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第5話:叱責と決意
「セシリア、言い過ぎだ」
テオドールは不快そうに眉根を寄せた。
「確かに君は専門家だ。成分のことについては君が正しいのだろう。だが、アリスの心はどうなる? 彼女は君のために、君の負担を減らそうとして頑張ったんだぞ」
「結果が伴わなければ、その頑張りは害悪でしかありません。もしこれが市場に出て、国民の肌を傷つけたら、誰が責任を取るのですか?」
「そこをフォローするのが、先輩であり、王太子妃である君の役目だろう!」
テオドールの声が大きくなる。
セシリアは息を呑んだ。
フォロー、とはどういう意味だ。
この欠陥品をセシリアが手直しして、アリスの成果として世に出せと言うのか。
「……殿下。それは、私が修正したものを、アリス嬢の新作として発表しろという意味でしょうか」
「そうだ。そうすれば角が立たないだろう。アリスの顔も立つし、君の指導力も評価される。誰も傷つかない、良い解決策じゃないか」
テオドールは名案だとでも言うように頷いた。
彼の論理では、それは平和的な解決なのだ。
セシリアが苦労して積み重ねてきた実験データや、盗み見られたことに対する精神的苦痛は、大人の対応という言葉の下に踏み潰される。
アリスはテオドールの背中に隠れ、涙目でこちらを窺っている。
その瞳の奥に一瞬だけ、勝ったという色がちらついたのを、セシリアは見逃さなかった。
この令嬢は、無知なのではない。
無知で無力なふりが、この優しい王太子に対して武器になることを本能で知っているのだ。
セシリアは持っていたファイルを強く握りしめた。
中にあるのは、正当な努力の結晶だ。
けれど、この男の前ではその価値は、可哀想な少女の涙一枚よりも軽い。
(ああ、またこれなのね)
期待はしていなかった。
前回の実験室での一件で、もう諦めたはずだった。
それでも、仕事に関しては、公的な品質に関しては、彼も為政者として正しい判断をしてくれるのではないかと、ほんの数ミリだけ期待していた自分が愚かしかった。
「……左様でございますか」
セシリアはふっと力を抜いた。
握りしめていたファイルの手を緩める。
「承知いたしました。殿下がそうおっしゃるなら、そのように手配いたします」
「わかってくれて嬉しいよ、セシリア。やっぱり君は頼りになる」
テオドールの表情がぱっと明るくなり、安堵の笑みが広がる。
彼はセシリアに歩み寄り、その肩に手を置いた。
「君は大人だからね。アリスのような未熟な子を導く度量がある。僕はそんな君を誇りに思うよ」
優しい言葉だ。
かつては、この優しさに救われたこともあった。
だが今は、その言葉が呪いのように聞こえる。
大人であることの強要、度量という名の搾取。
「アリス、よかったね。セシリアが見てくれるって」
「はいっ! ありがとうございます、セシリア様! 私、もっと頑張りますぅ!」
アリスは涙を拭い、満面の笑みで飛び跳ねた。
セシリアは、能面のような微笑みを崩さずに頷いた。
「ええ」
セシリアは心の中で、静かに決裁印を押した。
夫への信頼という案件に対する、否決の印を。
彼が望むのは、真実ではない。
心地よい虚構だ。
ならば、与えてやればいい。
セシリアが去った後、その虚構が崩れ落ちた時に、彼がどうなるかは彼女の知ったことではないのだから。
「では、私はこれで。……乙女の雫の成分調整を行わなければなりませんので」
セシリアは一礼し、踵を返した。
手にしたファイル――本来報告するはずだった美白化粧水のデータ――を、誰にも見せることなく抱え直す。
この技術は、もうこの国には渡さない。
これは、自分だけのものだ。
退室する背中に、テオドールとアリスの楽しげな話し声が追いかけてくる。
セシリアは廊下に出た瞬間、小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。
「さようなら、私の愛した人」
その言葉は、廊下の冷たい空気の中に溶けて消えた。
テオドールは不快そうに眉根を寄せた。
「確かに君は専門家だ。成分のことについては君が正しいのだろう。だが、アリスの心はどうなる? 彼女は君のために、君の負担を減らそうとして頑張ったんだぞ」
「結果が伴わなければ、その頑張りは害悪でしかありません。もしこれが市場に出て、国民の肌を傷つけたら、誰が責任を取るのですか?」
「そこをフォローするのが、先輩であり、王太子妃である君の役目だろう!」
テオドールの声が大きくなる。
セシリアは息を呑んだ。
フォロー、とはどういう意味だ。
この欠陥品をセシリアが手直しして、アリスの成果として世に出せと言うのか。
「……殿下。それは、私が修正したものを、アリス嬢の新作として発表しろという意味でしょうか」
「そうだ。そうすれば角が立たないだろう。アリスの顔も立つし、君の指導力も評価される。誰も傷つかない、良い解決策じゃないか」
テオドールは名案だとでも言うように頷いた。
彼の論理では、それは平和的な解決なのだ。
セシリアが苦労して積み重ねてきた実験データや、盗み見られたことに対する精神的苦痛は、大人の対応という言葉の下に踏み潰される。
アリスはテオドールの背中に隠れ、涙目でこちらを窺っている。
その瞳の奥に一瞬だけ、勝ったという色がちらついたのを、セシリアは見逃さなかった。
この令嬢は、無知なのではない。
無知で無力なふりが、この優しい王太子に対して武器になることを本能で知っているのだ。
セシリアは持っていたファイルを強く握りしめた。
中にあるのは、正当な努力の結晶だ。
けれど、この男の前ではその価値は、可哀想な少女の涙一枚よりも軽い。
(ああ、またこれなのね)
期待はしていなかった。
前回の実験室での一件で、もう諦めたはずだった。
それでも、仕事に関しては、公的な品質に関しては、彼も為政者として正しい判断をしてくれるのではないかと、ほんの数ミリだけ期待していた自分が愚かしかった。
「……左様でございますか」
セシリアはふっと力を抜いた。
握りしめていたファイルの手を緩める。
「承知いたしました。殿下がそうおっしゃるなら、そのように手配いたします」
「わかってくれて嬉しいよ、セシリア。やっぱり君は頼りになる」
テオドールの表情がぱっと明るくなり、安堵の笑みが広がる。
彼はセシリアに歩み寄り、その肩に手を置いた。
「君は大人だからね。アリスのような未熟な子を導く度量がある。僕はそんな君を誇りに思うよ」
優しい言葉だ。
かつては、この優しさに救われたこともあった。
だが今は、その言葉が呪いのように聞こえる。
大人であることの強要、度量という名の搾取。
「アリス、よかったね。セシリアが見てくれるって」
「はいっ! ありがとうございます、セシリア様! 私、もっと頑張りますぅ!」
アリスは涙を拭い、満面の笑みで飛び跳ねた。
セシリアは、能面のような微笑みを崩さずに頷いた。
「ええ」
セシリアは心の中で、静かに決裁印を押した。
夫への信頼という案件に対する、否決の印を。
彼が望むのは、真実ではない。
心地よい虚構だ。
ならば、与えてやればいい。
セシリアが去った後、その虚構が崩れ落ちた時に、彼がどうなるかは彼女の知ったことではないのだから。
「では、私はこれで。……乙女の雫の成分調整を行わなければなりませんので」
セシリアは一礼し、踵を返した。
手にしたファイル――本来報告するはずだった美白化粧水のデータ――を、誰にも見せることなく抱え直す。
この技術は、もうこの国には渡さない。
これは、自分だけのものだ。
退室する背中に、テオドールとアリスの楽しげな話し声が追いかけてくる。
セシリアは廊下に出た瞬間、小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。
「さようなら、私の愛した人」
その言葉は、廊下の冷たい空気の中に溶けて消えた。
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