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第5話:香水の嘘
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その日、王都の公爵令嬢が主催する、薔薇と紅茶の会に、私とアルフレッド様は招かれていました。
前回のパイナップル事件で恥をかいたはずのエドワード様とベアトリス様ですが、懲りもせず出席しているようです。
それどころか、今日は何やらリベンジの自信があるようで、入場するなり周囲に愛想を振りまいています。
「ごきげんよう、皆様! 今日はあいにくの微風ですが、わたくしの香りを楽しんでいただければ幸いですわ」
ベアトリス様が現れると、周囲の空気が一変しました。
物理的に、空気が重くなったのです。
彼女が歩くたびに、濃厚すぎる甘い香りが波紋のように広がります。
それは花の香りというより、暴力的なまでの刺激臭でした。
「うっ……、これは」
隣でアルフレッド様が眉をひそめ、懐からハンカチを取り出しました。
私も鼻を抑えずにはいられません。
「あら、フローラさん。そんな顔をして失礼ですわね」
ベアトリス様が扇子を揺らしながら近づいてきました。
エドワード様も鼻高々に胸を張っています。
「驚きましたか? これはエドワード様がわたくしのために取り寄せてくださった、最高級のジャスミン・アブソリュートですのよ」
「ジャスミン……、アブソリュート?」
「ええ。混ぜ物なし、純度100%の天然香料ですわ! 市場に出回っている安物の薄めた香水とは格が違いますの」
ベアトリス様は首筋を強調するように見せつけました。
そこには、琥珀色の液体がたっぷりと塗られています。
「最近は合成香料だなんだと偽物が多いでしょう? やはり本物のレディには、本物の天然素材こそがふさわしいと思いまして」
「ふふん。どうだ、この芳醇な香り。君のような貧乏人には一生縁のない香りだろう」
エドワード様が勝ち誇ったように言いますが、周囲の貴族たちの反応は微妙でした。
最初は「まあ、高価なものを」とお世辞を言っていましたが、時間が経つにつれ、皆の顔色が青ざめていきます。
「……なんだか、臭いませんこと?」
「ええ……、なんというか、その……、おトイレのような……」
「厩舎の掃除をサボったような臭いが……」
ひそひそ声が漏れ始めました。
ベアトリス様は気づいていません。
「皆様、わたくしの香りに陶酔して言葉もないようですわ」
と言って勘違いしています。
しかし、臭いは確実に悪化していました。
気温が上がるにつれ、彼女の体温で揮発した香りが、甘さを通り越して腐敗臭のような悪臭へと変貌していたのです。
この臭い……、まさか……。
私はハッとして、アルフレッド様を見上げました。
彼は既に全てを理解しているようで、ニヤリと口角を上げ、「行け」と目で合図を送ってくれました。
私は意を決して一歩前に出ました。
「あの、ベアトリス様。申し上げにくいのですが……、香水を、原液のまま大量につけすぎではありませんか?」
「はあ? 何を言っているの。高い香水をたっぷり使うのが贅沢というものでしょう? 嫉妬ならやめてくださる?」
「嫉妬ではありません。それはインドールの臭いです」
「インドール?」
ベアトリス様が首を傾げた瞬間、風向きが変わり、彼女の香りがもろに周囲の令嬢たちを直撃しました。
「きゃあ!」
「くさっ!」
と悲鳴が上がり、人々が露骨に距離を取り始めます。
「な、なによ皆様! 失礼な!」
「失礼なのは君の嗅覚だ」
アルフレッド様が冷ややかに言い放ち、私の隣に並びました。
「フローラ、解説してやれ。なぜ花の王と呼ばれるジャスミンが、これほどまでに悪臭を放っているのか」
「はい……」
私は息を吸い込み、できるだけ事務的に説明を始めました。
「ジャスミンの芳香成分にはインドールという物質が含まれています。これは、微量であれば深みのある素晴らしい花の香りになります。しかし……」
「しかし?」
「濃度が高くなると、その性質は一変します。インドールは、実は……、その、糞便の臭い成分そのものなのです」
会場が凍りつきました。
ベアトリス様の動きが止まります。
「ふ、ふんべん……? 何を……」
「嘘ではありません。科学的な事実です。ジャスミンだけでなく、オレンジの花やクチナシにも含まれていますが、特にジャスミンはその含有量が多いのです。香水職人は、これを極限まで薄めて良い香りの領域に留めています」
私は彼女の、琥珀色に濡れた首筋を指差しました。
「ですが、ベアトリス様は純度100%のアブソリュート(原液)を、そのまま肌に、しかも大量に塗られました。それでは花の香りではなく、濃縮された排泄物の臭いがするのは当然です」
「う、うそよ……! だって、これは最高級の……!」
「最高級の毒もあれば、最高級の悪臭もあるということだ」
アルフレッド様が容赦なく追撃します。
「過ぎたるは猶お及ばざるが如し、という言葉を知らんのか。香水における希釈の重要性も理解せず、ただ『濃ければ良い』『天然なら良い』と盲信した結果がこれだ。君は今、歩く公衆便所になっているぞ」
そのあまりに直球な表現に、周囲から「ぷっ」と吹き出す声が聞こえました。
一人が笑うと、堪えていた他の人々も次々と笑い出します。
「や、やだ……、臭いって、わたくしのこと……?」
ベアトリス様は自分の手首を鼻に近づけ、そして「うっ!」と顔をしかめました。
自分の臭いにようやく気づいたのです。
エドワード様も、必死に息を止めていた限界が来たのか、ゲホゲホとむせ返りました。
「ベ、ベアトリス! 離れろ! 近寄るな!」
「ひどいですわエドワード様! あなたがプレゼントしてくださったんじゃありませんの!」
「使い方が悪いと言っているんだ!」
仲間割れを始めた二人の周りには、ぽっかりと無人の空間ができていました。
ハエが一匹、ふらふらとベアトリス様の髪飾りに止まったのが決定打でした。
「いやぁぁぁっ!」
ベアトリス様は絶叫し、香水の瓶を投げ捨てて走り去っていきました。
エドワード様も「お、俺は悪くない!」と叫びながら、彼女とは逆方向へ逃げていきます。
残された会場には、微かな悪臭と、それを吹き飛ばすような爆笑の渦が残りました。
「……ふん。天然至上主義もそこまでいけば害悪だな」
アルフレッド様はハンカチをしまい、私を見下ろして優しく微笑みました。
「よく言った、フローラ。君の知識が、会場の空気を守った」
「い、いえ……。でも、ジャスミン自体は素晴らしいお花なんです。嫌いにならないであげてください」
地面に転がった小瓶を悲しげに見つめる私に、アルフレッド様は呆れたように、けれどどこか嬉しそうに肩をすくめました。
「君というやつは。……まあいい。帰ったら、口直しに庭のハーブティーでも淹れてくれ。もちろん、適度な濃さでな」
「はい、喜んで!」
私たちは悪臭の消えかけた庭園で、顔を見合わせて小さく笑いました。
知識は身を守る盾になる。
それを実感した午後でした。
前回のパイナップル事件で恥をかいたはずのエドワード様とベアトリス様ですが、懲りもせず出席しているようです。
それどころか、今日は何やらリベンジの自信があるようで、入場するなり周囲に愛想を振りまいています。
「ごきげんよう、皆様! 今日はあいにくの微風ですが、わたくしの香りを楽しんでいただければ幸いですわ」
ベアトリス様が現れると、周囲の空気が一変しました。
物理的に、空気が重くなったのです。
彼女が歩くたびに、濃厚すぎる甘い香りが波紋のように広がります。
それは花の香りというより、暴力的なまでの刺激臭でした。
「うっ……、これは」
隣でアルフレッド様が眉をひそめ、懐からハンカチを取り出しました。
私も鼻を抑えずにはいられません。
「あら、フローラさん。そんな顔をして失礼ですわね」
ベアトリス様が扇子を揺らしながら近づいてきました。
エドワード様も鼻高々に胸を張っています。
「驚きましたか? これはエドワード様がわたくしのために取り寄せてくださった、最高級のジャスミン・アブソリュートですのよ」
「ジャスミン……、アブソリュート?」
「ええ。混ぜ物なし、純度100%の天然香料ですわ! 市場に出回っている安物の薄めた香水とは格が違いますの」
ベアトリス様は首筋を強調するように見せつけました。
そこには、琥珀色の液体がたっぷりと塗られています。
「最近は合成香料だなんだと偽物が多いでしょう? やはり本物のレディには、本物の天然素材こそがふさわしいと思いまして」
「ふふん。どうだ、この芳醇な香り。君のような貧乏人には一生縁のない香りだろう」
エドワード様が勝ち誇ったように言いますが、周囲の貴族たちの反応は微妙でした。
最初は「まあ、高価なものを」とお世辞を言っていましたが、時間が経つにつれ、皆の顔色が青ざめていきます。
「……なんだか、臭いませんこと?」
「ええ……、なんというか、その……、おトイレのような……」
「厩舎の掃除をサボったような臭いが……」
ひそひそ声が漏れ始めました。
ベアトリス様は気づいていません。
「皆様、わたくしの香りに陶酔して言葉もないようですわ」
と言って勘違いしています。
しかし、臭いは確実に悪化していました。
気温が上がるにつれ、彼女の体温で揮発した香りが、甘さを通り越して腐敗臭のような悪臭へと変貌していたのです。
この臭い……、まさか……。
私はハッとして、アルフレッド様を見上げました。
彼は既に全てを理解しているようで、ニヤリと口角を上げ、「行け」と目で合図を送ってくれました。
私は意を決して一歩前に出ました。
「あの、ベアトリス様。申し上げにくいのですが……、香水を、原液のまま大量につけすぎではありませんか?」
「はあ? 何を言っているの。高い香水をたっぷり使うのが贅沢というものでしょう? 嫉妬ならやめてくださる?」
「嫉妬ではありません。それはインドールの臭いです」
「インドール?」
ベアトリス様が首を傾げた瞬間、風向きが変わり、彼女の香りがもろに周囲の令嬢たちを直撃しました。
「きゃあ!」
「くさっ!」
と悲鳴が上がり、人々が露骨に距離を取り始めます。
「な、なによ皆様! 失礼な!」
「失礼なのは君の嗅覚だ」
アルフレッド様が冷ややかに言い放ち、私の隣に並びました。
「フローラ、解説してやれ。なぜ花の王と呼ばれるジャスミンが、これほどまでに悪臭を放っているのか」
「はい……」
私は息を吸い込み、できるだけ事務的に説明を始めました。
「ジャスミンの芳香成分にはインドールという物質が含まれています。これは、微量であれば深みのある素晴らしい花の香りになります。しかし……」
「しかし?」
「濃度が高くなると、その性質は一変します。インドールは、実は……、その、糞便の臭い成分そのものなのです」
会場が凍りつきました。
ベアトリス様の動きが止まります。
「ふ、ふんべん……? 何を……」
「嘘ではありません。科学的な事実です。ジャスミンだけでなく、オレンジの花やクチナシにも含まれていますが、特にジャスミンはその含有量が多いのです。香水職人は、これを極限まで薄めて良い香りの領域に留めています」
私は彼女の、琥珀色に濡れた首筋を指差しました。
「ですが、ベアトリス様は純度100%のアブソリュート(原液)を、そのまま肌に、しかも大量に塗られました。それでは花の香りではなく、濃縮された排泄物の臭いがするのは当然です」
「う、うそよ……! だって、これは最高級の……!」
「最高級の毒もあれば、最高級の悪臭もあるということだ」
アルフレッド様が容赦なく追撃します。
「過ぎたるは猶お及ばざるが如し、という言葉を知らんのか。香水における希釈の重要性も理解せず、ただ『濃ければ良い』『天然なら良い』と盲信した結果がこれだ。君は今、歩く公衆便所になっているぞ」
そのあまりに直球な表現に、周囲から「ぷっ」と吹き出す声が聞こえました。
一人が笑うと、堪えていた他の人々も次々と笑い出します。
「や、やだ……、臭いって、わたくしのこと……?」
ベアトリス様は自分の手首を鼻に近づけ、そして「うっ!」と顔をしかめました。
自分の臭いにようやく気づいたのです。
エドワード様も、必死に息を止めていた限界が来たのか、ゲホゲホとむせ返りました。
「ベ、ベアトリス! 離れろ! 近寄るな!」
「ひどいですわエドワード様! あなたがプレゼントしてくださったんじゃありませんの!」
「使い方が悪いと言っているんだ!」
仲間割れを始めた二人の周りには、ぽっかりと無人の空間ができていました。
ハエが一匹、ふらふらとベアトリス様の髪飾りに止まったのが決定打でした。
「いやぁぁぁっ!」
ベアトリス様は絶叫し、香水の瓶を投げ捨てて走り去っていきました。
エドワード様も「お、俺は悪くない!」と叫びながら、彼女とは逆方向へ逃げていきます。
残された会場には、微かな悪臭と、それを吹き飛ばすような爆笑の渦が残りました。
「……ふん。天然至上主義もそこまでいけば害悪だな」
アルフレッド様はハンカチをしまい、私を見下ろして優しく微笑みました。
「よく言った、フローラ。君の知識が、会場の空気を守った」
「い、いえ……。でも、ジャスミン自体は素晴らしいお花なんです。嫌いにならないであげてください」
地面に転がった小瓶を悲しげに見つめる私に、アルフレッド様は呆れたように、けれどどこか嬉しそうに肩をすくめました。
「君というやつは。……まあいい。帰ったら、口直しに庭のハーブティーでも淹れてくれ。もちろん、適度な濃さでな」
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私たちは悪臭の消えかけた庭園で、顔を見合わせて小さく笑いました。
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