婚約破棄と追放ですか? 辺境が王都すら越える経済圏になってしまいますが、よろしいのですね?

水上

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第27話:黒いインクと、呼吸しない土

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 王都に戻って数日後。
 私は王妃エレオノーラ様主催の帰還歓迎夜会に招かれていた。

 会場は王城の鏡の間。
 シャンデリアの光が降り注ぐ中、私が纏うのはアースガルド領で織り上げ、明礬で鮮やかな緋色に染めたシルクのドレスだ。

 かつて泥臭いと嘲笑された姿はどこにもない。
 周囲の視線は、畏怖と羨望が入り混じったものに変わっていた。

「ようこそ、マリアンヌ。……肌の調子がすこぶる良いのは、貴女のおかげよ」

 壇上の王妃様が、扇子の陰からウィンクを送ってくれた。
 その肌は火山泥パックのおかげで、白粉を塗らずとも艶やかに輝いている。

「勿体ないお言葉です、王妃殿下」

 私が恭しく頭を下げたその時だった。
 会場の空気を読まない、聞き覚えのある傲慢な声が響いたのは。

「ふん! 相変わらず小賢しい手回しが得意な女だ!」

 群衆が割れ、ジェラルド殿下が現れた。
 その隣には、リリーナ様ではなく、黒い燕尾服を着た細身の男が立っている。

 糸のように細い目、青白い肌。
 胡散臭さが服を着て歩いているようなその男こそ、噂のグレイ伯爵だ。

「お久しぶりですわ、殿下。……アースガルドのパンの味は、お忘れになって?」

 私が微笑むと、殿下は顔を赤くして唸った。

「パンのことなど忘れた! ……マリアンヌ、貴様はアースガルドの黒い土で根菜を育てているそうだな。だが、所詮は辺境の痩せた土だ。我々はついに手に入れたぞ。究極の魔法の土をな!」

「魔法の土……、ですか?」

 殿下の合図で、従僕たちが銀の盆を運んできた。
 その上には、山盛りの真っ黒な土が載っている。

「紹介しよう。我が参謀、グレイ伯爵が東方の大陸から取り寄せた黒聖土だ! この土さえ撒けば、どんな不作の年でも小麦が通常の三倍育つという奇跡の土だ!」

 会場がざわめく。
 冷夏の予兆に怯える貴族たちにとって、三倍の収穫という言葉は甘美な響きだ。

 グレイ伯爵が一歩進み出て、恭しく一礼した。

「左様でございます。この土は、古代の魔法使いが祝福を与えたもの。見てください、この漆黒の輝きを。これこそが栄養の塊である証拠です」

 私は盆の上の土をじっと観察した。
 確かに黒い。
 私の領地の火山灰土(黒ボク土)よりもさらに黒く、濡れたような光沢がある。

「……触れても?」

「どうぞ。その貧相な手で、本物の豊かさを知るがいい」

 殿下の許可を得て、私は土をつまみ上げた。
 指先でこねる。

 ……重い。
 そして、ベタベタと指にまとわりつく。

「セバス。グラスにお水を」

「はい、お嬢様」

 私が指示すると、セバスチャンが給仕からクリスタルグラスを受け取り、水を注いで持ってきた。

「何を始める気だ? 土に水をやって拝むのか?」

 殿下が鼻で笑う。
 私は何も答えず、つまみ上げた魔法の土の塊を、ポチャンと水の中に落とした。

 その瞬間。
 グラスの中の水が、モワッとかき乱された。

「……あらら」

 私は残念そうに首を振った。

「殿下。これが究極の土ですか? 私には、ただの窒息死した泥に見えますけれど」

「な、なんだと!?」

「皆様、グラスをご覧ください」

 私がグラスを高く掲げると、貴族たちが注目した。
 グラスの水は、瞬く間に真っ黒に濁り、土の塊は跡形もなく溶けて、底の方にドロドロの沈殿物として溜まっていた。

「良い土というのはね、団粒構造をしているものです」

「だんりゅう……?」

「ええ。土の粒子と、微生物が出す粘液や腐植が混ざり合って、小さな団子状の粒を作っている状態のことよ。この団粒構造があると、土の中に適度な隙間ができる。水持ちが良いのに水はけが良く、空気が通るから根っこが呼吸できるの」

 私はグラスを指差した。

「もしこれが本当に良い土なら、水に落としてもすぐには崩れず、ポコポコと空気が抜ける泡が出るはずです。……でも、これはどう?」

 一瞬で溶けて、ヘドロのようになった。

「これは単粒構造。ただの粘土の粉末です。水に入れた瞬間にバラバラになり、隙間を埋めてしまう。……こんな土を畑に撒いたらどうなると思います?」

 私は殿下の顔を見て、冷酷な予言を口にした。

「雨が降ればドロドロになり、乾けばカチカチに固まって、コンクリートのようになるわ。作物の根は呼吸できずに窒息し、根腐れを起こして全滅するでしょうね」

「ば、馬鹿な! だが、この黒さはどう説明する! 栄養たっぷりの黒土だろうが!」

「セバス、私のハンカチを」

 セバスが差し出した白いハンカチで、私は土がついた指先を拭った。
 すると、ハンカチには土汚れではなく、青黒いインクのような染みがべっとりと付着した。

「……臭いますわね。これは煤と染料の臭い」

 会場が静まり返る。

「この土の正体は、ただの痩せた粘土に、黒い染料と煤を混ぜて着色したものです。見た目だけ肥沃な黒土に見せかけた、粗悪な偽物。……アースガルド領の火山灰土を真似ようとしたのでしょうが、成分までは真似できなかったようですね」

「なっ……! グレイ! どういうことだ!」

 殿下が振り返ると、グレイ伯爵は額に脂汗を浮かべ、泳ぐような目で後ずさりしていた。

「い、いえ! これは特殊な加工でして! 水に入れると溶けるのは、栄養が染み出しやすいように……」

「言い訳は見苦しいわ」

 私が一喝すると、グレイ伯爵はヒッと息を呑んだ。

「農学を舐めないで。土はね、色を塗れば良くなるお化粧道具じゃないの。微生物と植物が何万年もかけて作る、命の揺り籠なのよ」

 私は汚れたハンカチを、グレイ伯爵の胸ポケットにねじ込んだ。

「殿下。その土を畑に撒けば、今年の収穫はゼロになります。……ただでさえ冷夏が予想されるこの時期に、畑をコンクリートで固めるおつもりですか?」

「う、うう……」

 殿下は顔面蒼白になり、膝から崩れ落ちた。
 貴族たちから、ヒソヒソという嘲笑が漏れ始める。

「また偽物か」

「金山の次は土か」

「学習しない王子だ」

「……下がりなさい」

 王妃エレオノーラ様の冷たい声が響いた。

「ジェラルド。貴方は謹慎です。そしてグレイ伯爵、貴方には後ほどたっぷりと土の成分について尋問させてもらいます」

 衛兵たちがグレイ伯爵を取り囲み、連行していく。
 殿下はよろよろと立ち上がり、私を睨みつけたが、何も言い返せずに逃げるように去っていった。

「……やれやれ。土いじりの基本もご存じないとは」

 セバスチャンが新しいおしぼりを渡してくれる。

「お嬢様。これで殿下の増産計画は頓挫しましたな」

「ええ。でも、これで彼らの畑が救われたわけじゃないわ」

 私は窓の外、赤黒い夜空を見上げた。

「偽物の土は排除したけれど、空からの災厄(冷夏)は止められない。……セバス、明日からが本番よ。王都の商人たちを集めて。本当の飢饉対策を教えるわ」

 グラスの中で黒く濁った水。
 それは、これから王都を襲う混沌を予兆しているようだった。

 だが、私には勝算がある。
 偽物の魔法ではなく、本物の科学という武器が……。
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