婚約破棄されて捨てられたのですが、なぜか公爵様に拾われた結果……。

水上

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第29話:歴史ある紫

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 チューリップ・バブルの崩壊で大損害を被ったエドワード様ですが、彼の一発逆転への執念は、ある意味で称賛に値するものでした。

 数日後、王都の会員制高級サロンに、彼の姿はありました。

「今度こそ本物だ。植物のような生き物は病気になったり枯れたりするが、物なら裏切らない」

 エドワード様は目の前のテーブルに広げられた、一枚の美しい布をうっとりと撫でています。
 それは、目の覚めるような鮮やかな紫色の絹織物でした。

「おお……、素晴らしい。これぞ王者の色」

「お目が高い! ローズベリー伯爵令息様」

 揉み手をして近づくのは、胡散臭い髭を生やした古美術商です。

「これは三百年前、失われた古代王朝の女帝が愛用していたとされる伝説の紫衣でございます。使われている染料はもちろん、幻の貝紫。数万個の巻貝からわずか数グラムしか採れない、金よりも尊い紫です」

「貝紫……! 王族しか身につけることを許されなかった禁断の色か!」

 隣にいるベアトリス様も、前のめりになって布を見つめています。

「素敵ですわエドワード様! この紫のドレスを作れば、社交界の女王はわたくしですわ! もう緑色のドレス(ヒ素)みたいに肌がただれることもありませんし!」

「ああ。三百年の時を超えてなお、この鮮やかさ。これこそが本物の歴史の重みだ。言い値で買おう!」

 エドワード様が契約書にサインしようとした、その時でした。

「……三百年、か。時空が歪んでいるようだな」

 呆れたような声と共に、執事の後ろからアルフレッド様が現れました。
 私もその後ろに控えています。
 私たちは、サロンのオーナーから「最近、偽物が横行しているから鑑定してほしい」と依頼を受けていたのです。

「げっ、公爵! また邪魔をする気か!」

「邪魔ではない。君の財布の紐が緩すぎて、脳みそまで零れ落ちそうだから拾いに来たんだ」

 アルフレッド様はテーブルに近づき、紫の布を眼鏡越しにジロリと見下ろしました。

「綺麗な紫だな。均一で、ムラがなく、明るい藤色を帯びている」

「だろう? 保存状態が完璧だったんだ!」

のだよ」

 アルフレッド様は私に目配せしました。
 私は一歩前に出て、古美術商に尋ねました。

「あの、少しよろしいですか? 本物の貝紫――ティリアン・パープルは、アクキガイ科の巻貝の分泌液を日光に当てて発色させるものです。その成分(ジブロモインジゴ)は非常に安定していて、三千年は色が褪せないと言われています」

「さ、左様でございます! だからこそ、この布も美しいままで……」

「ですが、貝紫には独特の特徴があります。少し赤みがかった暗い紫であることと、どうしても動物性の……、磯の香りが微かに残ることです」

 私は布に鼻を近づけました。

「……匂いません。それに、この色は明るすぎます。まるでアオイの花(モーヴ)のような……」

「失敬な! これは正真正銘のアンティークだ!」

 商人が色をなして怒りましたが、アルフレッド様は静かにウェイターを呼び止めました。

「おい、そのブランデーを貸してくれ」

「は、はい」

 アルフレッド様は、受け取った強いブランデーを、惜しげもなく国宝級とされる布の端に垂らしました。

「なっ! 何をすん……!」

 商人が止める間もありませんでした。
 ブランデーが染み込んだ布から、じゅわっと鮮やかな紫色の色素が溶け出し、アルコールの液滴を染め上げました。

「見ろ。色が溶け出したぞ」

「そ、それがどうした! 酒をこぼせば色落ちくらいするだろう!」

 エドワード様が叫びますが、アルフレッド様は首を横に振りました。

「いいや。本物の貝紫は、水にもアルコールにも溶けない。どんな溶剤にも耐える最強の堅牢度を持っているからこそ、帝王の紫と呼ばれたのだ。だが、これはどうだ?」

 アルフレッド様は、紫に染まったブランデーを指差しました。

「アルコールにあっさりと溶けた。これはアニリン染料の特徴だ」

「あにりん……?」

「石炭のタールから作られる、化学合成染料だ」

 アルフレッド様は商人を冷ややかに見据えました。

「この色の名はモーブ。つい数年前、化学者がマラリアの薬を研究中に偶然発見した、世界初の合成染料だ」

 会場が静まり返りました。

「エドワード君。整理してやろう。この商人は『三百年前の布だ』と言った。だが、この布に使われている染料は数年前に発明されたばかりの化学物質だ」

「…………あ」

「三百年前に、タイムマシンに乗った化学者が染めたのなら別だがな。これは現代の工場で大量生産された、ただの絹布だ。市場価格なら……、そうだな、今の言い値の百分の一にもならんだろう」

 商人の顔から血の気が引きました。
 エドワード様は、紫色の布を掴み、呆然と震わせました。

「き、貴様……! 貝の汁じゃなくて、石炭の汁だったのか!?」

「ひぃぃっ! お許しを! 出来が良かったものでつい……!」

 商人は脱兎のごとく逃げ出そうとしましたが、待機していた衛兵たちにあっさりと捕縛されました。

「……また騙されたのか、俺は」

 エドワード様はガックリと項垂れました。

「貝紫だと思っていたものが、石炭のカスだったなんて……」

「化学の進歩は素晴らしいものだぞ」

 アルフレッド様は、ブランデーで濡れた布を拭きながら言いました。

「モーブの発明のおかげで、かつて王族しか着られなかった高貴な紫を、庶民でも楽しめるようになった。これは色の民主化だ。……だが、それを骨董品と偽って売るのは、科学への冒涜だがな」

「……もういい。帰る」

 エドワード様は疲れ切った顔で立ち上がりました。
 ベアトリス様も、「石炭で作ったドレスなんて着たくありませんわ!」と吐き捨て、さっさと出口へ向かいます。

 去りゆく二人の背中を見送りながら、私はふと思いました。

「……アルフレッド様。合成染料自体は、悪いものではありませんよね?」

「もちろんだ。安価で、鮮やかで、多くの人を彩ることができる。素晴らしい発明だ」

 アルフレッド様は私の髪を撫でました。

「だが、どんなに技術が進歩しても、本物を見る目は養わねばならん。……歴史の重みは、染料の分子構造の中に刻まれているのだからな」

 ニセモノの紫が暴かれたサロンで、私の目には、アルフレッド様の着ている飾り気のない黒いコートが、どんな王の衣装よりも気高く映りました。
 それは彼が、嘘偽りのない真実だけを纏っているからでしょう。

 こうして、王都での流行の毒を巡る騒動は、科学の力によって一つずつ解毒されていきました。
 しかし、まだ終わりではありません。

 私たちが小悪党たちの相手をしている間に、王宮の奥深くでは、もっと大きな、国を揺るがす陰謀の根が張り巡らされていたのです。
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