婚約破棄されて捨てられたのですが、なぜか公爵様に拾われた結果……。

水上

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第1話:温室の断罪劇

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 シャンデリアの煌めきも、高価な香水の香りも、私にとってはただのノイズでしかありませんでした。
 王宮の大広間から漏れ聞こえるワルツの調べを背に、私はこっそりと扉を開けます。

 むっとした湿気と共に、土と緑の匂いが鼻腔をくすぐりました。
 王宮の南側に位置する巨大なガラス温室。

 ここだけが、私、フローラ・グリーンウッドにとって唯一の聖域でした。

「こんばんは。今日も綺麗に咲いていますね」

 誰に聞かれるわけでもなく、私は足元の小さな花に挨拶をします。

 南国の極楽鳥花に、肉厚な葉を持つ多肉植物たち。
 彼らは着飾った貴族たちよりもずっと雄弁で、そして誠実です。
 私はドレスのポケットから愛用のルーペを取り出し、葉脈の美しい幾何学模様に見入りました。

 地味で、要領が悪くて、頭の中は植物のことばかり。
 雑草令嬢――それが、社交界での私の呼び名です。

 貧乏男爵家の娘である私が、由緒あるローズベリー伯爵家の嫡男、エドワード様の婚約者でいられるのは、ひとえに亡き父同士の約束があったからに過ぎません。

「……ここにいたのか、フローラ」

 不意に背後から声をかけられ、私はビクリと肩を震わせました。
 振り返ると、そこには眉間に皺を寄せたエドワード様が立っていました。

 金髪を撫でつけ、仕立ての良い燕尾服に身を包んだ彼は、今日も絵画のように整っています。
 ただ、その隣に、毒々しいほど鮮やかな真紅のドレスを纏った女性が寄り添っています。

「エドワード様……、それに、ベアトリス様も」

「探したぞ。こんな泥臭い場所に隠れているとは、相変わらず陰気な女だ」

 エドワード様はハンカチで鼻を覆いながら、軽蔑の眼差しを私に向けました。

 隣にいるベアトリス・ダリア男爵令嬢は、扇子で口元を隠しながら、勝ち誇ったような笑みを浮かべています。
 彼女は最近、エドワード様と懇意にしていると噂の方です。

「単刀直入に言おう。フローラ、君との婚約は破棄させてもらう」

 心臓が早鐘を打ちました。
 いつか言われるかもしれないと、覚悟していた言葉。

 けれど、実際に投げつけられると、足元が崩れ落ちるような感覚に襲われます。

「……理由は、私が至らないからでしょうか」

「それもある。だが決定的なのは、君のその陰湿な性格だ!」

 エドワード様が大声を張り上げると同時に、ベアトリス様がわざとらしい泣き声を上げて、その場に崩れ落ちました。
 見れば、彼女の真紅のドレスの裾が、無残にも引き裂かれています。

「ひどいですわ、フローラ様……。いくらわたくしがエドワード様と親しいからといって、こんな仕打ちをなさるなんて」

「え……?」

「とぼけるな!」

 エドワード様が私に歩み寄り、乱暴に私の手首を掴み上げました。

「先ほど、君がベアトリスのドレスを踏みつけ、わざと破いたという目撃証言がある。嫉妬に狂っての犯行だろう? 彼女が泣きながら私に訴えてきた時、私は耳を疑ったよ」

「ち、違います! 私はずっとここにいました! 誰とも会っていません!」

「嘘をつくな! ならばここにいたという証人はいるのか?」

 私は言葉に詰まりました。
 夜会を抜け出し、一人で植物を観察していた私に、証人などいるはずがありません。

「証拠がないのが証拠だ。君は誰も見ていない隙を狙って会場に戻り、ベアトリスを害して、またここへ逃げ込んだのだ」

「そんな……! 信じてください、私は本当に何も……」

「君の涙など、何の証明にもならない!」

 エドワード様は私の手を振り払いました。

 その反動で、私は湿った土の上に尻餅をついてしまいます。
 ドレスが汚れ、ルーペが転がり落ちました。

「美しい花には虫がつくと言うが、君は花ですらない。ただの雑草だ。私の庭には必要ない」

 冷たい言葉が胸に突き刺さります。
 ベアトリス様はエドワード様の腕にしがみつき、潤んだ瞳で彼を見上げました。

「エドワード様、わたくし怖いです……。こんな恐ろしい方が、次は何をするか」

「安心したまえ、ベアトリス。この女は社交界から追放する。二度と君の目に入らないようにね」

 反論しようにも、喉が震えて声が出ません。

 権力も、味方も、証拠もない。
 ただの植物好きの私が、どうやってこの理不尽な断罪から逃れればいいのでしょう。

 涙が溢れそうになった、その時です。

「――騒がしいな。植物たちが怯えているだろう」

 温室の奥、鬱蒼と茂るシダ植物の陰から、低く、けれど透き通るような声が響きました。

 空気の温度が、すっと数度下がったような気がしました。
 現れたのは、銀色の長髪を無造作に束ね、白衣のようなロングコートを羽織った長身の男性でした。
 丸眼鏡の奥にある碧眼は、氷のように冷徹な光を宿しています。

「だ、誰だ貴様は! ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ!」

 エドワード様が声を荒げましたが、その男性は意に介する様子もなく、ゆっくりとこちらへ歩いてきます。
 そして、私の足元に落ちていたルーペを拾い上げると、レンズについた泥を指先で丁寧に拭いました。

「この温室の管理責任者は私だ。私の庭で無粋な真似をするのは、どこのどいつだ」

 男の人が私を見下ろします。
 その視線は、怯える私を通り越し、私の背後に咲く花に向けられているようにも見えました。

「あ、あなたは……、アルフレッド・フォン・リンネ公爵!?」

 エドワード様の素っ頓狂な声に、私は息を呑みました。

 リンネ公爵。
 王宮筆頭学術顧問にして、植物学の天才。
 そして、社交界きっての変人として知られるお方。

 公爵様は私のルーペを掲げ、興味なさそうにエドワード様たちを一瞥しました。

「痴話喧嘩なら他所でやれ。聞こえてくる会話があまりに非論理的で、耳が腐るかと思った」

「な、なんですと!?」

「『証拠がないのが証拠』? 詭弁だな。論理学の単位を取り直してくることを勧めるよ」

 公爵様は、ルーペを私に手渡すと、淡々と言い放ちました。

「彼女のアリバイなら、そこにある花が証明している」

 その言葉が、私の運命を変える一言でした。
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