽しみにしていた。
 テオドールも「必ず行くよ、君と二人きりで話したいことがたくさんあるんだ」と言っていた。

 だが、その約束は果たされなかった。

(期待など、していなかったはずなのに)

 胸の奥が冷たく軋む。
 頭では分かっている。

 彼は悪意があって遅れているわけではない。
 きっと何か、のっぴきならない事情があったのだと。

 しかし、その事情が何であるか、セシリアの頭脳は既に予測を立ててしまっていた。
 そしてその予測が外れることは、悲しいことにほとんどない。

 王宮に戻り、私室でドレスから着替えようとしたその時だった。
 廊下が騒がしくなり、バタバタという足音が近づいてくる。

「セシリア! まだ起きていたか!」

 勢いよく扉が開かれ、テオドールが飛び込んできた。
 彼は濡れたコートを羽織ったままで、金髪からは滴が垂れている。

 息を切らしている様子から、走ってきたことが分かった。

「……お帰りなさいませ、殿下」

 セシリアは鏡の前から振り返り、静かに一礼した。

 怒鳴りつけたり、泣いて責めたりはしない。
 それは王太子妃として相応しくない振る舞いだからだ。

「本当にすまない! 店に行ったらもう閉まっていて……、君が帰ったと聞いて、急いで戻ってきたんだ」

「ご連絡をいただければ、お待ちしておりましたのに」

「ああ、それが……実は、来る途中でアリスを見かけてね」

 やはり。
 セシリアの心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。

「アリス嬢、ですか?」

「そうなんだ。あの子、雨の中で捨て猫を抱えて立ち尽くしていて……。放っておけなくて、動物病院を探して一緒に回っていたんだよ」

 テオドールは濡れた髪をかき上げながら、悪びれもせずに説明した。

 彼の瞳には、一点の曇りもない。
 良いことをしたという達成感すら滲んでいる。

 記念日のディナーよりも、アリスと捨て猫を優先した。
 連絡も寄越さず、妻を三時間も待たせた理由が、それだ。

「……左様でございますか。それは、大変お優しいことで」

「だろう? あの子、一人じゃ何もできなくてオロオロしていたから、僕がついていてやらないとダメだったんだ」

 テオドールは安堵したように息を吐き、ソファに腰を下ろした。
 そして、セシリアに向かって、無邪気な笑顔を向ける。

 さらに彼が続けて放った言葉は、信じられない内容だった。

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