王太子から婚約破棄されましたが、インフラを支えていたの、実は私なんです~辺境改革で忙しいので、今さら復縁要請されても遅いです~

水上

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第1話:その断罪は、論理的に破綻しています

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 王宮の大広間の壁際、目立たない位置に佇むヴィオラ・フォン・クラインは、手にしたグラスの中の炭酸気泡を無表情に見つめていた。

 きっちりとまとめられた紺青色の髪。
 鼻梁に乗った銀縁の眼鏡。

 彼女の頭の中にあるのは、煌びやかな舞踏ではなく、開発中の高弾性ゴムの配合比率だけだ。

 楽団の演奏が唐突に止まった。

 大広間の中央、スポットライトを浴びるようにして立ったのは、この国の王太子クリストフェル・ヴァレンティンである。

 そしてその腕には、巻き髪が愛らしい男爵令嬢、クロエ・ダルトンがしなだれかかっていた。

「ヴィオラ・フォン・クライン! 前へ出ろ!」

 王太子のよく通る声が響く。
 ヴィオラは優雅な所作で御前に進み出た。

「お呼びでしょうか、殿下」

「私は今この時をもって、貴様との婚約を破棄する!」

 会場がどよめきに包まれる。
 しかし、当事者であるヴィオラの心拍数は平常値のままだった。

 彼女にとって、愛のない政略結婚など契約の一つに過ぎない。
 契約解除の申し出があれば、違約金と条件を確認するだけのことだ。

「承知いたしました。理由をお伺いしても?」

「貴様がクロエを虐げ、あまつさえ彼女の優秀な研究成果を盗用したからだ!」

 クリストフェルは勝利を確信したような笑みを浮かべ、一冊の論文を高く掲げた。

「盗用、ですか」

「そうだ! これはクロエが書き上げた『ゴムの弾性向上に関する新技法』だ。地味で取り柄のない貴様が、焦って彼女のアイデアを盗んだことは明白だ!」

 王太子の腕の中で、クロエが怯えたように身を縮める。

「ごめんなさいヴィオラ様……。でも、それは私が徹夜して書いた、みんなの幸せのための論文なんですぅ……」

「おお、可哀想なクロエ。心配するな、正義は必ず勝つ」

 美しい愛の劇場に、周囲の貴族たちは涙ぐんでいる。
 ヴィオラは冷静に、王太子が掲げている論文の表紙を見た。

 タイトルはヴィオラが先月書き上げ、王立研究室の机に入れておいたものと酷似している。
 だが、著者はクロエ・ダルトンになっていた。

(なるほど。施錠管理の甘さを突かれた私のミスですね。再発防止策を講じなければ)

 反省すべき点はそこだ。
 だが、看過できない点が一つある。

 ヴィオラは淡々とした口調で言った。

「殿下。恐れ入りますが、その論文の中身について、著者のクロエ様にいくつか質問をさせていただいてもよろしいでしょうか?」

「ふん、悪あがきを。いいだろう、彼女の博識ぶりに恥をかくといい!」

 ヴィオラはクロエに向き直った。

「クロエ様。貴女の論文の四ページ目についてです」

「えっ……、は、はい。四ページ目ですね」

「そこにはゴムの強度を高めるために硫黄を添加すると書かれています。画期的な着眼点ですわ」

「そ、そうでしょう? 愛の力で結びつけるイメージなんです!」

 ヴィオラは表情一つ変えずに切り込んだ。

「では伺います。不溶性硫黄と可溶性硫黄の使い分けについて、この論文では触れられていませんが、どのような基準でお決めになったのですか?」

 会場に静寂が落ちた。
 クロエの笑顔が凍りつく。

「ふ……、ふよう……?」

「通常の硫黄はゴムへの溶解度があり、室温に戻ると表面に粉が噴き出すブルーミング現象を起こします。それを防ぐための不溶性硫黄の配合比率、当然計算されていますよね?」

「え、えっと……、それは、その……」

 クロエが助けを求めるように王太子を見上げる。
 だが、王太子にも意味がわかっていない。

 ヴィオラは追撃の手を緩めない。

「計算されていないのですか? では次の質問です。この論文に基づいて試作されたゴム製品を、実際にご持参いただいておりますか? ここで物性を測定してみてもよろしいでしょうか?」

 クロエは後ずさりした。

「し、試作品……? そんな汚いもの、ここには……」

「汚い?」

 ヴィオラの目が鋭く光った。

「開発とは、泥と油にまみれて行うものです。実証データのない理論など、ただの妄想に過ぎません」

 逃げ場を失ったクロエの顔が赤くなり、そして次の瞬間、彼女は両手で顔を覆って泣き出した。

「ひどいっ! ヴィオラ様がいじめますぅ! 難しい言葉ばかり並べて、私を馬鹿にして……、ううっ、酷いですわ!」

 その瞬間、クリストフェルが激昂して叫んだ。

「貴様! クロエの純粋な涙を見て、心が痛まないのか!」

「水分と塩分が排出されたからといって、盗作の事実が消えるわけではありません。さあ、弁明をどうぞ。数字は嘘をつきませんから」

 そう言ってヴィオラが懐から取り出したのは、研究日誌の写しだった。

 そこには、論文の日付よりも半年も前から、実験データが詳細に記録されている。
 インクの酸化具合を見れば、どちらが古いかは一目瞭然だ。

「……っ、こ、この冷血女め!」

 論理で勝てないと悟ったクリストフェルは、顔を真っ赤にして地団駄を踏んだ。

「もうよい! 貴様のような可愛げのない女は、我が国には不要だ! 辺境へでもどこへでも行って野垂れ死ぬがいい!」

 それは、実質的な追放命令だった。
 だが、ヴィオラにとっては朗報だった。

「承知いたしました。では、これにて失礼いたします」

 ヴィオラは完璧なカーテシーを披露すると、踵を返した。
 背後でクロエが「勝った!」という顔をしているのが気配でわかる。

 王太子は「せいせいした」と叫んでいる。
 ヴィオラは心の中で息をついた。

 (私の心には絶縁加工を施してありますから。理解のない人々の言葉など、私を通電して熱を持つことはありません。……ただの空気振動です)

 大広間の扉を開け、夜の冷たい外気に出た瞬間。
 ヴィオラの前に、巨大な影が立ちはだかった。

「……見事な手際だったな」

 低く、地響きのような声。
 見上げると、そこには顔に大きな古傷を持つ、強面の男が立っていた。

 夜の闇よりも深い黒髪に、獣のような琥珀色の瞳。
 社交界で冷徹公爵、歩く凶器と恐れられる辺境伯、ルーファス・アッシュバーンだった。

 ヴィオラは瞬時に警戒レベルを引き上げたが、男の次の言葉は予想外のものだった。

「単刀直入に言おう。今、俺が必要なのは過酷な辺境で、俺と共に泥をすすり、それでも明日を作るための知恵を持つパートナーだ」

 男は、ヴィオラの目を真っ直ぐに見つめ、不器用に手を差し出した。

「……君の技術を、俺に売ってくれ」

 ヴィオラは瞬きをした。
 唐突に、彼女が積み上げてきた技術を求められた。

 その瞬間、ヴィオラの胸の奥で、カチリと何かのスイッチが入る音がした。
 それはまるで、今まで噛み合わなかった歯車が、初めて正しく噛み合ったかのような感触だった。

「……まずは、条件を提示してください。それから検討します」

 ヴィオラは答えた。

 これが、彼女の絶縁された心が、再び熱を帯びるきっかけになるとは、今の彼女はまだ知る由もなかった。
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