殿下から「華のない女」と婚約破棄されましたが、王国の食糧庫を支えていたのは、実は私です

水上

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第8話:熟成される愛

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 ベルナルド親方たち職人集団を受け入れ、領地の食品加工業が爆発的な成長を見せ始めた頃。

 私の体調管理に、致命的なエラーが発生した。

「……あれ? 視界が……?」

 執務室で、新商品の原価計算をしていた時のことだ。

 ペンを持つ手が震え、目の前の数字がぐにゃりと歪んだ。
 思考処理速度が著しく低下している。

「おい、ルシア。ここの在庫表だが――」

 執務室に入ってきたグレン様の声が、水の中にいるように遠く聞こえる。

 私は椅子から立ち上がろうとして、そのまま床へと崩れ落ちた。

「――ッ、ルシア!」

 顔が床に激突する寸前、鋼のような腕が私を支えた。
 グレン様の焦った顔が視界いっぱいに広がり、そこで私の意識はブラックアウトした。

 目が覚めると、私は自室のベッドに寝かされていた。

 窓の外はすでに暗い。
 額には冷たいタオルが乗せられている。

「……私の稼働停止時間はどれくらいですか?」

「目が覚めて第一声がそれか。お前らしいな」

 ベッドの脇で椅子に座り、本を読んでいたグレン様が呆れたように本を閉じた。

「半日ほど寝ていた。医者の見立てじゃ過労と風邪だ。最近、職人たちの受け入れ準備で根を詰めすぎていただろう」

「……申し訳ありません。自己管理も仕事のうちだというのに、生産性を落とすとは」

 私は身を起こそうとしたが、身体が鉛のように重くて動かない。

 情けない。
 これではただのお荷物だ。

「寝ていろ。……腹は減っているか?」

「食欲はありません。消化器官の動きも鈍っていますので」

「なら、これなら食えるだろう」

 グレン様がサイドテーブルから湯気の立つ器を取り上げた。

 シンプルな白粥だ。
 しかし、その中央には見覚えのある茶色い物体が鎮座している。

「……それは?」

「お前が先週仕込んでいた燻製半熟卵だ。粥に入れて崩した」

 中からトロリとした黄金色の黄身が溢れ出し、白い粥に絡んでいる。

 同時に、燻製の香ばしい香りが湯気と共に立ち上り、私の弱りきった食欲中枢を優しく刺激した。

「……いただきます」

 ふうふうと冷まし、一口食べる。

 優しい出汁の味と、燻製卵の濃厚なコク、そして鼻に抜けるスモーキーな香り。

 消化に良いのに、味気なさは全くない。
 身体の芯から温まるような滋味深い味だ。

「美味しい……」

「そうだろうな。塩気は卵の味だけで十分だ。消化に負担をかけず、栄養価も高い」

 グレン様が、私が食べる様子を満足げに見守っている。

「君の備えが、君自身を助けたな」

「……そうですね。過去の私の労働が、現在の私を回復させています」

 粥を食べ進めると、少しずつ身体に力が戻ってくるのを感じた。

 しかし同時に、ふと鏡に映った自分の顔を見て、暗い気持ちになった。
 熱で頬は赤いが、肌はカサつき、目の下には隈ができている。

 髪も乱れてボサボサだ。
 華やかで可愛らしいミリム様とは対極にある、疲れた女の顔。

「……お見苦しいところをお見せしました」

「ん?」

「こんな、やつれて可愛げのない姿……。私もこれからどんどん歳を取ります。シワも増えますし、鮮度は落ちていきますよ。王太子殿下が仰った通り、地味で貧相な女になるでしょうね」

 熱のせいだろうか、普段なら口にしない弱音が漏れた。

 私は市場価値の低い中古品になっていく。
 いつかグレン様も、私の機能以外の部分に失望するのではないか。

 そんな不安が頭をよぎった時だった。

 グレン様の手が伸びてきて、私の乱れた髪を優しく梳いた。

「勘違いするな」

 低く、けれど確信に満ちた声。

「それは劣化じゃない。熟成だ」

「……熟成?」

「ああ。燻製も、チーズも、ワインもそうだ。時間をかけて水分が抜け、シワが寄り、色が濃くなる。だが、それは価値が下がることを意味しない。むしろ、若造には出せない深みと味わいが生まれる」

 彼は私の頬に親指を添え、愛おしそうに撫でた。

「俺は、お前という人間が長い時間をかけて深い味わいになるのを、一番近くで見届けたいんだ。……シワの一つや二つ、俺が愛してやる」

 その言葉は、私の胸に深く突き刺さった。

 若さや見た目という、時間と共に減価償却されていく資産ではなく、積み重ねた時間そのものを価値として認めてくれる。

 それは私にとって、この上ない賛辞だった。

「……ずるいですね、その口説き文句は」

「事実を言ったまでだ」

「あなたの前では、私のロジックも形無しです」

 涙が滲みそうになるのを誤魔化すように、私は粥を口に運んだ。

 燻製の香りが、先ほどよりも一層深く、美味しく感じられた。

「……早く治します。またあなたの隣に立ちたいですから」

「ああ。待っている。だが今は、しっかり休め」

 空になった器を受け取り、グレン様が不器用に笑う。

 私はその笑顔を瞼に焼き付けながら、安らかな眠りに落ちていった。
 この人と共にいられるなら、歳を取るのも悪くない――そう思いながら。
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