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第11話:上機嫌な夫と、水面下で準備を進める妻
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その日の午後、王宮のサロンにて。
テオドールは上機嫌で紅茶のカップを傾けていた。
向かいに座るのは、側近であり幼馴染の騎士団長補佐、レイモンドだ。
「最近、セシリアが本当に可愛いんだ」
テオドールは自慢げに切り出した。
「以前は何かと理屈っぽくて、アリスのことにも厳しかっただろう? でも、最近はすっかり丸くなってね。今日なんて、アリスが高価な香料を割ったのに、ニコニコして許していたよ」
「へえ……、あの完璧主義の妃殿下が? 珍しいな」
レイモンドは懐疑的に眉を寄せた。
彼はセシリアの有能さを知っている数少ない理解者の一人だが、夫婦間の機微までは踏み込めない。
「僕の教育の賜物さ。『もっと大らかに、人の心を大切に』と言い聞かせてきたからね。ようやく彼女も、王太子妃としてあるべき寛容さを理解してくれたようだ」
テオドールは深く背もたれに体を預け、満足そうに天井を仰いだ。
最近、家庭内が驚くほど静かだ。
セシリアからの小言はなくなり、アリスが泣きついてくることも減った。
セシリアがアリスをよしなに扱ってくれているおかげで、自分が仲裁に入る必要がなくなったのだ。
これこそが、彼が夢見ていた平和な家庭だった。
「アリスもセシリアに懐いているし、セシリアもアリスを妹のように可愛がっている。二人の美女に囲まれて、僕は世界一の幸せ者かもしれないな」
「……まあ、お前がそう言うならそうなんだろうが。あまり調子に乗るなよ? 妃殿下は賢い方だ。何か考えがあるのかもしれんぞ」
「考えって、僕を支えること以外に何があるんだい? 彼女は僕を愛しているんだから」
テオドールは笑い飛ばした。
疑う余地などなかった。
セシリアのあの穏やかな微笑みが、全てを物語っていると信じて疑わなかった。
その頃、セシリアは王都の商業ギルドの一室にいた。
目の前には、ギルド長を務める初老の男が、脂汗を拭いながら書類を確認している。
「……妃殿下。本当に、よろしいのですか?」
ギルド長の声が震えている。
彼の手にあるのは、化粧品の特許権および販売権の譲渡契約書だ。
譲渡元はサンタリア王家。
譲渡先は、新たに設立されたC.O.商会。
そして、その書類の末尾には、王太子テオドールの直筆署名が鮮やかに記されていた。
あの雨の夜、彼が内容も読まずにサインしたものである。
「何か不備がございまして?」
セシリアは、優雅に問いかけた。
「い、いいえ! 書類は完璧です。王太子殿下の署名もありますし、法的には何の問題もございません。ただ、その……、王家の主要な財源を、このような……」
「これは殿下のご意志ですわ。殿下は常々、『セシリア、君の功績は君のものだ』とおっしゃってくださいますの。私の自立を応援してくださる、素晴らしい夫君でしょう?」
嘘ではない。
彼は確かに「君のやることに間違いはない」と言ったのだから。
セシリアは心の中で冷ややかに笑った。
テオドールは知らなかったのだ。
セシリアが開発した化粧品の売上が、王家の遊興費やアリスのドレス代を支えていることを。
彼が金は湧いてくるものだと思っている間に、その蛇口をひねる権利を、セシリアは合法的に手に入れた。
「それに、このC.O.商会は隣国の商会と提携予定です。輸出ルートも確保済み。……この意味、ギルド長ならお分かりになりますわね?」
セシリアの瞳が、冬の湖面のように鋭く光った。
ギルド長はごくりと唾を飲み込み、深く頷いた。
「は、はい……。承知いたしました。直ちに手続きを進めます」
「ええ、お願いします。それと――」
セシリアは懐から、一通の封筒を取り出して机に置いた。
中には、個人資産のすべてを換金した小切手が入っている。
「私の名義で、隣国への船のチケットを手配していただきたいの。誰にも知られないように」
「……かしこまりました。全て、妃殿下の御心のままに」
ギルドを出たセシリアは、傾きかけた太陽を見上げた。
王宮の方角だ。
あの煌びやかな檻の中で、夫は今頃、自分の理想的な妻について語っていることだろう。
(ええ、演じて差し上げますわ。あなたが舞台から転げ落ちるその瞬間まで……)
セシリアは口元の端をわずかに上げ、完璧な微笑みを浮かべたまま馬車に乗り込んだ。
その笑顔は美しく、そして、どこまでも冷徹だった。
テオドールは上機嫌で紅茶のカップを傾けていた。
向かいに座るのは、側近であり幼馴染の騎士団長補佐、レイモンドだ。
「最近、セシリアが本当に可愛いんだ」
テオドールは自慢げに切り出した。
「以前は何かと理屈っぽくて、アリスのことにも厳しかっただろう? でも、最近はすっかり丸くなってね。今日なんて、アリスが高価な香料を割ったのに、ニコニコして許していたよ」
「へえ……、あの完璧主義の妃殿下が? 珍しいな」
レイモンドは懐疑的に眉を寄せた。
彼はセシリアの有能さを知っている数少ない理解者の一人だが、夫婦間の機微までは踏み込めない。
「僕の教育の賜物さ。『もっと大らかに、人の心を大切に』と言い聞かせてきたからね。ようやく彼女も、王太子妃としてあるべき寛容さを理解してくれたようだ」
テオドールは深く背もたれに体を預け、満足そうに天井を仰いだ。
最近、家庭内が驚くほど静かだ。
セシリアからの小言はなくなり、アリスが泣きついてくることも減った。
セシリアがアリスをよしなに扱ってくれているおかげで、自分が仲裁に入る必要がなくなったのだ。
これこそが、彼が夢見ていた平和な家庭だった。
「アリスもセシリアに懐いているし、セシリアもアリスを妹のように可愛がっている。二人の美女に囲まれて、僕は世界一の幸せ者かもしれないな」
「……まあ、お前がそう言うならそうなんだろうが。あまり調子に乗るなよ? 妃殿下は賢い方だ。何か考えがあるのかもしれんぞ」
「考えって、僕を支えること以外に何があるんだい? 彼女は僕を愛しているんだから」
テオドールは笑い飛ばした。
疑う余地などなかった。
セシリアのあの穏やかな微笑みが、全てを物語っていると信じて疑わなかった。
その頃、セシリアは王都の商業ギルドの一室にいた。
目の前には、ギルド長を務める初老の男が、脂汗を拭いながら書類を確認している。
「……妃殿下。本当に、よろしいのですか?」
ギルド長の声が震えている。
彼の手にあるのは、化粧品の特許権および販売権の譲渡契約書だ。
譲渡元はサンタリア王家。
譲渡先は、新たに設立されたC.O.商会。
そして、その書類の末尾には、王太子テオドールの直筆署名が鮮やかに記されていた。
あの雨の夜、彼が内容も読まずにサインしたものである。
「何か不備がございまして?」
セシリアは、優雅に問いかけた。
「い、いいえ! 書類は完璧です。王太子殿下の署名もありますし、法的には何の問題もございません。ただ、その……、王家の主要な財源を、このような……」
「これは殿下のご意志ですわ。殿下は常々、『セシリア、君の功績は君のものだ』とおっしゃってくださいますの。私の自立を応援してくださる、素晴らしい夫君でしょう?」
嘘ではない。
彼は確かに「君のやることに間違いはない」と言ったのだから。
セシリアは心の中で冷ややかに笑った。
テオドールは知らなかったのだ。
セシリアが開発した化粧品の売上が、王家の遊興費やアリスのドレス代を支えていることを。
彼が金は湧いてくるものだと思っている間に、その蛇口をひねる権利を、セシリアは合法的に手に入れた。
「それに、このC.O.商会は隣国の商会と提携予定です。輸出ルートも確保済み。……この意味、ギルド長ならお分かりになりますわね?」
セシリアの瞳が、冬の湖面のように鋭く光った。
ギルド長はごくりと唾を飲み込み、深く頷いた。
「は、はい……。承知いたしました。直ちに手続きを進めます」
「ええ、お願いします。それと――」
セシリアは懐から、一通の封筒を取り出して机に置いた。
中には、個人資産のすべてを換金した小切手が入っている。
「私の名義で、隣国への船のチケットを手配していただきたいの。誰にも知られないように」
「……かしこまりました。全て、妃殿下の御心のままに」
ギルドを出たセシリアは、傾きかけた太陽を見上げた。
王宮の方角だ。
あの煌びやかな檻の中で、夫は今頃、自分の理想的な妻について語っていることだろう。
(ええ、演じて差し上げますわ。あなたが舞台から転げ落ちるその瞬間まで……)
セシリアは口元の端をわずかに上げ、完璧な微笑みを浮かべたまま馬車に乗り込んだ。
その笑顔は美しく、そして、どこまでも冷徹だった。
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