12 / 36
第12話:必然的なトラブル
王立化粧品研究所の物流搬入口が、かつてないほどの喧騒に包まれていた。
普段は静寂が保たれているはずのこの場所に、大型の馬車が三台も横付けされ、次々と木箱が運び込まれている。
「おい、これはどこに置けばいいんだ!」
「伝票には『研究所の倉庫』としか書いてねぇぞ! 入りきるわけねぇだろうが!」
配送業者の男たちが怒号を飛ばし、研究員たちがオロオロと立ち尽くしている。
その混乱の中心にいたのは、アリスだった。
彼女は伝票の束を胸に抱え、真っ青な顔で震えている。
「ど、どうしよう……。私、一桁間違えちゃったかも……」
彼女が発注したのは、高級保湿クリームの原料となるシアーバター。
本来なら五〇キログラムで十分なところを、アリスは伝票に五〇〇キログラムと記載していたのだ。
しかも、返品不可の契約で。
研究所の予算を大幅に圧迫するだけでなく、保管場所すら確保できない膨大な量である。
以前のセシリアであれば、アリスが起票した伝票を必ず決済前に確認し、このような初歩的なミスは未然に防いでいた。
あるいは、発覚した時点で業者に連絡を取り、違約金を最小限に抑える交渉をまとめていただろう。
だが、今のセシリアは、二階の執務室の窓からその光景を、紅茶を片手に見下ろしていた。
「あらあら。随分と賑やかですこと」
彼女の声は、まるで遠くの国の祭りを眺めるように他人事だった。
アリスが発注業務を任されたとき、セシリアは一度だけ「桁の確認は重要です」と忠告した。
しかし、テオドールが「彼女を信じて任せてやってくれ。細かいチェックは彼女のやる気を削ぐ」と言ったのだ。
だから、セシリアは従った。
忠実に、そして冷酷に。
一切のチェックを放棄したのである。
「妃殿下、よろしいのですか? あのままでは予算が……」
古参の事務官が、焦った様子でセシリアに尋ねた。
セシリアは優雅にティーカップをソーサーに戻した。
「殿下のご意向ですわ。『アリス嬢の自主性を重んじる』と。失敗も経験のうちとおっしゃっていましたから、私が口を出すのは野暮というものでしょう」
「は、はあ……、しかし……」
「見ていらっしゃい。じきに殿下がいらっしゃいますわ」
セシリアの予言通り、廊下を走る慌ただしい足音が聞こえてきた。
ドアが開かれ、息を切らせたテオドールが飛び込んでくるかと思いきや、彼は一階の騒ぎへと直行していった。
テオドールは、目の前の惨状に頭を抱えていた。
山積みになったシアーバターの木箱。
泣きじゃくるアリス、怒る業者。
「テオドール様ぁ! ごめんなさい、私、数字が苦手でぇ……!」
「わ、わかった、わかったから泣かないでくれ、アリス。誰にでも間違いはある」
テオドールはアリスの肩を抱き、必死に慰めた。
だが、事態は慰めでは解決しない。
業者は支払いを求めているし、倉庫管理者は「これ以上は入りません!」と叫んでいる。
いつもなら、気づけばセシリアが横にいて、的確な指示を出してくれていた。
『こちらの倉庫を一時的に空けます』
『支払いは来期予算の前倒しで処理を』
『業者の方には追加の保管料をお支払いして、分納に切り替えていただきましょう』
魔法のように片付いていくトラブル。
テオドールはそれが当たり前だと思っていた。
王太子妃ならできて当然の雑務だと。
しかし、今日、セシリアは来ない。
テオドールは脂汗を流しながら、業者に頭を下げ、あちこちの部署に連絡を入れて保管場所を確保し、財務官に怒られながら予備費の申請書を書く羽目になった。
「くそっ、なんでこんなことに……」
全ての処理が終わる頃には、日はすっかり傾いていた。
テオドールは疲労困憊で執務室に戻った。
そこには、涼しい顔で書類整理をしているセシリアがいた。
「……おかえりなさいませ、殿下。大変でしたわね」
セシリアは労わりの言葉をかけたが、その手は止めず、視線も合わせない。
テオドールはドカッとソファに座り込み、ネクタイを緩めた。
「ああ、酷い目にあったよ。アリスの奴、発注数を間違えるなんて……。でもまあ、彼女も反省しているし、あまりきつくは言えなかった」
テオドールはちらりとセシリアを見た。
いつものように「確認不足です」と小言を言われるのを待っていた。
そうすれば、「君は厳しいな」と言い返して、自分の優しさを再確認できるからだ。
だが、セシリアの反応は違った。
普段は静寂が保たれているはずのこの場所に、大型の馬車が三台も横付けされ、次々と木箱が運び込まれている。
「おい、これはどこに置けばいいんだ!」
「伝票には『研究所の倉庫』としか書いてねぇぞ! 入りきるわけねぇだろうが!」
配送業者の男たちが怒号を飛ばし、研究員たちがオロオロと立ち尽くしている。
その混乱の中心にいたのは、アリスだった。
彼女は伝票の束を胸に抱え、真っ青な顔で震えている。
「ど、どうしよう……。私、一桁間違えちゃったかも……」
彼女が発注したのは、高級保湿クリームの原料となるシアーバター。
本来なら五〇キログラムで十分なところを、アリスは伝票に五〇〇キログラムと記載していたのだ。
しかも、返品不可の契約で。
研究所の予算を大幅に圧迫するだけでなく、保管場所すら確保できない膨大な量である。
以前のセシリアであれば、アリスが起票した伝票を必ず決済前に確認し、このような初歩的なミスは未然に防いでいた。
あるいは、発覚した時点で業者に連絡を取り、違約金を最小限に抑える交渉をまとめていただろう。
だが、今のセシリアは、二階の執務室の窓からその光景を、紅茶を片手に見下ろしていた。
「あらあら。随分と賑やかですこと」
彼女の声は、まるで遠くの国の祭りを眺めるように他人事だった。
アリスが発注業務を任されたとき、セシリアは一度だけ「桁の確認は重要です」と忠告した。
しかし、テオドールが「彼女を信じて任せてやってくれ。細かいチェックは彼女のやる気を削ぐ」と言ったのだ。
だから、セシリアは従った。
忠実に、そして冷酷に。
一切のチェックを放棄したのである。
「妃殿下、よろしいのですか? あのままでは予算が……」
古参の事務官が、焦った様子でセシリアに尋ねた。
セシリアは優雅にティーカップをソーサーに戻した。
「殿下のご意向ですわ。『アリス嬢の自主性を重んじる』と。失敗も経験のうちとおっしゃっていましたから、私が口を出すのは野暮というものでしょう」
「は、はあ……、しかし……」
「見ていらっしゃい。じきに殿下がいらっしゃいますわ」
セシリアの予言通り、廊下を走る慌ただしい足音が聞こえてきた。
ドアが開かれ、息を切らせたテオドールが飛び込んでくるかと思いきや、彼は一階の騒ぎへと直行していった。
テオドールは、目の前の惨状に頭を抱えていた。
山積みになったシアーバターの木箱。
泣きじゃくるアリス、怒る業者。
「テオドール様ぁ! ごめんなさい、私、数字が苦手でぇ……!」
「わ、わかった、わかったから泣かないでくれ、アリス。誰にでも間違いはある」
テオドールはアリスの肩を抱き、必死に慰めた。
だが、事態は慰めでは解決しない。
業者は支払いを求めているし、倉庫管理者は「これ以上は入りません!」と叫んでいる。
いつもなら、気づけばセシリアが横にいて、的確な指示を出してくれていた。
『こちらの倉庫を一時的に空けます』
『支払いは来期予算の前倒しで処理を』
『業者の方には追加の保管料をお支払いして、分納に切り替えていただきましょう』
魔法のように片付いていくトラブル。
テオドールはそれが当たり前だと思っていた。
王太子妃ならできて当然の雑務だと。
しかし、今日、セシリアは来ない。
テオドールは脂汗を流しながら、業者に頭を下げ、あちこちの部署に連絡を入れて保管場所を確保し、財務官に怒られながら予備費の申請書を書く羽目になった。
「くそっ、なんでこんなことに……」
全ての処理が終わる頃には、日はすっかり傾いていた。
テオドールは疲労困憊で執務室に戻った。
そこには、涼しい顔で書類整理をしているセシリアがいた。
「……おかえりなさいませ、殿下。大変でしたわね」
セシリアは労わりの言葉をかけたが、その手は止めず、視線も合わせない。
テオドールはドカッとソファに座り込み、ネクタイを緩めた。
「ああ、酷い目にあったよ。アリスの奴、発注数を間違えるなんて……。でもまあ、彼女も反省しているし、あまりきつくは言えなかった」
テオドールはちらりとセシリアを見た。
いつものように「確認不足です」と小言を言われるのを待っていた。
そうすれば、「君は厳しいな」と言い返して、自分の優しさを再確認できるからだ。
だが、セシリアの反応は違った。
あなたにおすすめの小説
皆様ありがとう!今日で王妃、やめます!〜十三歳で王妃に、十八歳でこのたび離縁いたしました〜
百門一新
恋愛
セレスティーヌは、たった十三歳という年齢でアルフレッド・デュガウスと結婚し、国王と王妃になった。彼が王になる多には必要な結婚だった――それから五年、ようやく吉報がきた。
「君には苦労をかけた。王妃にする相手が決まった」
ということは……もうつらい仕事はしなくていいのねっ? 夫婦だと偽装する日々からも解放されるのね!?
ありがとうアルフレッド様! さすが私のことよく分かってるわ! セレスティーヌは離縁を大喜びで受け入れてバカンスに出かけたのだが、夫、いや元夫の様子が少しおかしいようで……?
サクッと読める読み切りの短編となっていります!お楽しみいただけましたら嬉しく思います!
※他サイト様にも掲載
夫の告白に衝撃「家を出て行け!」幼馴染と再婚するから子供も置いて出ていけと言われた。
佐藤 美奈
恋愛
伯爵家の長男レオナルド・フォックスと公爵令嬢の長女イリス・ミシュランは結婚した。
三人の子供に恵まれて平穏な生活を送っていた。
だがその日、夫のレオナルドの言葉で幸せな家庭は崩れてしまった。
レオナルドは幼馴染のエレナと再婚すると言い妻のイリスに家を出て行くように言う。
イリスは驚くべき告白に動揺したような表情になる。
「子供の親権も放棄しろ!」と言われてイリスは戸惑うことばかりで、どうすればいいのか分からなくて混乱した。
「女友達と旅行に行っただけで別れると言われた」僕が何したの?理由がわからない弟が泣きながら相談してきた。
佐藤 美奈
恋愛
「アリス姉さん助けてくれ!女友達と旅行に行っただけなのに婚約しているフローラに別れると言われたんだ!」
弟のハリーが泣きながら訪問して来た。姉のアリス王妃は突然来たハリーに驚きながら、夫の若き国王マイケルと話を聞いた。
結婚して平和な生活を送っていた新婚夫婦にハリーは涙を流して理由を話した。ハリーは侯爵家の長男で伯爵家のフローラ令嬢と婚約をしている。
それなのに婚約破棄して別れるとはどういう事なのか?詳しく話を聞いてみると、ハリーの返答に姉夫婦は呆れてしまった。
非常に頭の悪い弟が常識的な姉夫婦に相談して婚約者の彼女と話し合うが……
彼女の離縁とその波紋
豆狸
恋愛
夫にとって魅力的なのは、今も昔も恋人のあの女性なのでしょう。こうして私が悩んでいる間もふたりは楽しく笑い合っているのかと思うと、胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちになりました。
※子どもに関するセンシティブな内容があります。
裏切りの先にあるもの
マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。
結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。
セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。