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第7話:侵略する善意
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その日、公爵邸の朝食の席で、アルフレッド様は不機嫌そうにナイフとフォークを動かしていました。
「……嘆かわしい。実に嘆かわしい」
「どうされたのですか? トーストの焼き加減がお気に召しませんでしたか?」
「違う。これを見ろ」
アルフレッド様はテーブルの上の新聞を指先で弾きました。
そこには、隣のローズベリー伯爵領に関する小さな記事が載っていました。
『伯爵令息エドワード氏、領内の湖を花の楽園に改革。領民への慈悲深いプレゼントか』
「まあ、エドワード様が領地経営に興味を持たれるなんて、珍しいですね」
「記事の内容はな。だが、問題はその花だ。添付されている粗い写真を見てみろ」
私が覗き込むと、湖一面を埋め尽くす植物の写真がありました。
画質は悪いですが、その特徴的な丸い葉と、水面に浮いている様子は見て取れます。
私は思わず息を呑み、スプーンを取り落としそうになりました。
「こ、これは……、まさか」
「そのまさかだ。記事には『異国から取り寄せた、美しい青紫の花。手入れ入らずで瞬く間に増える魔法の花』と書いてある」
アルフレッド様はコーヒーを一気に飲み干し、立ち上がりました。
「フローラ、準備をしろ。作業着だ。それと、一番丈夫な熊手と長靴を用意しろ」
「えっ? お出かけですか?」
「ああ。隣の領地が死の湖になる前に、止めに行かねばならん。……手遅れかもしれんがな」
馬車で数十分。
公爵領と伯爵領の境界にある大きな湖に到着した私たちは、その光景に言葉を失いました。
そこはもう、湖ではありませんでした。
見渡す限り一面の緑と紫の絨毯。
水面が見えないほどびっしりと、ある植物が繁殖していたのです。
「おお、これはこれは公爵閣下! 我が領地の楽園を見学に来られたのかな!」
湖畔のテラスで優雅にお茶をしていたエドワード様が、私たちに気づいて手を振りました。
その隣には、当然のようにベアトリス様もいます。
「見てくださいまし、フローラさん! わたくしが『お庭もいいけど、水辺にお花があったら素敵じゃない?』と提案しましたの。エドワード様がその願いを叶えてくださったんですのよ!」
「どうだ、壮観だろう? たった数十株植えただけで、一ヶ月でこの広大な湖を覆い尽くしたんだ。肥料もやっていないのに、すごい生命力だ」
二人は無邪気に笑っています。
しかし、その足元――湖の畔には、数人の漁師たちが膝をつき、絶望した顔で頭を抱えていました。
岸辺には、腹を上に向けて浮いた魚の死骸が打ち上げられ、鼻を突く腐敗臭が漂い始めています。
「……エドワード様、ベアトリス様。今すぐ、この植物を全て撤去してください」
私は震える声で言いました。
怒りで、自然と拳が握りしめられます。
「はあ? 何を言っている。こんなに綺麗に咲いているのに」
「綺麗? これが綺麗に見えるのですか? これは……、生態系への侵略です!」
私の剣幕に、エドワード様がたじろぎました。
アルフレッド様が静かに私の前に進み出て、湖面の植物を一株、引っこ抜きました。
根元には、黒く膨らんだ浮き袋のような葉柄がついています。
「この植物の名はホテイアオイ。別名、ウォーターヒヤシンス。水草だ」
「ヒヤシンス? ほら、やっぱりいい花じゃないか」
「その美しさゆえに、世界中で持ち込まれ、そして青い悪魔と呼ばれて恐れられている植物だ」
アルフレッド様は、そのホテイアオイをエドワード様の足元に投げ捨てました。
「見ろ、この漁師たちの顔を。彼らは今、職を失いかけている」
「な、なぜだ? 花があるだけで……」
「想像力が欠如しているな。この植物は爆発的な繁殖力を持つ。見ての通り水面を完全に覆い尽くし、日光を遮断する。するとどうなる?」
アルフレッド様は湖を指差しました。
「水中の植物プランクトンや水草は光合成ができずに枯れ果てる。結果、水中の酸素濃度が激減し、魚たちは酸欠で死滅する。今、この湖の中は死の世界だ」
漁師の一人が、涙ながらに訴えました。
「おっしゃる通りです……! 網を入れても、この草が絡まって引き上げられねぇ。さらに、船のスクリューにも絡みついて、ボートすら出せねぇんだ。俺たちの生活はもうおしまいです……!」
「そ、そんな……」
エドワード様は青ざめました。
「だ、だが、良かれと思って……。領民に美しい景色を見せてやろうと……」
「地獄への道は善意で舗装されている、という言葉を知らんのか」
アルフレッド様の声は、氷のように冷徹でした。
「さらに言えば、この植物は水流を阻害する。大雨が降れば、水の逃げ場がなくなり、下流の村で洪水が起きるぞ。君のやったことは、領民へのプレゼントではない。大規模なテロ行為だ」
テロ、という言葉に、ベアトリス様が「ひっ」と悲鳴を上げました。
「わ、わたくし知りませんでしたわ! ただ、綺麗だからって……」
「無知は罪だと言ったはずだ。外来種を安易に自然界に放つことが、どれほど取り返しのつかないことか」
アルフレッド様は私に視線を送りました。
私は頷き、持ってきた熊手を構えました。
「エドワード様、嘆いている暇はありません。この植物は、放置すればさらに増えます。今すぐ人手を集めて、物理的に除去するしかありません!」
「ぶ、物理的にって……この広い湖をか!?」
「そうです! 除草剤を使えば水質汚染でさらに魚が死にます。人の手で、一株残らず引き上げるしかないんです!」
私は手本を見せるように、岸辺のホテイアオイを熊手で掻き集め、陸へと引き上げました。水分を含んだその草は、ずっしりと重く、腰に負担がかかります。
「さあ、エドワード様も! ベアトリス様も! 種を撒いた責任を取ってください!」
「ええっ!? わたくしのドレスが汚れてしまいますわ!」
「領民の生活とドレス、どちらが大事なんですか!」
普段は気弱な私の、あまりの剣幕に気圧されたのか、二人は渋々といった様子で動き出しました。
アルフレッド様も上着を脱ぎ、袖をまくり上げます。
「やれやれ。私の貴重な研究時間をドブ攫いに費やすことになるとはな。……おい、そこの漁師たちも手伝え! 引き上げたホテイアオイは乾燥させれば優秀な堆肥や飼料になる。資源として活用する準備をするんだ!」
アルフレッド様の的確な指示が飛び交うと、絶望していた漁師たちの目にも光が戻りました。
その日の夕暮れ。
湖の半分ほどの水面が見えるようになった頃、エドワード様とベアトリス様は泥だらけになって岸辺にへたり込んでいました。
かつての美しい花園の幻想は消え、そこにあるのは山のように積み上げられた水草の残骸と、泥と汗にまみれた現実だけです。
「……もう、二度としません。花なんて、もうこりごりだ」
エドワード様が蚊の鳴くような声で呟きました。
「花に罪はありません」
私は汗を拭いながら、彼に冷たい水を差し出しました。
「適切な場所で、適切に管理すれば、ホテイアオイも水を浄化する力を持つ素晴らしい植物なんです。悪いのは、その性質を知ろうともせず、都合よく利用しようとした人間のエゴです」
エドワード様は何も言い返せず、ただうつむいて水を受け取りました。
「行くぞ、フローラ。これ以上ここにいても、筋肉痛がひどくなるだけだ」
泥だらけになってもなお優雅なアルフレッド様が、私を呼びました。
帰り道、馬車の中でアルフレッド様は私の手を取り、マメができかけた指先をそっと撫でました。
「よく怒ったな。普段のおっとりした君からは想像もつかん」
「……植物のことで誰かが不幸になるのは、嫌ですから」
「そうだな。……守るための怒りは、美しいものだ」
その言葉に、私は今日一番の熱さを頬に感じました。
侵略的な善意は去り、湖には静かな水音が戻りつつありました。
けれど、私たちの戦いは、まだ始まったばかりなのかもしれません。
「……嘆かわしい。実に嘆かわしい」
「どうされたのですか? トーストの焼き加減がお気に召しませんでしたか?」
「違う。これを見ろ」
アルフレッド様はテーブルの上の新聞を指先で弾きました。
そこには、隣のローズベリー伯爵領に関する小さな記事が載っていました。
『伯爵令息エドワード氏、領内の湖を花の楽園に改革。領民への慈悲深いプレゼントか』
「まあ、エドワード様が領地経営に興味を持たれるなんて、珍しいですね」
「記事の内容はな。だが、問題はその花だ。添付されている粗い写真を見てみろ」
私が覗き込むと、湖一面を埋め尽くす植物の写真がありました。
画質は悪いですが、その特徴的な丸い葉と、水面に浮いている様子は見て取れます。
私は思わず息を呑み、スプーンを取り落としそうになりました。
「こ、これは……、まさか」
「そのまさかだ。記事には『異国から取り寄せた、美しい青紫の花。手入れ入らずで瞬く間に増える魔法の花』と書いてある」
アルフレッド様はコーヒーを一気に飲み干し、立ち上がりました。
「フローラ、準備をしろ。作業着だ。それと、一番丈夫な熊手と長靴を用意しろ」
「えっ? お出かけですか?」
「ああ。隣の領地が死の湖になる前に、止めに行かねばならん。……手遅れかもしれんがな」
馬車で数十分。
公爵領と伯爵領の境界にある大きな湖に到着した私たちは、その光景に言葉を失いました。
そこはもう、湖ではありませんでした。
見渡す限り一面の緑と紫の絨毯。
水面が見えないほどびっしりと、ある植物が繁殖していたのです。
「おお、これはこれは公爵閣下! 我が領地の楽園を見学に来られたのかな!」
湖畔のテラスで優雅にお茶をしていたエドワード様が、私たちに気づいて手を振りました。
その隣には、当然のようにベアトリス様もいます。
「見てくださいまし、フローラさん! わたくしが『お庭もいいけど、水辺にお花があったら素敵じゃない?』と提案しましたの。エドワード様がその願いを叶えてくださったんですのよ!」
「どうだ、壮観だろう? たった数十株植えただけで、一ヶ月でこの広大な湖を覆い尽くしたんだ。肥料もやっていないのに、すごい生命力だ」
二人は無邪気に笑っています。
しかし、その足元――湖の畔には、数人の漁師たちが膝をつき、絶望した顔で頭を抱えていました。
岸辺には、腹を上に向けて浮いた魚の死骸が打ち上げられ、鼻を突く腐敗臭が漂い始めています。
「……エドワード様、ベアトリス様。今すぐ、この植物を全て撤去してください」
私は震える声で言いました。
怒りで、自然と拳が握りしめられます。
「はあ? 何を言っている。こんなに綺麗に咲いているのに」
「綺麗? これが綺麗に見えるのですか? これは……、生態系への侵略です!」
私の剣幕に、エドワード様がたじろぎました。
アルフレッド様が静かに私の前に進み出て、湖面の植物を一株、引っこ抜きました。
根元には、黒く膨らんだ浮き袋のような葉柄がついています。
「この植物の名はホテイアオイ。別名、ウォーターヒヤシンス。水草だ」
「ヒヤシンス? ほら、やっぱりいい花じゃないか」
「その美しさゆえに、世界中で持ち込まれ、そして青い悪魔と呼ばれて恐れられている植物だ」
アルフレッド様は、そのホテイアオイをエドワード様の足元に投げ捨てました。
「見ろ、この漁師たちの顔を。彼らは今、職を失いかけている」
「な、なぜだ? 花があるだけで……」
「想像力が欠如しているな。この植物は爆発的な繁殖力を持つ。見ての通り水面を完全に覆い尽くし、日光を遮断する。するとどうなる?」
アルフレッド様は湖を指差しました。
「水中の植物プランクトンや水草は光合成ができずに枯れ果てる。結果、水中の酸素濃度が激減し、魚たちは酸欠で死滅する。今、この湖の中は死の世界だ」
漁師の一人が、涙ながらに訴えました。
「おっしゃる通りです……! 網を入れても、この草が絡まって引き上げられねぇ。さらに、船のスクリューにも絡みついて、ボートすら出せねぇんだ。俺たちの生活はもうおしまいです……!」
「そ、そんな……」
エドワード様は青ざめました。
「だ、だが、良かれと思って……。領民に美しい景色を見せてやろうと……」
「地獄への道は善意で舗装されている、という言葉を知らんのか」
アルフレッド様の声は、氷のように冷徹でした。
「さらに言えば、この植物は水流を阻害する。大雨が降れば、水の逃げ場がなくなり、下流の村で洪水が起きるぞ。君のやったことは、領民へのプレゼントではない。大規模なテロ行為だ」
テロ、という言葉に、ベアトリス様が「ひっ」と悲鳴を上げました。
「わ、わたくし知りませんでしたわ! ただ、綺麗だからって……」
「無知は罪だと言ったはずだ。外来種を安易に自然界に放つことが、どれほど取り返しのつかないことか」
アルフレッド様は私に視線を送りました。
私は頷き、持ってきた熊手を構えました。
「エドワード様、嘆いている暇はありません。この植物は、放置すればさらに増えます。今すぐ人手を集めて、物理的に除去するしかありません!」
「ぶ、物理的にって……この広い湖をか!?」
「そうです! 除草剤を使えば水質汚染でさらに魚が死にます。人の手で、一株残らず引き上げるしかないんです!」
私は手本を見せるように、岸辺のホテイアオイを熊手で掻き集め、陸へと引き上げました。水分を含んだその草は、ずっしりと重く、腰に負担がかかります。
「さあ、エドワード様も! ベアトリス様も! 種を撒いた責任を取ってください!」
「ええっ!? わたくしのドレスが汚れてしまいますわ!」
「領民の生活とドレス、どちらが大事なんですか!」
普段は気弱な私の、あまりの剣幕に気圧されたのか、二人は渋々といった様子で動き出しました。
アルフレッド様も上着を脱ぎ、袖をまくり上げます。
「やれやれ。私の貴重な研究時間をドブ攫いに費やすことになるとはな。……おい、そこの漁師たちも手伝え! 引き上げたホテイアオイは乾燥させれば優秀な堆肥や飼料になる。資源として活用する準備をするんだ!」
アルフレッド様の的確な指示が飛び交うと、絶望していた漁師たちの目にも光が戻りました。
その日の夕暮れ。
湖の半分ほどの水面が見えるようになった頃、エドワード様とベアトリス様は泥だらけになって岸辺にへたり込んでいました。
かつての美しい花園の幻想は消え、そこにあるのは山のように積み上げられた水草の残骸と、泥と汗にまみれた現実だけです。
「……もう、二度としません。花なんて、もうこりごりだ」
エドワード様が蚊の鳴くような声で呟きました。
「花に罪はありません」
私は汗を拭いながら、彼に冷たい水を差し出しました。
「適切な場所で、適切に管理すれば、ホテイアオイも水を浄化する力を持つ素晴らしい植物なんです。悪いのは、その性質を知ろうともせず、都合よく利用しようとした人間のエゴです」
エドワード様は何も言い返せず、ただうつむいて水を受け取りました。
「行くぞ、フローラ。これ以上ここにいても、筋肉痛がひどくなるだけだ」
泥だらけになってもなお優雅なアルフレッド様が、私を呼びました。
帰り道、馬車の中でアルフレッド様は私の手を取り、マメができかけた指先をそっと撫でました。
「よく怒ったな。普段のおっとりした君からは想像もつかん」
「……植物のことで誰かが不幸になるのは、嫌ですから」
「そうだな。……守るための怒りは、美しいものだ」
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