「君は完璧だから、放っておいても大丈夫」と笑った夫。~王宮から私が去ったあと「愛していた」と泣きついても、もう手遅れです~

水上

文字の大きさ
6 / 14

第6話:果たされない約束と雨の夜

しおりを挟む
 王都でも指折りの格式高いレストランの個室には、静謐な時間が流れていた。

 テーブルの上には、手つかずの前菜と、冷え切ったスープ。
 そして、キャンドルの炎だけが揺らめいている。

 壁に掛けられた振り子時計が、重苦しい音を立てて時を刻んでいた。

 セシリアは、背筋を伸ばしたまま椅子に座っていた。

 今夜のために新調した、夜空のような深い藍色のドレス。
 首元には、夫であるテオドールから贈られたパールのネックレスが飾られている。

 メイクも完璧だ。

 泣き腫らしたような目はコンシーラーで隠し、唇には自作のルージュの試作品ではなく、今日のために選んだ落ち着いたローズピンクを引いている。

 全ては、結婚三周年の記念日を祝うためだった。

「……奥様、その」

 給仕長が申し訳なさそうに声をかけてきた。

「そろそろ、閉店のお時間でございますが……」

「ええ、存じております」

 セシリアは表情ひとつ変えず、穏やかに微笑んだ。
 時計の針は、約束の時間を三時間も過ぎている。

「本日はキャンセルということで」

「は、はい。承知いたしました……。あの、王太子殿下は……」

「急な公務が入られたのでしょう。国を憂うお方ですから」

 セシリアは淀みなく嘘を吐いた。

 夫の体面を守るためだ。
 王太子が予約をすっぽかしたという事実は信用に関わる。

 彼女はゆっくりと立ち上がり、チップを弾んで店を出た。
 外は、いつの間にか激しい雨が降り始めていた。

 馬車の中で、セシリアは窓の外を流れる景色を眺めていた。
 雨粒がガラスを叩き、街の灯りを滲ませている。

 多忙な公務と研究の合間を縫って、何週間も前からこの日を楽しみにしていた。
 テオドールも「必ず行くよ、君と二人きりで話したいことがたくさんあるんだ」と言っていた。

 だが、その約束は果たされなかった。

(期待など、していなかったはずなのに)

 胸の奥が冷たく軋む。
 頭では分かっている。

 彼は悪意があって遅れているわけではない。
 きっと何か、のっぴきならない事情があったのだと。

 しかし、その事情が何であるか、セシリアの頭脳は既に予測を立ててしまっていた。
 そしてその予測が外れることは、悲しいことにほとんどない。

 王宮に戻り、私室でドレスから着替えようとしたその時だった。
 廊下が騒がしくなり、バタバタという足音が近づいてくる。

「セシリア! まだ起きていたか!」

 勢いよく扉が開かれ、テオドールが飛び込んできた。
 彼は濡れたコートを羽織ったままで、金髪からは滴が垂れている。

 息を切らしている様子から、走ってきたことが分かった。

「……お帰りなさいませ、殿下」

 セシリアは鏡の前から振り返り、静かに一礼した。

 怒鳴りつけたり、泣いて責めたりはしない。
 それは王太子妃として相応しくない振る舞いだからだ。

「本当にすまない! 店に行ったらもう閉まっていて……、君が帰ったと聞いて、急いで戻ってきたんだ」

「ご連絡をいただければ、お待ちしておりましたのに」

「ああ、それが……実は、来る途中でアリスを見かけてね」

 やはり。
 セシリアの心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。

「アリス嬢、ですか?」

「そうなんだ。あの子、雨の中で捨て猫を抱えて立ち尽くしていて……。放っておけなくて、動物病院を探して一緒に回っていたんだよ」

 テオドールは濡れた髪をかき上げながら、悪びれもせずに説明した。

 彼の瞳には、一点の曇りもない。
 良いことをしたという達成感すら滲んでいる。

 記念日のディナーよりも、アリスと捨て猫を優先した。
 連絡も寄越さず、妻を三時間も待たせた理由が、それだ。

「……左様でございますか。それは、大変お優しいことで」

「だろう? あの子、一人じゃ何もできなくてオロオロしていたから、僕がついていてやらないとダメだったんだ」

 テオドールは安堵したように息を吐き、ソファに腰を下ろした。
 そして、セシリアに向かって、無邪気な笑顔を向ける。

 さらに彼が続けて放った言葉は、信じられない内容だった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

覚悟はありますか?

翔王(とわ)
恋愛
私は王太子の婚約者として10年以上すぎ、王太子妃教育も終わり、学園卒業後に結婚し王妃教育が始まる間近に1人の令嬢が発した言葉で王族貴族社会が荒れた……。 「あたし、王太子妃になりたいんですぅ。」 ご都合主義な創作作品です。 異世界版ギャル風な感じの話し方も混じりますのでご了承ください。 恋愛カテゴリーにしてますが、恋愛要素は薄めです。

「憎悪しか抱けない『お下がり令嬢』は、侍女の真似事でもやっていろ」と私を嫌う夫に言われましたので、素直に従った結果……

ぽんた
恋愛
「おれがおまえの姉ディアーヌといい仲だということは知っているよな?ディアーヌの離縁の決着がついた。だからやっと、彼女を妻に迎えられる。というわけで、おまえはもう用済みだ。そうだな。どうせだから、異母弟のところに行くといい。もともと、あいつはディアーヌと結婚するはずだったんだ。妹のおまえでもかまわないだろう」 この日、リン・オリヴィエは夫であるバロワン王国の第一王子マリユス・ノディエに告げられた。 選択肢のないリンは、「ひきこもり王子」と名高いクロード・ノディエのいる辺境の地へ向かう。 そこで彼女が会ったのは、噂の「ひきこもり王子」とはまったく違う気性が荒く傲慢な将軍だった。 クロードは、幼少の頃から自分や弟を守る為に「ひきこもり王子」を演じていたのである。その彼は、以前リンの姉ディアーヌに手痛い目にあったことがあった。その為、人間不信、とくに女性を敵視している。彼は、ディアーヌの妹であるリンを憎み、侍女扱いする。 しかし、あることがきっかけで二人の距離が急激に狭まる。が、それも束の間、王都が隣国のスパイの工作により、壊滅状態になっているいう報が入る。しかも、そのスパイの正体は、リンの知る人だった。 ※全三十九話。ハッピーエンドっぽく完結します。ゆるゆる設定です。ご容赦ください。

「では、ごきげんよう」と去った悪役令嬢は破滅すら置き去りにして

東雲れいな
恋愛
「悪役令嬢」と噂される伯爵令嬢・ローズ。王太子殿下の婚約者候補だというのに、ヒロインから王子を奪おうなんて野心はまるでありません。むしろ彼女は、“わたくしはわたくしらしく”と胸を張り、周囲の冷たい視線にも毅然と立ち向かいます。 破滅を甘受する覚悟すらあった彼女が、誇り高く戦い抜くとき、運命は大きく動きだす。

【完結】忘れてください

仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。 貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。 夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。 貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。 もういいの。 私は貴方を解放する覚悟を決めた。 貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。 私の事は忘れてください。 ※6月26日初回完結  7月12日2回目完結しました。 お読みいただきありがとうございます。

完結 私は何を見せられているのでしょう?

音爽(ネソウ)
恋愛
「あり得ない」最初に出た言葉がそれだった

花嫁に「君を愛することはできない」と伝えた結果

藍田ひびき
恋愛
「アンジェリカ、君を愛することはできない」 結婚式の後、侯爵家の騎士のレナード・フォーブズは妻へそう告げた。彼は主君の娘、キャロライン・リンスコット侯爵令嬢を愛していたのだ。 アンジェリカの言葉には耳を貸さず、キャロラインへの『真実の愛』を貫こうとするレナードだったが――。 ※ 他サイトにも投稿しています。

『外見しか見なかったあなたへ。私はもう、選ぶ側です』

鷹 綾
恋愛
「お前のようなガキは嫌いだ」 幼く見える容姿を理由に、婚約者ライオネルから一方的に婚約を破棄された 公爵令嬢シルフィーネ・エルフィンベルク。 その夜、嫉妬に狂った伯爵令嬢に突き落とされ、 彼女は一年もの間、意識不明の重体に陥る――。 目を覚ました彼女は、大人びた美貌を手に入れていた。 だが、中身は何ひとつ変わっていない。 にもかかわらず、 かつて彼女を「幼すぎる」と切り捨てた元婚約者は態度を一変させ、 「やり直したい」とすり寄ってくる。 「見かけが変わっても、中身は同じです。 それでもあなたは、私の外見しか見ていなかったのですね?」 静かにそう告げ、シルフィーネは過去を見限る。 やがて彼女に興味を示したのは、 隣国ノルディアの王太子エドワルド。 彼が見ていたのは、美貌ではなく―― 対話し、考え、異論を述べる彼女の“在り方”だった。 これは、 外見で価値を決められた令嬢が、 「選ばれる人生」をやめ、 自分の意思で未来を選び直す物語。 静かなざまぁと、 対等な関係から始まる大人の恋。 そして―― 自分の人生を、自分の言葉で生きるための物語。 ---

あなたのことなんて、もうどうでもいいです

もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。 元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。

処理中です...