婚約破棄と追放ですか? 辺境が王都すら越える経済圏になってしまいますが、よろしいのですね?

水上

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第19話:地獄の釜の泥と、王妃の憂鬱

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「お嬢様、妖精の粉の売れ行きが異常です」

 初夏の日差しが強くなってきた頃。
 商人のガストンが、嬉しい悲鳴とともに屋敷にやってきた。

「隣国の夜会でデビューさせたところ、注文が殺到しましてな。今やアースガルドの銀を持たざる者は貴婦人に非ず、とまで言われています。……そして、その噂が国境を越え、ついに王都のの耳に入ったようです」

「あの方?」

 私が問い返すと、ガストンは声を潜めた。

「国王陛下の正妃、エレオノーラ様です」

「……ジェラルド殿下のお母様ね」

 私は紅茶の手を止めた。
 エレオノーラ王妃。
 美意識が高く、社交界の華と謳われた女性だが、息子である殿下の婚約破棄騒動や偽金事件のせいで、最近は心労が重なっていると聞く。

「王妃様は、極秘の使者を通じて私にこう仰いました。『最近、肌の調子が最悪なの。王都の白粉を塗れば塗るほど、顔色が鉛色にくすんでいく。……北の魔女が作ったという輝く粉なら、この肌を隠せるかしら?』と」

「隠す、ね」

 私は呆れて首を振った。

「典型的な悪循環だわ。鉛中毒で黒ずんだ肌を隠そうとして、さらに厚塗りをする。……そのままだと、肌が壊死して二度と戻らなくなるわよ」

「やはり……。そこで、ご相談です。王妃様に妖精の粉をお売りしてもよろしいので? 敵の親玉のような方ですが」

 ガストンが探るような目で私を見る。
 私は少し考え、そしてニヤリと笑った。

「売るわ。……ただし、セット販売でね。妖精の粉はあくまで仕上げ用。その前に、ボロボロになった肌の土台を治す特効薬が必要よ」

「特効薬? そんなものが、薬草も生えないこの荒野に?」

「あるわよ。薬草よりも効く、最高の泥がね」

 私たちが向かったのは、以前、明礬石(染色用の媒染剤)を採取した火山性ガスが噴き出す岩場だった。
 硫黄の匂いが立ち込め、地面からはグツグツと熱水が湧き出している。

「うっ……、相変わらず、地獄のような臭いですな」

 セバスチャンがハンカチで鼻を押さえる。
 一般人にとっては近寄りたくない場所だろう。
 だが、地質学者には天国だ。

「ここよ」

 私は熱水が湧き出して泥沼になっている場所にしゃがみ込んだ。
 そこにあるのは、灰色がかった粘り気のある泥だ。

「……お嬢様。まさか、この灰色のヘドロを王妃様の顔に塗れと?」

 セバスが絶望的な顔をする。

「言葉を選びなさい、セバス。これはヘドロではないわ。火山泥よ」

 私は手袋をして、温かい泥をすくい上げた。
 ヌルリとした感触。
 微粒子が指紋の隙間に入り込む。

「この泥の正体は、火山灰が熱水で変質したモンモリロナイトやスメクタイトという粘土鉱物よ。……この子たちはね、すごい食いしん坊なの」

「食いしん坊……?」

「ええ。この粘土の粒子には、微細な穴がたくさん空いていて、マイナスの電気を帯びているの。だから、プラスの電気を帯びた汚れや、皮脂、そして……、重金属を強力に吸着する性質があるわ」

 私は泥だらけの手を掲げた。

「つまり、この泥パックを顔に塗れば、王妃様の肌に蓄積した鉛や古い角質を、磁石のように吸い取ってくれる。デトックス効果抜群の掃除機なのよ」

「なんと……。ただの泥が、毒消しになると?」

「さらに、この泥には温泉成分である硫黄やミネラルがたっぷり含まれている。毒を吸い出した後は、栄養を与えて肌をツルツルにしてくれるわ」

 私はガストンに向き直った。

「ガストンさん。この泥を丁寧に濾過して、不純物を取り除き、殺菌したものを壺に詰めましょう。商品名は……、そうね、大地の仮面なんてどうかしら」

「大地の仮面……。高貴な響きですが、中身は泥ですな」

「見た目は悪いけれど、効果は私が保証するわ。……これを王妃様に献上して。使い方の説明書も添えてね。『最初はピリピリしますが、それは毒素が抜けている証拠です』と」

 数週間後。
 再びガストンが、今度は興奮気味に屋敷へ飛び込んできた。

「マリアンヌ様! やりましたぞ! 王妃様からの感謝状です!」

 ガストンが差し出したのは、王家の紋章が入った封蝋つきの手紙だった。
 中には、流麗な筆記体でこう書かれていた。

『――北の賢女、マリアンヌ殿へ。半信半疑で貴女の泥を顔に塗った夜、私は鏡を見て叫びました。洗い流した後の肌が、まるで娘時代のように呼吸を始めたのです。くすみが消え、鉛の毒が抜け、今ではすっぴんでも歩けるほど。愚かな息子が貴女を「泥臭い」と罵ったそうですが、その泥こそが私を救いました。この恩は忘れません。今度、王都の新しい流行として紹介させていただきます――』

「大絶賛ですな」

 セバスが感心したように言った。

「王妃様は、リリーナ様が勧めた鉛白をきっぱりと止めたそうです。『あんな毒を塗るなんて野蛮だわ。これからは泥の時代よ』と仰って、貴族のご婦人方を集めて泥パックパーティーを開いているとか」

「ふふ、想像するとシュールな光景ね。ドレスを着た貴婦人たちが、顔中泥だらけにしてお茶を飲んでいるなんて」

 私は笑った。
 これで、王家の中に強力な楔を打ち込んだことになる。

 ジェラルド殿下やリリーナ様は、私を敵視している。
 だが、その母親である王妃様は、私の泥なしでは生きられない体(肌)になった。

「リリーナ様は悔しがっているでしょうね。自分が流行の最先端だと思っていた化粧が、王妃様によって野蛮な毒と認定されてしまったのだから」

「ざまぁみろ、ですな」

 セバスが珍しく俗な言葉を使ったので、私は目を丸くした。

「あらセバス。貴方、肌艶が良くなったんじゃない?」

「……お嬢様の目を盗んで、余った泥を少し手に塗ってみました。驚くほどスベスベになりまして」

 セバスが照れくさそうに自分の手の甲を撫でる。
 その手は、長年の家事労働で荒れていたはずなのに、今は赤ん坊のように滑らかだ。

「良かったわね。……さあ、これで美の主導権も握ったわ。次は王都の胃袋を掴みにいきましょうか」

 私は窓の外、青々と茂り始めた畑を見やった。
 地質学が生んだ泥の化粧品。

 それは単なる美容法を超え、王都の勢力図を塗り替える政治的な泥爆弾となったのだ。
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