婚約破棄と追放ですか? 辺境が王都すら越える経済圏になってしまいますが、よろしいのですね?

水上

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第86話:賢者の石の正体と、流れる銀の涙

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 変成岩となったジェラルドたちが王都へ戻ってから数週間。
 新王コンラッド陛下から、私のもとに一通の手紙が届いた。

『――おかげで王都は劇的に機能し始めた。ジェラルドたちは、まるで憑き物が落ちたように働き、書類の山を片付けている。だが、一人だけ、まだ諦めていない男がいる』

 私は手紙を読み、ため息をついた。
 グレイ伯爵。
 偽の金山、偽の黒土、そして放射性鉱物……。
 
 数々の詐欺を主導し、最後に自ら被曝して捕らえられた男だ。

『彼は地下牢で叫んでいる。「私は不老不死の秘法を見つけた! これさえあれば私の病も治り、王に永遠の命を捧げられる!」と。……マリアンヌ嬢、最後に鑑定を頼めるか?』

「……やれやれ。懲りない方ですわね」

 私はアースガルド領の執務室で立ち上がった。
 これで最後だ。
 この国に残る無知という病巣を、完全に切除するために……。

 王城の最深部、重罪人が収監される特別独房。
 そこは、以前の賑やかな法廷とは違い、死の静寂に包まれていた。

「……来たか、マリアンヌ」

 鉄格子の向こうで、グレイ伯爵が闇に浮かんでいた。

 その姿は痛々しい。
 放射線障害で髪は抜け落ち、肌には赤い斑点が浮いている。
 だが、その瞳だけは異様な熱狂で輝いていた。

「見てくれ! これだ! これこそが真の賢者の石だ!」

 グレイは隠し持っていた、鮮やかな赤い石を震える手で掲げた。
 以前のウラン鉱石のような黒い石ではない。
 血のように赤く、妖艶な光沢を放つ結晶だ。

「これを粉にして飲み、あるいは加熱してその蒸気を吸えば、肉体は浄化され、永遠の命が得られる! ……古代の錬金術書にそう書いてあったのだ!」

 グレイは縋るように叫んだ。
 死の恐怖に直面した彼が、最後に逃げ込んだのはオカルトだったのだ。

「……セバス。分析を」

「はい、お嬢様」

 セバスチャンが携帯用の簡易分析キットを開く。
 私はグレイからその石(の欠片)を受け取り、ピンセットで摘み上げた。

「美しい赤色ですね。……辰砂、あるいは朱と呼ばれる鉱物です」

「そうだ! この赤こそが生命の象徴! さあ、火を貸せ! これを炙って、仙薬を作るのだ!」

 グレイが狂ったようにマッチを擦ろうとする。

「おやめなさい。……それは自殺です」

 私は冷徹に告げた。

「辰砂の化学組成は硫化水銀。……硫黄と水銀が結びついた安定した鉱物です。このままなら、ただの赤い顔料(インク)に過ぎません」

 私は石を試験管に入れた。

「ですが、これを加熱するとどうなるか。……化学反応式は『HgS + O2 → Hg + SO2』」

 私は試験管をアルコールランプで軽く炙った。
 すると、赤い石は熱で分解され、試験管の内側に銀色の水滴が結露し始めた。

「見えますか? この銀色の液体」

「お、おお……! これだ! 生きている銀! これこそが不老不死の霊薬!」

 グレイが感動に打ち震える。
 古来より、液体の金属である水銀は、その不思議な性質から魔法の液体と信じられてきた。

「いいえ。それはただの水銀です」

 私は試験管の口をすぐに塞いだ。

「そして、加熱によって発生した蒸気は、猛毒の水銀蒸気です。……これを吸い込めば、肺から吸収されて脳神経を侵します。手足の震え、精神錯乱、そして死」

 私はグレイのただれた顔を見つめた。

「貴方はウランで体を壊し、今度は水銀でトドメを刺そうとしている。……貴方が賢者の石だと信じているものは全て、貴方を殺す毒石なのですよ」

「う、嘘だ……! そんなはずはない! 私は助かりたいんだ! 生きたいんだ!」

 グレイが泣き崩れる。
 その手から赤い石が滑り落ち、床で砕けた。
 中からこぼれ出た銀色の水銀が、涙のように床を転がっていく。

「知識なき願望は、身を滅ぼすだけです」

 私は背後で見守っていたコンラッド陛下に振り返った。

「陛下。彼に必要なのは処刑ではありません。……隔離病棟です」

「……隔離?」

「はい。彼は放射線と水銀の複合中毒に侵されています。もう長くはないでしょう。……せめて静かな場所で、科学的な治療を受けさせ、自分の愚かさと向き合わせるべきです」

 コンラッド陛下は深く頷いた。

「分かった。……グレイよ。その体をもって、無知の代償を後世に伝える標本となれ」

 グレイは兵士たちに担架で運ばれていった。
「私が間違っていたのか……、魔法などなかったのか……」と、うわ言のように呟きながら。

 地下牢を出ると、廊下にはジェラルド(現・財務官僚)が待っていた。
 彼はスーツを着こなし、手には分厚い書類の束を抱えている。

「……終わったか、マリアンヌ」

「ええ。最後の亡霊は去ったわ」

「そうか。……あいつの言葉に、俺もかつては踊らされていたんだな」

 ジェラルドは自嘲気味に笑った。

「金だ、不老不死だと、ありもしない夢ばかり見ていた。……だが、今は違う」

 彼は書類の束をポンと叩いた。

「今の俺にあるのは、この予算案と治水計画書だけだ。地味で、数字だらけで、夢のかけらもない現実だ。……だが、不思議と悪くない気分だ」

「それが実務というものですわ」

 私は彼の肩についたインクの染み(彼が必死に働いている証拠だ)を見て、微笑んだ。

「貴方はもう、偽物の石に騙されることはないでしょう。……自分の中に、確かなコアができたのですから」

「ああ。……ありがとう、マリアンヌ。俺の目を覚まさせてくれて」

 ジェラルドは初めて、元婚約者としてではなく、一人の仕事仲間として私に頭を下げた。
 そして、忙しそうに執務室へと走っていった。

「……綺麗になりましたな」

 セバスチャンが呟く。

「ええ。これで本当に、この国のお掃除は完了よ」

 毒は消え、人は育った。
 私の役目は、これで終わり……、ではない。
 更地になったこの国に、最後に花を添えなくては。

「帰りましょう、セバス。……アースガルドで、クラウス様が待っているわ」

 私は馬車に乗り込んだ。
 次に向かうのは、政治の場でも、犯罪現場でもない。

 私自身の幸せを見つけるための場所だ。
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