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第10話:助手契約の更新
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その日の夕暮れ、屋敷に戻った私は、アルフレッド様から執務室へ来るよう命じられました。
重厚な扉の前に立ち、私は深呼吸を繰り返します。
どうしよう……。
何か失敗をしてしまったのかしら……。
村での魔女のスープの一件は無事に解決しましたし、最近の仕事にもミスはないはずです。
けれど、私の心には常に一つの不安がありました。
私はあくまで、家を追い出されたところを拾われた身です。
雇用の契約書も交わしていない、言わばお試し期間中のような状態。
いつ「もう用済みだ」と言われても文句は言えません。
「……失礼します」
ノックをして中に入ると、アルフレッド様は書類の山に埋もれていました。
夕日が窓から差し込み、舞う埃さえも黄金色に輝かせています。
「来たか。座りたまえ」
アルフレッド様はペンを置き、眼鏡を外して眉間を揉みました。
その表情は真剣で、いつもの皮肉めいた笑みはありません。
「フローラ。君がここに来て、今日でちょうど一ヶ月になる」
「あ……、はい。もう、そんなになりますか」
心臓がドクンと跳ねました。
一ヶ月。
それは、使用人の試用期間として一般的な長さです。
「この一ヶ月間、君の働きぶりを観察させてもらった。今日はその総括と、今後の処遇について通達するために呼んだ」
処遇という言葉に、膝の上で握りしめた手が震えます。
ここでの生活は、私にとって夢のような日々でした。
珍しい植物に囲まれ、知識を活かし、そして何より……、この変わり者だけど尊敬できる方と共に過ごせる毎日。
もし「実家に帰れ」と言われたら?
いいえ、実家は勘当されています。
路頭に迷うしかありません。
「まず、君の能力についてだ」
アルフレッド様は、手元のメモを読み上げ始めました。
「観察眼、A評価。花粉や葉脈の微細な違いを見抜く目は、顕微鏡並みと言っていい。知識量、Bプラス。学術的な体系化は不十分だが、実践的な薬草学や毒物学においては、私の予想を遥かに上回っている。家事能力、B。コーヒーの淹れ方は及第点。掃除も丁寧だ」
淡々と続く評価に、私は身を縮こまらせます。
「そして、トラブル対応能力……、これは測定不能だ」
アルフレッド様は顔を上げ、苦笑しました。
「婚約破棄騒動に始まり、香水騒ぎ、幽霊、外来種問題、そして先日の集団食中毒。君の周りにはなぜこうも面倒事が集まるのか。疫病神の才能すら感じるな」
「ううっ……、申し訳ありません……」
やっぱり、迷惑だったんだ。
私がうなだれると、ガタリと椅子を引く音がしました。
アルフレッド様が立ち上がり、机を回り込んで私の前まで歩いてきます。
「だが、その全ての事件において、君は解決の糸口を見つけ出した」
目の前に差し出されたのは、一枚の厚手の紙でした。
そこには『雇用契約書』と書かれています。
「これは……?」
「正式な契約書だ。これまでは口約束だったが、それでは法的効力が弱い。君のような優秀な人材を、他所に引き抜かれては困るからな」
引き抜かれる?
私が?
予想外の言葉に、私は目を丸くしました。
「内容を確認しろ。期間は無期限。給金は王立研究所の主任研究員と同額。さらに、成果に応じてボーナスも支給する。住み込みでの衣食住は当然保証するし、君専用の実験温室も用意しよう」
破格、どころではありません。
王宮の研究員なんて、エリート中のエリートです。
ただの元男爵令嬢に提示される条件ではありません。
「あ、あの……! これ、桁が間違っていませんか? 私、こんなに頂けるような価値なんて……」
「まだ言うか」
アルフレッド様はため息をつき、私の前に片膝をついて目線を合わせました。
その碧眼が、逃げようとする私の瞳を真っ直ぐに射抜きます。
「フローラ。君は自分のことを『雑草』だと言ったな。地味で、踏まれても文句を言わない、価値のない草だと」
「……はい。ずっと、そう言われて育ちましたから」
「それは間違いだ」
アルフレッド様の手が、私の頬にそっと触れました。
無骨で、土の匂いがする指先。
「植物学において雑草という名の草は存在しない。全ての草には名前があり、役割があり、独自の生存戦略がある。君も同じだ」
彼は、まるで世界で一番珍しい花を見つけた探検家のような顔で、私に微笑みかけました。
「君は雑草ではない。私が見つけた、新種の発見だ」
時が止まったようでした。
新種の発見。
植物学者にとって、それがどれほど最大の賛辞であり、情熱の対象であるか、私には痛いほど分かります。
「……新種、ですか? 私みたいな、地味な女が」
「ああ。学名はまだ決めていないがな。……強靭な根を持ち、どんな環境でも芽吹き、時には毒をもって敵を制し、そして誰よりも優しい花を咲かせる」
アルフレッド様は契約書を私の手に握らせました。
「私はこの新種を、誰にも渡したくない。私の側で、その花を咲かせ続けるところを一番近くで観察したいんだ。……これは、研究者としての独占欲だよ」
視界が滲みました。
エドワード様には「雑草」と捨てられ、父には「役立たず」と追放された私。
そんな私を、この人は見つけ出し、名前を与え、価値を認めてくれました。
「……ふつつか者ですが、よろしくお願いします。所長……、いえ、アルフレッド様」
「ああ。こちらこそ、よろしく頼む。私の助手」
涙を拭いながらサインした契約書は、私の人生で初めての、自分自身の意志で選び取った未来でした。
「さて、契約成立の祝杯といこうか」
「あ、はい! お茶を淹れますね」
「いや、今日はこれだ」
アルフレッド様が棚から取り出したのは、あの青梅のシロップ漬けの瓶でした。
氷砂糖に漬け込んで一ヶ月。
まだお酒にはなっていませんが、透明なシロップが黄金色に輝き始めています。
「毒が抜けて、甘くなっている頃だろう?」
グラスに注がれたシロップを炭酸水で割ると、シュワシュワと涼しげな音がしました。
二人でグラスを合わせます。
「乾杯」
口に含むと、爽やかな酸味と優しい甘さが広がりました。
かつては毒を持っていた未熟な実が、時間をかけて、こんなにも美味しい飲み物に変わる。
それはまるで、これからの私たちの関係を予感させるような味でした。
「……美味しいです」
「ああ。悪くない」
窓の外には一番星が光っていました。
私の新しい生活、新たな章の幕開けです。
これからは助手として、もっと胸を張って、この人の隣を歩いていこう。
そう心に誓った夜でした。
重厚な扉の前に立ち、私は深呼吸を繰り返します。
どうしよう……。
何か失敗をしてしまったのかしら……。
村での魔女のスープの一件は無事に解決しましたし、最近の仕事にもミスはないはずです。
けれど、私の心には常に一つの不安がありました。
私はあくまで、家を追い出されたところを拾われた身です。
雇用の契約書も交わしていない、言わばお試し期間中のような状態。
いつ「もう用済みだ」と言われても文句は言えません。
「……失礼します」
ノックをして中に入ると、アルフレッド様は書類の山に埋もれていました。
夕日が窓から差し込み、舞う埃さえも黄金色に輝かせています。
「来たか。座りたまえ」
アルフレッド様はペンを置き、眼鏡を外して眉間を揉みました。
その表情は真剣で、いつもの皮肉めいた笑みはありません。
「フローラ。君がここに来て、今日でちょうど一ヶ月になる」
「あ……、はい。もう、そんなになりますか」
心臓がドクンと跳ねました。
一ヶ月。
それは、使用人の試用期間として一般的な長さです。
「この一ヶ月間、君の働きぶりを観察させてもらった。今日はその総括と、今後の処遇について通達するために呼んだ」
処遇という言葉に、膝の上で握りしめた手が震えます。
ここでの生活は、私にとって夢のような日々でした。
珍しい植物に囲まれ、知識を活かし、そして何より……、この変わり者だけど尊敬できる方と共に過ごせる毎日。
もし「実家に帰れ」と言われたら?
いいえ、実家は勘当されています。
路頭に迷うしかありません。
「まず、君の能力についてだ」
アルフレッド様は、手元のメモを読み上げ始めました。
「観察眼、A評価。花粉や葉脈の微細な違いを見抜く目は、顕微鏡並みと言っていい。知識量、Bプラス。学術的な体系化は不十分だが、実践的な薬草学や毒物学においては、私の予想を遥かに上回っている。家事能力、B。コーヒーの淹れ方は及第点。掃除も丁寧だ」
淡々と続く評価に、私は身を縮こまらせます。
「そして、トラブル対応能力……、これは測定不能だ」
アルフレッド様は顔を上げ、苦笑しました。
「婚約破棄騒動に始まり、香水騒ぎ、幽霊、外来種問題、そして先日の集団食中毒。君の周りにはなぜこうも面倒事が集まるのか。疫病神の才能すら感じるな」
「ううっ……、申し訳ありません……」
やっぱり、迷惑だったんだ。
私がうなだれると、ガタリと椅子を引く音がしました。
アルフレッド様が立ち上がり、机を回り込んで私の前まで歩いてきます。
「だが、その全ての事件において、君は解決の糸口を見つけ出した」
目の前に差し出されたのは、一枚の厚手の紙でした。
そこには『雇用契約書』と書かれています。
「これは……?」
「正式な契約書だ。これまでは口約束だったが、それでは法的効力が弱い。君のような優秀な人材を、他所に引き抜かれては困るからな」
引き抜かれる?
私が?
予想外の言葉に、私は目を丸くしました。
「内容を確認しろ。期間は無期限。給金は王立研究所の主任研究員と同額。さらに、成果に応じてボーナスも支給する。住み込みでの衣食住は当然保証するし、君専用の実験温室も用意しよう」
破格、どころではありません。
王宮の研究員なんて、エリート中のエリートです。
ただの元男爵令嬢に提示される条件ではありません。
「あ、あの……! これ、桁が間違っていませんか? 私、こんなに頂けるような価値なんて……」
「まだ言うか」
アルフレッド様はため息をつき、私の前に片膝をついて目線を合わせました。
その碧眼が、逃げようとする私の瞳を真っ直ぐに射抜きます。
「フローラ。君は自分のことを『雑草』だと言ったな。地味で、踏まれても文句を言わない、価値のない草だと」
「……はい。ずっと、そう言われて育ちましたから」
「それは間違いだ」
アルフレッド様の手が、私の頬にそっと触れました。
無骨で、土の匂いがする指先。
「植物学において雑草という名の草は存在しない。全ての草には名前があり、役割があり、独自の生存戦略がある。君も同じだ」
彼は、まるで世界で一番珍しい花を見つけた探検家のような顔で、私に微笑みかけました。
「君は雑草ではない。私が見つけた、新種の発見だ」
時が止まったようでした。
新種の発見。
植物学者にとって、それがどれほど最大の賛辞であり、情熱の対象であるか、私には痛いほど分かります。
「……新種、ですか? 私みたいな、地味な女が」
「ああ。学名はまだ決めていないがな。……強靭な根を持ち、どんな環境でも芽吹き、時には毒をもって敵を制し、そして誰よりも優しい花を咲かせる」
アルフレッド様は契約書を私の手に握らせました。
「私はこの新種を、誰にも渡したくない。私の側で、その花を咲かせ続けるところを一番近くで観察したいんだ。……これは、研究者としての独占欲だよ」
視界が滲みました。
エドワード様には「雑草」と捨てられ、父には「役立たず」と追放された私。
そんな私を、この人は見つけ出し、名前を与え、価値を認めてくれました。
「……ふつつか者ですが、よろしくお願いします。所長……、いえ、アルフレッド様」
「ああ。こちらこそ、よろしく頼む。私の助手」
涙を拭いながらサインした契約書は、私の人生で初めての、自分自身の意志で選び取った未来でした。
「さて、契約成立の祝杯といこうか」
「あ、はい! お茶を淹れますね」
「いや、今日はこれだ」
アルフレッド様が棚から取り出したのは、あの青梅のシロップ漬けの瓶でした。
氷砂糖に漬け込んで一ヶ月。
まだお酒にはなっていませんが、透明なシロップが黄金色に輝き始めています。
「毒が抜けて、甘くなっている頃だろう?」
グラスに注がれたシロップを炭酸水で割ると、シュワシュワと涼しげな音がしました。
二人でグラスを合わせます。
「乾杯」
口に含むと、爽やかな酸味と優しい甘さが広がりました。
かつては毒を持っていた未熟な実が、時間をかけて、こんなにも美味しい飲み物に変わる。
それはまるで、これからの私たちの関係を予感させるような味でした。
「……美味しいです」
「ああ。悪くない」
窓の外には一番星が光っていました。
私の新しい生活、新たな章の幕開けです。
これからは助手として、もっと胸を張って、この人の隣を歩いていこう。
そう心に誓った夜でした。
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