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第6話:夜の温室と幽霊騒動
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その噂は、通いの清掃員であるマルサおばさんが、青ざめた顔で出勤してきたことから始まりました。
「で、出たんですだよ、旦那様! 幽霊です!」
「……朝から騒々しいな。幽霊など非科学的だ。どうせネズミか何かの見間違いだろう」
アルフレッド様は朝のコーヒーを優雅に啜りながら、新聞から目を離さずに一蹴しました。
しかし、マルサおばさんの震えは止まりません。
「いいえ、確かに見たんです! 昨日の深夜、温室の方で……、真っ白なドレスを着た女が、ゆらゆらと宙に浮いていて……。それに、むせ返るような甘い匂いがして、あれはきっと、この屋敷で死んだ女の霊が、男を誘っているに違いありません!」
そこまでまくし立てると、彼女は「今日はもう帰らせてもらいます!」と逃げるように去ってしまいました。
残されたのは、掃除途中のモップと、困惑する私、そして呆れ顔のアルフレッド様だけです。
「やれやれ。これだから迷信深い人間は困る」
「でも、アルフレッド様。温室の方で、というのは気になります。もし誰かが侵入していたら……」
「ふむ。確かに、希少な種を持ち出されてはたまらん。……今夜、確かめるとするか」
アルフレッド様の眼鏡が、きらりと怪しく光りました。
その夜。
深夜の鐘が鳴る頃、私とアルフレッド様は、ランタンの灯りを消して温室の茂みに身を潜めていました。
ガラス越しに月光が差し込み、巨大なシダ植物が黒い影を落としています。
昼間は楽園のような温室も、夜はどこか不気味な雰囲気を漂わせていました。
怖い……。
でも、植物たちを守らなきゃ。
私がギュッとエプロンの裾を握りしめていると、隣のアルフレッド様が小声で囁きました。
「来るぞ。招かれざる客が」
ガサガサ、と温室の入口付近で音がしました。
現れたのは、半透明の幽霊――ではなく、黒いマントを目深に被った二人の人影でした。
「おい、本当にここに幽霊が出るのか? ベアトリス」
「ええ、間違いありませんわエドワード様! 使用人たちの間で噂になっていますの。『リンネ公爵は夜な夜な怪しい儀式をして、死者を蘇らせようとしている』って」
「へへっ、それが本当なら弱みを握れるな。教会に密告して、あいつを異端審問にかけてやる!」
聞き覚えのある声。
またしても、エドワード様とベアトリス様でした。
彼らは懲りもせず、私たちの屋敷に不法侵入して、スキャンダルを探しに来たようです。
「……まったく。幽霊よりもタチが悪い」
アルフレッド様が忌々しげに舌打ちをした、その時でした。
ふわり、と。
どこからともなく、濃厚で妖艶な香りが漂ってきました。
ジャスミンにも似ていますが、もっと神秘的で、理性を溶かすような甘い香りです。
「な、何この匂い……?」
「おい見ろ! あそこだ!」
エドワード様が指差した先――温室の奥まった暗がりの中に、それはいました。
闇の中にぽっかりと浮かぶ、純白の姿。
人の顔ほどの大きさがある白い何かが、ゆらり、ゆらりと、宙を漂っているのです。
「ひっ……!」
「で、出たぁぁぁ! 白衣の女の幽霊だぁ!」
二人は抱き合って悲鳴を上げました。
確かに、月明かりに照らされたその姿は、白いドレスを着た女性が舞っているように見えなくもありません。
「うわあああ! こっちに来るな! 呪われる!」
「きゃあああ! 助けてエドワード様ぁ!」
パニックに陥る二人を見て、私は恐る恐るその幽霊に目を凝らしました。
そして、その香りと形状に気づいた瞬間、恐怖は感動へと変わりました。
あっ……!
咲いたんだ!
私は思わず茂みから飛び出しました。
「待ってください! あれは幽霊なんかじゃありません!」
「うわっ!? ふ、フローラ!? お前も幽霊になったのか!?」
「生きてます! よく見てください、あれは……」
私が言いかけた時、アルフレッド様がランタンの覆いを取りました。
カッ、と明るい光が温室を照らし出します。
そこに浮かんでいたのは、女性の霊などではありません。
サボテン科の植物からひょろりと伸びた茎の先に咲く、透き通るような純白の大輪の花でした。
「こ、これは……、花?」
「そうだ。その名は月下美人」
アルフレッド様が愛おしそうに花に近づきます。
「着生サボテンの一種だ。この花は、一年のうちでたった一夜、それも数時間しか咲かない。まさに今、この瞬間だけだ」
闇の中で白く輝く花弁は、繊細なレース細工のようでした。
その神々しい姿は、確かにこの世のものとは思えない美しさです。
「し、しかし、さっきまで宙に浮いて動いていたぞ!?」
「そう見えただけだ。月下美人の花は大きく重いが、それを支える花茎は非常に細くて長い。さらに、背景にある葉や茎は深緑色で闇に溶け込む。だから、白い花だけが空中に浮いているように錯覚するんだ」
アルフレッド様は、花の周りを飛び回る小さな影を指差しました。
「それに、動いて見えたのは風のせいだけではない。見ろ、蛾が集まっている」
「蛾……、ですって?」
「月下美人がなぜ夜に咲き、なぜこれほど強く香るか。それは、夜行性の蛾やコウモリを呼んで受粉するためだ。闇の中で目立つ白と、遠くまで届く香りは、彼らにとっての灯台なのだよ」
エドワード様たちはポカンと口を開けました。
幽霊の正体は、一夜限りの恋人を待つ、植物の切実な生命の営みだったのです。
「……つまり、我々はただの花と虫にビビっていたと?」
「ご名答だ。まあ、君たちのようなやましい心を持つ者には、純粋な美しさが恐ろしい怪物に見えたのかもしれんがな」
アルフレッド様の皮肉に、エドワード様は顔を真っ赤にしました。
「く、くそっ! 覚えてろ! 次は必ず……!」
「次はない。不法侵入で突き出されたくなければ、さっさと消えろ」
冷たい一喝に、二人は蜘蛛の子を散らすように逃げ帰っていきました。
再び静寂が戻った温室で、私とアルフレッド様は月下美人の前に並びました。
強い香りが、私たちを包み込みます。
「……綺麗ですね」
「ああ。だが、あと数時間もすれば萎れてしまう。この美しさは、今夜だけのものだ」
アルフレッド様は静かに花に触れ、それから私を見ました。
ランタンの灯りに照らされた彼の横顔は、いつになく穏やかでした。
「フローラ。この花が開く瞬間に立ち会えたのは、君が毎日、温度と湿度を管理していたおかげだ。……礼を言う」
「いえ、私はただ……」
胸が温かくなりました。
一夜で散る儚い花。
けれど、その最も美しい瞬間を、この人と共有できたことが、何よりも嬉しく感じられました。
「さあ、スケッチの時間だ。幽霊騒ぎの真相を、しっかり記録に残しておこう」
「はい、アルフレッド様!」
その夜、私たちは夜明けまで、甘い香りに包まれながら語り合いました。
幽霊屋敷の噂は、こうして美しい誤解として私の手帳に記されたのです。
「で、出たんですだよ、旦那様! 幽霊です!」
「……朝から騒々しいな。幽霊など非科学的だ。どうせネズミか何かの見間違いだろう」
アルフレッド様は朝のコーヒーを優雅に啜りながら、新聞から目を離さずに一蹴しました。
しかし、マルサおばさんの震えは止まりません。
「いいえ、確かに見たんです! 昨日の深夜、温室の方で……、真っ白なドレスを着た女が、ゆらゆらと宙に浮いていて……。それに、むせ返るような甘い匂いがして、あれはきっと、この屋敷で死んだ女の霊が、男を誘っているに違いありません!」
そこまでまくし立てると、彼女は「今日はもう帰らせてもらいます!」と逃げるように去ってしまいました。
残されたのは、掃除途中のモップと、困惑する私、そして呆れ顔のアルフレッド様だけです。
「やれやれ。これだから迷信深い人間は困る」
「でも、アルフレッド様。温室の方で、というのは気になります。もし誰かが侵入していたら……」
「ふむ。確かに、希少な種を持ち出されてはたまらん。……今夜、確かめるとするか」
アルフレッド様の眼鏡が、きらりと怪しく光りました。
その夜。
深夜の鐘が鳴る頃、私とアルフレッド様は、ランタンの灯りを消して温室の茂みに身を潜めていました。
ガラス越しに月光が差し込み、巨大なシダ植物が黒い影を落としています。
昼間は楽園のような温室も、夜はどこか不気味な雰囲気を漂わせていました。
怖い……。
でも、植物たちを守らなきゃ。
私がギュッとエプロンの裾を握りしめていると、隣のアルフレッド様が小声で囁きました。
「来るぞ。招かれざる客が」
ガサガサ、と温室の入口付近で音がしました。
現れたのは、半透明の幽霊――ではなく、黒いマントを目深に被った二人の人影でした。
「おい、本当にここに幽霊が出るのか? ベアトリス」
「ええ、間違いありませんわエドワード様! 使用人たちの間で噂になっていますの。『リンネ公爵は夜な夜な怪しい儀式をして、死者を蘇らせようとしている』って」
「へへっ、それが本当なら弱みを握れるな。教会に密告して、あいつを異端審問にかけてやる!」
聞き覚えのある声。
またしても、エドワード様とベアトリス様でした。
彼らは懲りもせず、私たちの屋敷に不法侵入して、スキャンダルを探しに来たようです。
「……まったく。幽霊よりもタチが悪い」
アルフレッド様が忌々しげに舌打ちをした、その時でした。
ふわり、と。
どこからともなく、濃厚で妖艶な香りが漂ってきました。
ジャスミンにも似ていますが、もっと神秘的で、理性を溶かすような甘い香りです。
「な、何この匂い……?」
「おい見ろ! あそこだ!」
エドワード様が指差した先――温室の奥まった暗がりの中に、それはいました。
闇の中にぽっかりと浮かぶ、純白の姿。
人の顔ほどの大きさがある白い何かが、ゆらり、ゆらりと、宙を漂っているのです。
「ひっ……!」
「で、出たぁぁぁ! 白衣の女の幽霊だぁ!」
二人は抱き合って悲鳴を上げました。
確かに、月明かりに照らされたその姿は、白いドレスを着た女性が舞っているように見えなくもありません。
「うわあああ! こっちに来るな! 呪われる!」
「きゃあああ! 助けてエドワード様ぁ!」
パニックに陥る二人を見て、私は恐る恐るその幽霊に目を凝らしました。
そして、その香りと形状に気づいた瞬間、恐怖は感動へと変わりました。
あっ……!
咲いたんだ!
私は思わず茂みから飛び出しました。
「待ってください! あれは幽霊なんかじゃありません!」
「うわっ!? ふ、フローラ!? お前も幽霊になったのか!?」
「生きてます! よく見てください、あれは……」
私が言いかけた時、アルフレッド様がランタンの覆いを取りました。
カッ、と明るい光が温室を照らし出します。
そこに浮かんでいたのは、女性の霊などではありません。
サボテン科の植物からひょろりと伸びた茎の先に咲く、透き通るような純白の大輪の花でした。
「こ、これは……、花?」
「そうだ。その名は月下美人」
アルフレッド様が愛おしそうに花に近づきます。
「着生サボテンの一種だ。この花は、一年のうちでたった一夜、それも数時間しか咲かない。まさに今、この瞬間だけだ」
闇の中で白く輝く花弁は、繊細なレース細工のようでした。
その神々しい姿は、確かにこの世のものとは思えない美しさです。
「し、しかし、さっきまで宙に浮いて動いていたぞ!?」
「そう見えただけだ。月下美人の花は大きく重いが、それを支える花茎は非常に細くて長い。さらに、背景にある葉や茎は深緑色で闇に溶け込む。だから、白い花だけが空中に浮いているように錯覚するんだ」
アルフレッド様は、花の周りを飛び回る小さな影を指差しました。
「それに、動いて見えたのは風のせいだけではない。見ろ、蛾が集まっている」
「蛾……、ですって?」
「月下美人がなぜ夜に咲き、なぜこれほど強く香るか。それは、夜行性の蛾やコウモリを呼んで受粉するためだ。闇の中で目立つ白と、遠くまで届く香りは、彼らにとっての灯台なのだよ」
エドワード様たちはポカンと口を開けました。
幽霊の正体は、一夜限りの恋人を待つ、植物の切実な生命の営みだったのです。
「……つまり、我々はただの花と虫にビビっていたと?」
「ご名答だ。まあ、君たちのようなやましい心を持つ者には、純粋な美しさが恐ろしい怪物に見えたのかもしれんがな」
アルフレッド様の皮肉に、エドワード様は顔を真っ赤にしました。
「く、くそっ! 覚えてろ! 次は必ず……!」
「次はない。不法侵入で突き出されたくなければ、さっさと消えろ」
冷たい一喝に、二人は蜘蛛の子を散らすように逃げ帰っていきました。
再び静寂が戻った温室で、私とアルフレッド様は月下美人の前に並びました。
強い香りが、私たちを包み込みます。
「……綺麗ですね」
「ああ。だが、あと数時間もすれば萎れてしまう。この美しさは、今夜だけのものだ」
アルフレッド様は静かに花に触れ、それから私を見ました。
ランタンの灯りに照らされた彼の横顔は、いつになく穏やかでした。
「フローラ。この花が開く瞬間に立ち会えたのは、君が毎日、温度と湿度を管理していたおかげだ。……礼を言う」
「いえ、私はただ……」
胸が温かくなりました。
一夜で散る儚い花。
けれど、その最も美しい瞬間を、この人と共有できたことが、何よりも嬉しく感じられました。
「さあ、スケッチの時間だ。幽霊騒ぎの真相を、しっかり記録に残しておこう」
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