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第2話:白い結婚の提案
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夜会の喧騒が遠ざかった王宮のテラスで、ヴィオラ・フォン・クラインは目の前の巨躯を見上げていた。
辺境伯ルーファス・アッシュバーン。
社交界では笑わない熊、歩く要塞などと囁かれる恐怖の対象だが、彼女は先ほど突きつけられた「技術を売れ」という言葉を脳内で反芻した。
「閣下。先ほどの提案について、詳細な条件を伺っても?」
ヴィオラが眼鏡の縁を直しながら問うと、ルーファスは眉を上げた。
「……随分と落ち着いているな。王太子に婚約を破棄され、衆人環視の中で恥をかかされた直後だぞ。泣き叫ぶか、気絶するかと思っていたが」
「感情的消耗は非生産的です。私の心には絶縁加工を施してありますから」
ヴィオラは淡々と答えた。
絶縁体。
電気や熱を通しにくい物質。
彼女にとって、他人の悪意や嘲笑はノイズに過ぎない。
回路に入り込まないよう、幼い頃から徹底的にシールドを張ってきたのだ。
「殿下の判断は論理的整合性を欠いていました。あのようなトップの下で開発を続けても、予算は横領され、成果は剽窃されるだけ。損切りするには最適なタイミングかと」
「……損切り、か」
ルーファスが喉の奥で低く唸った。
それは、呆れというよりは、感心を含んだ響きだった。
「気に入った。やはり俺の目に狂いはなかったようだ」
彼は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、ヴィオラに差し出した。
それは、既に署名欄以外が埋められた契約書だった。
「単刀直入に言おう。俺と結婚してくれ」
「……はい?」
さすがのヴィオラも、思考回路が一瞬ショートした。
技術を買うという話ではなかったのか。
なぜ婚姻契約という法的拘束力が必要になるのか。
「誤解するな。俺が求めているのは辺境伯夫人という権限を持つ開発責任者だ」
ルーファスはヴィオラの困惑を察したように、ぶっきらぼうに早口で補足した。
「我がアッシュバーン領は、北の最果てにある。土地は痩せ、冬は厳しく、インフラは崩壊寸前だ。民は飢え、疫病や災害に怯えている。俺は武人だ。獣を狩ることはできても、土地を豊かにする術を知らん」
彼の琥珀色の瞳が、切実な光を帯びてヴィオラを射抜いた。
「王都で見かけた君の特許技術……、ゴムによる防水加工や配管技術。あれがあれば、領地の水利問題を解決できると考えた。だが、辺境伯領の予算を外部の技術者に全額投じるには、議会の承認などで時間がかかりすぎる」
「なるほど。夫人という立場であれば、領主代行として予算執行権限を即座に行使できる。家庭内決済で済みますから、リードタイムを最小限に短縮できるわけですね」
ヴィオラが頷くと、ルーファスは「話が早くて助かる」とばかりに頷いた。
「期間は、領地のインフラ改革が軌道に乗るまで。その間、君には領内の全権限を与える。予算も資材も好きに使っていい。その代わり……、領地を、救ってほしい」
「……寝室は?」
「別だ……。白い結婚とする。君の貞操は保証するし、契約終了後の身の振り方も支援しよう」
完璧な条件だった。
ヴィオラにとって、王都での生活は息苦しいものだった。
「可愛げがない」と陰口を叩かれ、研究予算も減らされ続けてきた。
だが、この男は違う。
ヴィオラを女として値踏みするのではなく、機能として正当に評価し、必要としている。
技術者として、これ以上の待遇があるだろうか。
「……条件があります」
「なんだ? 宝石か? ドレスか?」
「加硫装置とプレス機を置ける専用ラボをください。あと、硫黄の臭いがしても文句を言わないこと」
ルーファスは一瞬きょとんとして、それから古傷のある頬を歪めてニヤリと笑った。
「城の離れを一つ丸ごとやる。好きに使え」
「交渉成立ですね」
ヴィオラは懐から携帯用のペンを取り出し、迷うことなく契約書にサインした。
そして、実家であるクライン伯爵家に戻ったヴィオラを待っていたのは、予想通りの怒号だった。
「この役立たずが! 王太子殿下に婚約破棄されるなど、家の恥だ!」
父親である伯爵は、顔を真っ赤にして怒鳴り散らしていた。
「お言葉ですがお父様。あれは殿下の有責による一方的な破棄です。慰謝料請求の準備は済ませてあります」
「やかましい! お前のような可愛げのない娘を嫁にもらってくれる奇特な家など、もうどこにも……」
「あります」
ヴィオラは先ほど署名したばかりの契約書……、婚姻届をテーブルに叩きつけた。
「アッシュバーン辺境伯閣下と縁談がまとまりました。本日付で嫁ぎますので、これにて失礼します」
「は……? あ、あのアッシュバーン辺境伯だと!?」
父親の顔から血の気が引いた。
アッシュバーン辺境伯家は、王家に次ぐ武力を誇る名門中の名門だ。
だが、その領地は過酷で、当主は魔王のように恐ろしいと噂されている。
そんな相手に、自分の娘が気に入られるはずがない。
「嘘をつくな! どうせ、逃げるための出まかせだろう!」
「嘘ではありません。迎えの馬車が表に来ています」
その時、玄関ホールがざわめいた。
使用人たちの悲鳴と共に、重い足音が響いてくる。
現れたのは、旅装に着替えたルーファスだった。
その巨体と殺気立った雰囲気に、父親は「ひっ」と情けない声を上げて腰を抜かした。
「ヴィオラ。荷造りは済んだか」
「はい、閣下。必要最低限の機材と文献はまとめました」
ヴィオラの足元には、ドレスなどの衣類はほとんどなく、代わりに大量の図面ケースや実験器具の木箱が積み上げられていた。
ルーファスはそれを見て、嫌な顔一つせずに木箱を軽々と持ち上げた。
「……重いな。何が入っている?」
「高圧蒸気用の試作バルブと、天然ゴムのサンプルです。衝撃厳禁でお願いします」
「了解した。俺の馬車に乗せる」
父親は、あの恐ろしい辺境伯が、娘の荷運びをしている光景を信じられない目で見つめていた。
「な、なぜだ……? なぜヴィオラのような石ころを……」
「石ころ?」
ルーファスが足を止め、ギロリと父親を睨みつけた。
その視線の鋭さに、室内の温度が三度は下がった気がした。
「彼女の価値が分からんとは、王都の人間というのは随分と目が節穴らしい。彼女は石ころなどではない。この国を支える礎石だ」
吐き捨てるように言うと、ルーファスはヴィオラに向き直り、ぶっきらぼうに言った。
「行くぞ。夜明け前には国境を越えたい」
「はい」
ヴィオラは一度も振り返ることなく、生まれ育った家を後にした。
家族との別れに涙はない。
彼女の胸にあるのは、これから始まる新しい生活への期待と、自分を礎石と呼んでくれた不器用な男への、わずかな興味だけだった。
馬車に乗り込む際、ルーファスが手を差し伸べてきた。
エスコートというよりは、荷物を積むような手つきだったが、その掌は大きくて温かかった。
「……辺境は寒いぞ」
「平気です。発熱性の高いインナーウェアも開発済みですので」
「……そうか」
会話はそこで途切れたが、沈黙は不思議と苦痛ではなかった。
車輪が回り始め、王都の灯りが遠ざかっていく。
(……やるべきことは山積みね。腕が鳴るわ)
こうして、地味で堅物な令嬢と強面辺境伯の、契約生活が幕を開けたのである。
辺境伯ルーファス・アッシュバーン。
社交界では笑わない熊、歩く要塞などと囁かれる恐怖の対象だが、彼女は先ほど突きつけられた「技術を売れ」という言葉を脳内で反芻した。
「閣下。先ほどの提案について、詳細な条件を伺っても?」
ヴィオラが眼鏡の縁を直しながら問うと、ルーファスは眉を上げた。
「……随分と落ち着いているな。王太子に婚約を破棄され、衆人環視の中で恥をかかされた直後だぞ。泣き叫ぶか、気絶するかと思っていたが」
「感情的消耗は非生産的です。私の心には絶縁加工を施してありますから」
ヴィオラは淡々と答えた。
絶縁体。
電気や熱を通しにくい物質。
彼女にとって、他人の悪意や嘲笑はノイズに過ぎない。
回路に入り込まないよう、幼い頃から徹底的にシールドを張ってきたのだ。
「殿下の判断は論理的整合性を欠いていました。あのようなトップの下で開発を続けても、予算は横領され、成果は剽窃されるだけ。損切りするには最適なタイミングかと」
「……損切り、か」
ルーファスが喉の奥で低く唸った。
それは、呆れというよりは、感心を含んだ響きだった。
「気に入った。やはり俺の目に狂いはなかったようだ」
彼は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、ヴィオラに差し出した。
それは、既に署名欄以外が埋められた契約書だった。
「単刀直入に言おう。俺と結婚してくれ」
「……はい?」
さすがのヴィオラも、思考回路が一瞬ショートした。
技術を買うという話ではなかったのか。
なぜ婚姻契約という法的拘束力が必要になるのか。
「誤解するな。俺が求めているのは辺境伯夫人という権限を持つ開発責任者だ」
ルーファスはヴィオラの困惑を察したように、ぶっきらぼうに早口で補足した。
「我がアッシュバーン領は、北の最果てにある。土地は痩せ、冬は厳しく、インフラは崩壊寸前だ。民は飢え、疫病や災害に怯えている。俺は武人だ。獣を狩ることはできても、土地を豊かにする術を知らん」
彼の琥珀色の瞳が、切実な光を帯びてヴィオラを射抜いた。
「王都で見かけた君の特許技術……、ゴムによる防水加工や配管技術。あれがあれば、領地の水利問題を解決できると考えた。だが、辺境伯領の予算を外部の技術者に全額投じるには、議会の承認などで時間がかかりすぎる」
「なるほど。夫人という立場であれば、領主代行として予算執行権限を即座に行使できる。家庭内決済で済みますから、リードタイムを最小限に短縮できるわけですね」
ヴィオラが頷くと、ルーファスは「話が早くて助かる」とばかりに頷いた。
「期間は、領地のインフラ改革が軌道に乗るまで。その間、君には領内の全権限を与える。予算も資材も好きに使っていい。その代わり……、領地を、救ってほしい」
「……寝室は?」
「別だ……。白い結婚とする。君の貞操は保証するし、契約終了後の身の振り方も支援しよう」
完璧な条件だった。
ヴィオラにとって、王都での生活は息苦しいものだった。
「可愛げがない」と陰口を叩かれ、研究予算も減らされ続けてきた。
だが、この男は違う。
ヴィオラを女として値踏みするのではなく、機能として正当に評価し、必要としている。
技術者として、これ以上の待遇があるだろうか。
「……条件があります」
「なんだ? 宝石か? ドレスか?」
「加硫装置とプレス機を置ける専用ラボをください。あと、硫黄の臭いがしても文句を言わないこと」
ルーファスは一瞬きょとんとして、それから古傷のある頬を歪めてニヤリと笑った。
「城の離れを一つ丸ごとやる。好きに使え」
「交渉成立ですね」
ヴィオラは懐から携帯用のペンを取り出し、迷うことなく契約書にサインした。
そして、実家であるクライン伯爵家に戻ったヴィオラを待っていたのは、予想通りの怒号だった。
「この役立たずが! 王太子殿下に婚約破棄されるなど、家の恥だ!」
父親である伯爵は、顔を真っ赤にして怒鳴り散らしていた。
「お言葉ですがお父様。あれは殿下の有責による一方的な破棄です。慰謝料請求の準備は済ませてあります」
「やかましい! お前のような可愛げのない娘を嫁にもらってくれる奇特な家など、もうどこにも……」
「あります」
ヴィオラは先ほど署名したばかりの契約書……、婚姻届をテーブルに叩きつけた。
「アッシュバーン辺境伯閣下と縁談がまとまりました。本日付で嫁ぎますので、これにて失礼します」
「は……? あ、あのアッシュバーン辺境伯だと!?」
父親の顔から血の気が引いた。
アッシュバーン辺境伯家は、王家に次ぐ武力を誇る名門中の名門だ。
だが、その領地は過酷で、当主は魔王のように恐ろしいと噂されている。
そんな相手に、自分の娘が気に入られるはずがない。
「嘘をつくな! どうせ、逃げるための出まかせだろう!」
「嘘ではありません。迎えの馬車が表に来ています」
その時、玄関ホールがざわめいた。
使用人たちの悲鳴と共に、重い足音が響いてくる。
現れたのは、旅装に着替えたルーファスだった。
その巨体と殺気立った雰囲気に、父親は「ひっ」と情けない声を上げて腰を抜かした。
「ヴィオラ。荷造りは済んだか」
「はい、閣下。必要最低限の機材と文献はまとめました」
ヴィオラの足元には、ドレスなどの衣類はほとんどなく、代わりに大量の図面ケースや実験器具の木箱が積み上げられていた。
ルーファスはそれを見て、嫌な顔一つせずに木箱を軽々と持ち上げた。
「……重いな。何が入っている?」
「高圧蒸気用の試作バルブと、天然ゴムのサンプルです。衝撃厳禁でお願いします」
「了解した。俺の馬車に乗せる」
父親は、あの恐ろしい辺境伯が、娘の荷運びをしている光景を信じられない目で見つめていた。
「な、なぜだ……? なぜヴィオラのような石ころを……」
「石ころ?」
ルーファスが足を止め、ギロリと父親を睨みつけた。
その視線の鋭さに、室内の温度が三度は下がった気がした。
「彼女の価値が分からんとは、王都の人間というのは随分と目が節穴らしい。彼女は石ころなどではない。この国を支える礎石だ」
吐き捨てるように言うと、ルーファスはヴィオラに向き直り、ぶっきらぼうに言った。
「行くぞ。夜明け前には国境を越えたい」
「はい」
ヴィオラは一度も振り返ることなく、生まれ育った家を後にした。
家族との別れに涙はない。
彼女の胸にあるのは、これから始まる新しい生活への期待と、自分を礎石と呼んでくれた不器用な男への、わずかな興味だけだった。
馬車に乗り込む際、ルーファスが手を差し伸べてきた。
エスコートというよりは、荷物を積むような手つきだったが、その掌は大きくて温かかった。
「……辺境は寒いぞ」
「平気です。発熱性の高いインナーウェアも開発済みですので」
「……そうか」
会話はそこで途切れたが、沈黙は不思議と苦痛ではなかった。
車輪が回り始め、王都の灯りが遠ざかっていく。
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