婚約破棄されて捨てられたのですが、なぜか公爵様に拾われた結果……。

水上

文字の大きさ
5 / 6

第5話:香水の嘘

しおりを挟む
 その日、王都の公爵令嬢が主催する、薔薇と紅茶の会に、私とアルフレッド様は招かれていました。

 前回のパイナップル事件で恥をかいたはずのエドワード様とベアトリス様ですが、懲りもせず出席しているようです。
 それどころか、今日は何やらリベンジの自信があるようで、入場するなり周囲に愛想を振りまいています。

「ごきげんよう、皆様! 今日はあいにくの微風ですが、わたくしの香りを楽しんでいただければ幸いですわ」

 ベアトリス様が現れると、周囲の空気が一変しました。

 物理的に、空気が重くなったのです。
 彼女が歩くたびに、濃厚すぎる甘い香りが波紋のように広がります。
 それは花の香りというより、暴力的なまでの刺激臭でした。

「うっ……、これは」

 隣でアルフレッド様が眉をひそめ、懐からハンカチを取り出しました。
 私も鼻を抑えずにはいられません。

「あら、フローラさん。そんな顔をして失礼ですわね」

 ベアトリス様が扇子を揺らしながら近づいてきました。
 エドワード様も鼻高々に胸を張っています。

「驚きましたか? これはエドワード様がわたくしのために取り寄せてくださった、最高級のジャスミン・アブソリュートですのよ」
「ジャスミン……、アブソリュート?」

「ええ。混ぜ物なし、純度100%の天然香料ですわ! 市場に出回っている安物の薄めた香水とは格が違いますの」

 ベアトリス様は首筋を強調するように見せつけました。
 そこには、琥珀色の液体がたっぷりと塗られています。

「最近は合成香料だなんだと偽物が多いでしょう? やはり本物のレディには、本物の天然素材こそがふさわしいと思いまして」

「ふふん。どうだ、この芳醇な香り。君のような貧乏人には一生縁のない香りだろう」

 エドワード様が勝ち誇ったように言いますが、周囲の貴族たちの反応は微妙でした。
 最初は「まあ、高価なものを」とお世辞を言っていましたが、時間が経つにつれ、皆の顔色が青ざめていきます。

「……なんだか、臭いませんこと?」

「ええ……、なんというか、その……、おトイレのような……」

「厩舎の掃除をサボったような臭いが……」

 ひそひそ声が漏れ始めました。
 ベアトリス様は気づいていません。

「皆様、わたくしの香りに陶酔して言葉もないようですわ」

 と言って勘違いしています。

 しかし、臭いは確実に悪化していました。
 気温が上がるにつれ、彼女の体温で揮発した香りが、甘さを通り越して腐敗臭のような悪臭へと変貌していたのです。

 この臭い……、まさか……。

 私はハッとして、アルフレッド様を見上げました。
 彼は既に全てを理解しているようで、ニヤリと口角を上げ、「行け」と目で合図を送ってくれました。
 私は意を決して一歩前に出ました。

「あの、ベアトリス様。申し上げにくいのですが……、香水を、原液のまま大量につけすぎではありませんか?」

「はあ? 何を言っているの。高い香水をたっぷり使うのが贅沢というものでしょう? 嫉妬ならやめてくださる?」

「嫉妬ではありません。それはインドールの臭いです」

「インドール?」

 ベアトリス様が首を傾げた瞬間、風向きが変わり、彼女の香りがもろに周囲の令嬢たちを直撃しました。

 「きゃあ!」

「くさっ!」

 と悲鳴が上がり、人々が露骨に距離を取り始めます。

「な、なによ皆様! 失礼な!」

「失礼なのは君の嗅覚だ」

 アルフレッド様が冷ややかに言い放ち、私の隣に並びました。

「フローラ、解説してやれ。なぜ花の王と呼ばれるジャスミンが、これほどまでに悪臭を放っているのか」

「はい……」

 私は息を吸い込み、できるだけ事務的に説明を始めました。

「ジャスミンの芳香成分にはインドールという物質が含まれています。これは、微量であれば深みのある素晴らしい花の香りになります。しかし……」

「しかし?」

「濃度が高くなると、その性質は一変します。インドールは、実は……、その、糞便の臭い成分そのものなのです」

 会場が凍りつきました。
 ベアトリス様の動きが止まります。

「ふ、ふんべん……? 何を……」


「嘘ではありません。科学的な事実です。ジャスミンだけでなく、オレンジの花やクチナシにも含まれていますが、特にジャスミンはその含有量が多いのです。香水職人は、これを良い香りの領域に留めています」

 私は彼女の、琥珀色に濡れた首筋を指差しました。

「ですが、ベアトリス様は純度100%のアブソリュート(原液)を、そのまま肌に、しかも大量に塗られました。それでは花の香りではなく、濃縮された排泄物の臭いがするのは当然です」

「う、うそよ……! だって、これは最高級の……!」

「最高級の毒もあれば、最高級の悪臭もあるということだ」

 アルフレッド様が容赦なく追撃します。

「過ぎたるは猶お及ばざるが如し、という言葉を知らんのか。香水における希釈の重要性も理解せず、ただ『濃ければ良い』『天然なら良い』と盲信した結果がこれだ。君は今、歩く公衆便所になっているぞ」

 そのあまりに直球な表現に、周囲から「ぷっ」と吹き出す声が聞こえました。
 一人が笑うと、堪えていた他の人々も次々と笑い出します。

「や、やだ……、臭いって、わたくしのこと……?」

 ベアトリス様は自分の手首を鼻に近づけ、そして「うっ!」と顔をしかめました。
 自分の臭いにようやく気づいたのです。
 エドワード様も、必死に息を止めていた限界が来たのか、ゲホゲホとむせ返りました。

「ベ、ベアトリス! 離れろ! 近寄るな!」

「ひどいですわエドワード様! あなたがプレゼントしてくださったんじゃありませんの!」

「使い方が悪いと言っているんだ!」

 仲間割れを始めた二人の周りには、ぽっかりと無人の空間ができていました。
 ハエが一匹、ふらふらとベアトリス様の髪飾りに止まったのが決定打でした。

「いやぁぁぁっ!」

 ベアトリス様は絶叫し、香水の瓶を投げ捨てて走り去っていきました。
 エドワード様も「お、俺は悪くない!」と叫びながら、彼女とは逆方向へ逃げていきます。

 残された会場には、微かな悪臭と、それを吹き飛ばすような爆笑の渦が残りました。

「……ふん。天然至上主義もそこまでいけば害悪だな」

 アルフレッド様はハンカチをしまい、私を見下ろして優しく微笑みました。

「よく言った、フローラ。君の知識が、会場の空気を守った」

「い、いえ……。でも、ジャスミン自体は素晴らしいお花なんです。嫌いにならないであげてください」

 地面に転がった小瓶を悲しげに見つめる私に、アルフレッド様は呆れたように、けれどどこか嬉しそうに肩をすくめました。

「君というやつは。……まあいい。帰ったら、口直しに庭のハーブティーでも淹れてくれ。もちろん、適度な濃さでな」

「はい、喜んで!」

 私たちは悪臭の消えかけた庭園で、顔を見合わせて小さく笑いました。

 知識は身を守る盾になる。
 それを実感した午後でした。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

隣にある古い空き家に引っ越してきた人達は、10年前に縁を切った家族でした

柚木ゆず
恋愛
 10年前――まだわたしが男爵令嬢リーリスだった頃のこと。お父様、お母様、妹は自分達が散財した穴埋めのため、当時住み込みで働いていた旧友の忘れ形見・オルズくんを悪趣味な貴族に高値で売ろうとしていました。  偶然それを知ったわたしはオルズくんを連れてお屋敷を去り、ジュリエットとガスパールと名を変え新たな人生を歩み始めたのでした。  そんなわたし達はその後ガスパールくんの努力のおかげで充実した日々を過ごしており、今日は新生活が10年目を迎えたお祝いをしていたのですが――その最中にお隣に引っ越してこられた人達が挨拶に来てくださり、そこで信じられない再会を果たすこととなるのでした。 「まだ気付かないのか!? 我々はお前の父であり母であり妹だ!!」  初対面だと思っていた方々は、かつてわたしの家族だった人達だったのです。  しかもそんな3人は、わたし達が気付けない程に老けてやつれてしまっていて――

幼い頃、義母に酸で顔を焼かれた公爵令嬢は、それでも愛してくれた王太子が冤罪で追放されたので、ついていくことにしました。

克全
恋愛
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 設定はゆるくなっています、気になる方は最初から読まないでください。 ウィンターレン公爵家令嬢ジェミーは、幼い頃に義母のアイラに酸で顔を焼かれてしまった。何とか命は助かったものの、とても社交界にデビューできるような顔ではなかった。だが不屈の精神力と仮面をつける事で、社交界にデビューを果たした。そんなジェミーを、心優しく人の本質を見抜ける王太子レオナルドが見初めた。王太子はジェミーを婚約者に選び、幸せな家庭を築くかに思われたが、王位を狙う邪悪な弟に冤罪を着せられ追放刑にされてしまった。

貧乏人とでも結婚すれば?と言われたので、隣国の英雄と結婚しました

ゆっこ
恋愛
 ――あの日、私は確かに笑われた。 「貧乏人とでも結婚すれば? 君にはそれくらいがお似合いだ」  王太子であるエドワード殿下の冷たい言葉が、まるで氷の刃のように胸に突き刺さった。  その場には取り巻きの貴族令嬢たちがいて、皆そろって私を見下ろし、くすくすと笑っていた。  ――婚約破棄。

答えられません、国家機密ですから

ととせ
恋愛
フェルディ男爵は「国家機密」を継承する特別な家だ。その後継であるジェシカは、伯爵邸のガゼボで令息セイルと向き合っていた。彼はジェシカを愛してると言うが、本当に欲しているのは「国家機密」であるのは明白。全てに疲れ果てていたジェシカは、一つの決断を彼に迫る。

婚約破棄された私は、号泣しながらケーキを食べた~限界に達したので、これからは自分の幸せのために生きることにしました~

キョウキョウ
恋愛
 幼い頃から辛くて苦しい妃教育に耐えてきたオリヴィア。厳しい授業と課題に、何度も心が折れそうになった。特に辛かったのは、王妃にふさわしい体型維持のために食事制限を命じられたこと。  とても頑張った。お腹いっぱいに食べたいのを我慢して、必死で痩せて、体型を整えて。でも、その努力は無駄になった。  婚約相手のマルク王子から、無慈悲に告げられた別れの言葉。唐突に、婚約を破棄すると言われたオリヴィア。  アイリーンという令嬢をイジメたという、いわれのない罪で責められて限界に達した。もう無理。これ以上は耐えられない。  そしてオリヴィアは、会場のテーブルに置いてあったデザートのケーキを手づかみで食べた。食べながら泣いた。空腹の辛さから解放された気持ちよさと、ケーキの美味しさに涙が出たのだった。 ※本作品は、少し前に連載していた試作の完成版です。大まかな展開や設定は、ほぼ変わりません。加筆修正して、完成版として連載します。 ※カクヨムにも掲載中の作品です。

姉の婚約者に愛人になれと言われたので、母に助けてと相談したら衝撃を受ける。

賢人 蓮
恋愛
男爵令嬢のイリスは貧乏な家庭。学園に通いながら働いて学費を稼ぐ決意をするほど。 そんな時に姉のミシェルと婚約している伯爵令息のキースが来訪する。 キースは母に頼まれて学費の資金を援助すると申し出てくれました。 でもそれには条件があると言いイリスに愛人になれと迫るのです。 最近母の様子もおかしい?父以外の男性の影を匂わせる。何かと理由をつけて出かける母。 誰かと会う約束があったかもしれない……しかし現実は残酷で母がある男性から溺愛されている事実を知る。 「お母様!そんな最低な男に騙されないで!正気に戻ってください!」娘の悲痛な叫びも母の耳に入らない。 男性に恋をして心を奪われ、穏やかでいつも優しい性格の母が変わってしまった。 今まで大切に積み上げてきた家族の絆が崩れる。母は可愛い二人の娘から嫌われてでも父と離婚して彼と結婚すると言う。

地味な私では退屈だったのでしょう? 最強聖騎士団長の溺愛妃になったので、元婚約者はどうぞお好きに

有賀冬馬
恋愛
「君と一緒にいると退屈だ」――そう言って、婚約者の伯爵令息カイル様は、私を捨てた。 選んだのは、華やかで社交的な公爵令嬢。 地味で無口な私には、誰も見向きもしない……そう思っていたのに。 失意のまま辺境へ向かった私が出会ったのは、偶然にも国中の騎士の頂点に立つ、最強の聖騎士団長でした。 「君は、僕にとってかけがえのない存在だ」 彼の優しさに触れ、私の世界は色づき始める。 そして、私は彼の正妃として王都へ……

兄のお嫁さんに嫌がらせをされるので、全てを暴露しようと思います

きんもくせい
恋愛
リルベール侯爵家に嫁いできた子爵令嬢、ナタリーは、最初は純朴そうな少女だった。積極的に雑事をこなし、兄と仲睦まじく話す彼女は、徐々に家族に受け入れられ、気に入られていく。しかし、主人公のソフィアに対しては冷たく、嫌がらせばかりをしてくる。初めは些細なものだったが、それらのいじめは日々悪化していき、痺れを切らしたソフィアは、両家の食事会で……

処理中です...