「君は完璧だから、放っておいても大丈夫」と笑った夫。~王宮から私が去ったあと「愛していた」と泣きついても、もう手遅れです~

水上

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第12話:必然的なトラブル

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 王立化粧品研究所の物流搬入口が、かつてないほどの喧騒に包まれていた。

 普段は静寂が保たれているはずのこの場所に、大型の馬車が三台も横付けされ、次々と木箱が運び込まれている。

「おい、これはどこに置けばいいんだ!」

「伝票には『研究所の倉庫』としか書いてねぇぞ! 入りきるわけねぇだろうが!」

 配送業者の男たちが怒号を飛ばし、研究員たちがオロオロと立ち尽くしている。

 その混乱の中心にいたのは、アリスだった。
 彼女は伝票の束を胸に抱え、真っ青な顔で震えている。

「ど、どうしよう……。私、一桁間違えちゃったかも……」

 彼女が発注したのは、高級保湿クリームの原料となるシアーバター。
 本来なら五〇キログラムで十分なところを、アリスは伝票に五〇〇キログラムと記載していたのだ。

 しかも、返品不可の契約で。
 研究所の予算を大幅に圧迫するだけでなく、保管場所すら確保できない膨大な量である。

 以前のセシリアであれば、アリスが起票した伝票を必ず決済前に確認し、このような初歩的なミスは未然に防いでいた。

 あるいは、発覚した時点で業者に連絡を取り、違約金を最小限に抑える交渉をまとめていただろう。

 だが、今のセシリアは、二階の執務室の窓からその光景を、紅茶を片手に見下ろしていた。

「あらあら。随分と賑やかですこと」

 彼女の声は、まるで遠くの国の祭りを眺めるように他人事だった。

 アリスが発注業務を任されたとき、セシリアは一度だけ「桁の確認は重要です」と忠告した。

 しかし、テオドールが「彼女を信じて任せてやってくれ。細かいチェックは彼女のやる気を削ぐ」と言ったのだ。

 だから、セシリアは従った。
 忠実に、そして冷酷に。

 一切のチェックを放棄したのである。

「妃殿下、よろしいのですか? あのままでは予算が……」

 古参の事務官が、焦った様子でセシリアに尋ねた。
 セシリアは優雅にティーカップをソーサーに戻した。

「殿下のご意向ですわ。『アリス嬢の自主性を重んじる』と。失敗も経験のうちとおっしゃっていましたから、私が口を出すのは野暮というものでしょう」

「は、はあ……、しかし……」

「見ていらっしゃい。じきに殿下がいらっしゃいますわ」

 セシリアの予言通り、廊下を走る慌ただしい足音が聞こえてきた。

 ドアが開かれ、息を切らせたテオドールが飛び込んでくるかと思いきや、彼は一階の騒ぎへと直行していった。

 テオドールは、目の前の惨状に頭を抱えていた。

 山積みになったシアーバターの木箱。
 泣きじゃくるアリス、怒る業者。

「テオドール様ぁ! ごめんなさい、私、数字が苦手でぇ……!」

「わ、わかった、わかったから泣かないでくれ、アリス。誰にでも間違いはある」

 テオドールはアリスの肩を抱き、必死に慰めた。
 だが、事態は慰めでは解決しない。

 業者は支払いを求めているし、倉庫管理者は「これ以上は入りません!」と叫んでいる。
 いつもなら、気づけばセシリアが横にいて、的確な指示を出してくれていた。

『こちらの倉庫を一時的に空けます』

『支払いは来期予算の前倒しで処理を』

『業者の方には追加の保管料をお支払いして、分納に切り替えていただきましょう』

 魔法のように片付いていくトラブル。

 テオドールはそれが当たり前だと思っていた。
 王太子妃ならできて当然の雑務だと。

 しかし、今日、セシリアは来ない。

 テオドールは脂汗を流しながら、業者に頭を下げ、あちこちの部署に連絡を入れて保管場所を確保し、財務官に怒られながら予備費の申請書を書く羽目になった。

「くそっ、なんでこんなことに……」

 全ての処理が終わる頃には、日はすっかり傾いていた。

 テオドールは疲労困憊で執務室に戻った。
 そこには、涼しい顔で書類整理をしているセシリアがいた。

「……おかえりなさいませ、殿下。大変でしたわね」

 セシリアは労わりの言葉をかけたが、その手は止めず、視線も合わせない。
 テオドールはドカッとソファに座り込み、ネクタイを緩めた。

「ああ、酷い目にあったよ。アリスの奴、発注数を間違えるなんて……。でもまあ、彼女も反省しているし、あまりきつくは言えなかった」

 テオドールはちらりとセシリアを見た。

 いつものように「確認不足です」と小言を言われるのを待っていた。
 そうすれば、「君は厳しいな」と言い返して、自分の優しさを再確認できるからだ。

 だが、セシリアの反応は違った。
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