11 / 36
第11話:上機嫌な夫と、水面下で準備を進める妻
その日の午後、王宮のサロンにて。
テオドールは上機嫌で紅茶のカップを傾けていた。
向かいに座るのは、側近であり幼馴染の騎士団長補佐、レイモンドだ。
「最近、セシリアが本当に可愛いんだ」
テオドールは自慢げに切り出した。
「以前は何かと理屈っぽくて、アリスのことにも厳しかっただろう? でも、最近はすっかり丸くなってね。今日なんて、アリスが高価な香料を割ったのに、ニコニコして許していたよ」
「へえ……、あの完璧主義の妃殿下が? 珍しいな」
レイモンドは懐疑的に眉を寄せた。
彼はセシリアの有能さを知っている数少ない理解者の一人だが、夫婦間の機微までは踏み込めない。
「僕の教育の賜物さ。『もっと大らかに、人の心を大切に』と言い聞かせてきたからね。ようやく彼女も、王太子妃としてあるべき寛容さを理解してくれたようだ」
テオドールは深く背もたれに体を預け、満足そうに天井を仰いだ。
最近、家庭内が驚くほど静かだ。
セシリアからの小言はなくなり、アリスが泣きついてくることも減った。
セシリアがアリスをよしなに扱ってくれているおかげで、自分が仲裁に入る必要がなくなったのだ。
これこそが、彼が夢見ていた平和な家庭だった。
「アリスもセシリアに懐いているし、セシリアもアリスを妹のように可愛がっている。二人の美女に囲まれて、僕は世界一の幸せ者かもしれないな」
「……まあ、お前がそう言うならそうなんだろうが。あまり調子に乗るなよ? 妃殿下は賢い方だ。何か考えがあるのかもしれんぞ」
「考えって、僕を支えること以外に何があるんだい? 彼女は僕を愛しているんだから」
テオドールは笑い飛ばした。
疑う余地などなかった。
セシリアのあの穏やかな微笑みが、全てを物語っていると信じて疑わなかった。
その頃、セシリアは王都の商業ギルドの一室にいた。
目の前には、ギルド長を務める初老の男が、脂汗を拭いながら書類を確認している。
「……妃殿下。本当に、よろしいのですか?」
ギルド長の声が震えている。
彼の手にあるのは、化粧品の特許権および販売権の譲渡契約書だ。
譲渡元はサンタリア王家。
譲渡先は、新たに設立されたC.O.商会。
そして、その書類の末尾には、王太子テオドールの直筆署名が鮮やかに記されていた。
あの雨の夜、彼が内容も読まずにサインしたものである。
「何か不備がございまして?」
セシリアは、優雅に問いかけた。
「い、いいえ! 書類は完璧です。王太子殿下の署名もありますし、法的には何の問題もございません。ただ、その……、王家の主要な財源を、このような……」
「これは殿下のご意志ですわ。殿下は常々、『セシリア、君の功績は君のものだ』とおっしゃってくださいますの。私の自立を応援してくださる、素晴らしい夫君でしょう?」
嘘ではない。
彼は確かに「君のやることに間違いはない」と言ったのだから。
セシリアは心の中で冷ややかに笑った。
テオドールは知らなかったのだ。
セシリアが開発した化粧品の売上が、王家の遊興費やアリスのドレス代を支えていることを。
彼が金は湧いてくるものだと思っている間に、その蛇口をひねる権利を、セシリアは合法的に手に入れた。
「それに、このC.O.商会は隣国の商会と提携予定です。輸出ルートも確保済み。……この意味、ギルド長ならお分かりになりますわね?」
セシリアの瞳が、冬の湖面のように鋭く光った。
ギルド長はごくりと唾を飲み込み、深く頷いた。
「は、はい……。承知いたしました。直ちに手続きを進めます」
「ええ、お願いします。それと――」
セシリアは懐から、一通の封筒を取り出して机に置いた。
中には、個人資産のすべてを換金した小切手が入っている。
「私の名義で、隣国への船のチケットを手配していただきたいの。誰にも知られないように」
「……かしこまりました。全て、妃殿下の御心のままに」
ギルドを出たセシリアは、傾きかけた太陽を見上げた。
王宮の方角だ。
あの煌びやかな檻の中で、夫は今頃、自分の理想的な妻について語っていることだろう。
(ええ、演じて差し上げますわ。あなたが舞台から転げ落ちるその瞬間まで……)
セシリアは口元の端をわずかに上げ、完璧な微笑みを浮かべたまま馬車に乗り込んだ。
その笑顔は美しく、そして、どこまでも冷徹だった。
テオドールは上機嫌で紅茶のカップを傾けていた。
向かいに座るのは、側近であり幼馴染の騎士団長補佐、レイモンドだ。
「最近、セシリアが本当に可愛いんだ」
テオドールは自慢げに切り出した。
「以前は何かと理屈っぽくて、アリスのことにも厳しかっただろう? でも、最近はすっかり丸くなってね。今日なんて、アリスが高価な香料を割ったのに、ニコニコして許していたよ」
「へえ……、あの完璧主義の妃殿下が? 珍しいな」
レイモンドは懐疑的に眉を寄せた。
彼はセシリアの有能さを知っている数少ない理解者の一人だが、夫婦間の機微までは踏み込めない。
「僕の教育の賜物さ。『もっと大らかに、人の心を大切に』と言い聞かせてきたからね。ようやく彼女も、王太子妃としてあるべき寛容さを理解してくれたようだ」
テオドールは深く背もたれに体を預け、満足そうに天井を仰いだ。
最近、家庭内が驚くほど静かだ。
セシリアからの小言はなくなり、アリスが泣きついてくることも減った。
セシリアがアリスをよしなに扱ってくれているおかげで、自分が仲裁に入る必要がなくなったのだ。
これこそが、彼が夢見ていた平和な家庭だった。
「アリスもセシリアに懐いているし、セシリアもアリスを妹のように可愛がっている。二人の美女に囲まれて、僕は世界一の幸せ者かもしれないな」
「……まあ、お前がそう言うならそうなんだろうが。あまり調子に乗るなよ? 妃殿下は賢い方だ。何か考えがあるのかもしれんぞ」
「考えって、僕を支えること以外に何があるんだい? 彼女は僕を愛しているんだから」
テオドールは笑い飛ばした。
疑う余地などなかった。
セシリアのあの穏やかな微笑みが、全てを物語っていると信じて疑わなかった。
その頃、セシリアは王都の商業ギルドの一室にいた。
目の前には、ギルド長を務める初老の男が、脂汗を拭いながら書類を確認している。
「……妃殿下。本当に、よろしいのですか?」
ギルド長の声が震えている。
彼の手にあるのは、化粧品の特許権および販売権の譲渡契約書だ。
譲渡元はサンタリア王家。
譲渡先は、新たに設立されたC.O.商会。
そして、その書類の末尾には、王太子テオドールの直筆署名が鮮やかに記されていた。
あの雨の夜、彼が内容も読まずにサインしたものである。
「何か不備がございまして?」
セシリアは、優雅に問いかけた。
「い、いいえ! 書類は完璧です。王太子殿下の署名もありますし、法的には何の問題もございません。ただ、その……、王家の主要な財源を、このような……」
「これは殿下のご意志ですわ。殿下は常々、『セシリア、君の功績は君のものだ』とおっしゃってくださいますの。私の自立を応援してくださる、素晴らしい夫君でしょう?」
嘘ではない。
彼は確かに「君のやることに間違いはない」と言ったのだから。
セシリアは心の中で冷ややかに笑った。
テオドールは知らなかったのだ。
セシリアが開発した化粧品の売上が、王家の遊興費やアリスのドレス代を支えていることを。
彼が金は湧いてくるものだと思っている間に、その蛇口をひねる権利を、セシリアは合法的に手に入れた。
「それに、このC.O.商会は隣国の商会と提携予定です。輸出ルートも確保済み。……この意味、ギルド長ならお分かりになりますわね?」
セシリアの瞳が、冬の湖面のように鋭く光った。
ギルド長はごくりと唾を飲み込み、深く頷いた。
「は、はい……。承知いたしました。直ちに手続きを進めます」
「ええ、お願いします。それと――」
セシリアは懐から、一通の封筒を取り出して机に置いた。
中には、個人資産のすべてを換金した小切手が入っている。
「私の名義で、隣国への船のチケットを手配していただきたいの。誰にも知られないように」
「……かしこまりました。全て、妃殿下の御心のままに」
ギルドを出たセシリアは、傾きかけた太陽を見上げた。
王宮の方角だ。
あの煌びやかな檻の中で、夫は今頃、自分の理想的な妻について語っていることだろう。
(ええ、演じて差し上げますわ。あなたが舞台から転げ落ちるその瞬間まで……)
セシリアは口元の端をわずかに上げ、完璧な微笑みを浮かべたまま馬車に乗り込んだ。
その笑顔は美しく、そして、どこまでも冷徹だった。
あなたにおすすめの小説
皆様ありがとう!今日で王妃、やめます!〜十三歳で王妃に、十八歳でこのたび離縁いたしました〜
百門一新
恋愛
セレスティーヌは、たった十三歳という年齢でアルフレッド・デュガウスと結婚し、国王と王妃になった。彼が王になる多には必要な結婚だった――それから五年、ようやく吉報がきた。
「君には苦労をかけた。王妃にする相手が決まった」
ということは……もうつらい仕事はしなくていいのねっ? 夫婦だと偽装する日々からも解放されるのね!?
ありがとうアルフレッド様! さすが私のことよく分かってるわ! セレスティーヌは離縁を大喜びで受け入れてバカンスに出かけたのだが、夫、いや元夫の様子が少しおかしいようで……?
サクッと読める読み切りの短編となっていります!お楽しみいただけましたら嬉しく思います!
※他サイト様にも掲載
夫の告白に衝撃「家を出て行け!」幼馴染と再婚するから子供も置いて出ていけと言われた。
佐藤 美奈
恋愛
伯爵家の長男レオナルド・フォックスと公爵令嬢の長女イリス・ミシュランは結婚した。
三人の子供に恵まれて平穏な生活を送っていた。
だがその日、夫のレオナルドの言葉で幸せな家庭は崩れてしまった。
レオナルドは幼馴染のエレナと再婚すると言い妻のイリスに家を出て行くように言う。
イリスは驚くべき告白に動揺したような表情になる。
「子供の親権も放棄しろ!」と言われてイリスは戸惑うことばかりで、どうすればいいのか分からなくて混乱した。
「女友達と旅行に行っただけで別れると言われた」僕が何したの?理由がわからない弟が泣きながら相談してきた。
佐藤 美奈
恋愛
「アリス姉さん助けてくれ!女友達と旅行に行っただけなのに婚約しているフローラに別れると言われたんだ!」
弟のハリーが泣きながら訪問して来た。姉のアリス王妃は突然来たハリーに驚きながら、夫の若き国王マイケルと話を聞いた。
結婚して平和な生活を送っていた新婚夫婦にハリーは涙を流して理由を話した。ハリーは侯爵家の長男で伯爵家のフローラ令嬢と婚約をしている。
それなのに婚約破棄して別れるとはどういう事なのか?詳しく話を聞いてみると、ハリーの返答に姉夫婦は呆れてしまった。
非常に頭の悪い弟が常識的な姉夫婦に相談して婚約者の彼女と話し合うが……
彼女の離縁とその波紋
豆狸
恋愛
夫にとって魅力的なのは、今も昔も恋人のあの女性なのでしょう。こうして私が悩んでいる間もふたりは楽しく笑い合っているのかと思うと、胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちになりました。
※子どもに関するセンシティブな内容があります。
裏切りの先にあるもの
マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。
結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。
セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。