婚約破棄と追放ですか? 辺境が王都すら越える経済圏になってしまいますが、よろしいのですね?

水上

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第92話:王立アースガルド・アカデミーと、失敗学の教授

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 私の左薬指に最強の石が収まってから数ヶ月。
 アースガルド領の丘の上に、白亜の巨大な建物が完成した。

「……良い眺めですね、学長」

 セバスチャンが、真新しい校舎を見上げて言った。

 建材には、ハイランド産の石灰岩と、アースガルド産の赤レンガが使われている。
 窓には透明な板ガラスがはめ込まれ、太陽の光をたっぷりと取り込んでいる。

「ええ。ここが私たちの集大成よ」

 私は看板を見上げた。

 王立アースガルド・アカデミー。

 コンラッド陛下とクラウス大公の出資により設立された、この国で初めての学術院だ。

「入学条件はただ一つ。知りたいという好奇心があること。……貴族も、平民も、元・難民も関係ないわ」

 校庭には、すでに多くの若者たちが集まっていた。
 真鍮工場の工員の息子、農家の娘、そして更生した元貴族の子弟たち。
 彼らは皆、私が開発したアース・ペーパーの教科書を抱え、目を輝かせている。

「さあ、記念すべき第一回目の講義を始めましょうか」

 大講堂は満員だった。
 私は壇上に立ち、ざわめく生徒たちを見渡した。

「皆さん、入学おめでとう。……ここでは、剣術やダンスは教えません」

 私は黒板にチョークで大きく書いた。

 地質学、農学、化学。

「教えるのは、貴方たちの足元にある土と、世界を動かす理です。……これを知っていれば、どんな荒野でも生きていけます」

 生徒たちが頷く。
 アースガルド領の繁栄そのものが、その言葉の証明だからだ。

「ですが……、成功体験だけを学んでも、人は賢くなりません。……歴史上、最も多くを学ぶことができるのは失敗からです」

 私は講堂の袖に向かって手招きした。

「ご紹介しましょう。……本校が誇る、特別講師です」

 現れたのは、質素なスーツを着た一人の男だった。

 かつてのような派手な装飾品はない。
 日焼けした肌と、労働で鍛えられた体躯。
 そして、どこか吹っ切れたような清々しい表情。

 元・王太子、ジェラルドだ。

「……紹介に預かった、ジェラルドだ」

 彼が口を開くと、教室がざわめいた。

「おい、あれって廃嫡された王子様じゃ……」

「本物か?」

 ジェラルドは苦笑し、チョークを手に取った。
 そして、黒板にデカデカとこう書いた。

 失敗学。

「俺が教えるのは、いかにして成功するかではない。……いかにして国を滅ぼしかけたか、だ」

 ジェラルドは、ポケットから一つの石を取り出した。
 キラキラと黄金色に輝く石だ。

「これを見て『金だ!』と思った奴、手を挙げろ」

 半数以上の生徒が手を挙げる。

「……残念だったな。これは黄鉄鉱。ただの硫黄と鉄の塊だ。……俺はかつて、これに目が眩んで全財産を失った」

 ジェラルドは自嘲気味に笑った。

「見た目に騙されるな。……条痕色を確認しろ。石の裏側をこすって、黒い粉が出たら偽物だ。……たったそれだけの知識があれば、俺は破産せずに済んだんだ」

 次に、彼は枯れた巨大な葉っぱ、巨大大豆の標本を取り出した。

「次だ。南国の作物は素晴らしいと思うか? ……俺はそう思って、気候も調べずにこれを植え、莫大な予算をドブに捨てた」

 彼は生徒たちを見据えた。

「緯度と日照時間を知れ。……自分の土地に合わない夢を見るな。それは夢じゃなくて、ただの妄想だ」

 教室は静まり返っていた。
 誰も彼を笑わなかった。
 彼が語る失敗談は、あまりにも具体的で、痛々しく、そして何より実体験としての重みがあったからだ。

「いいか、若者たちよ。……俺を笑ってもいい。だが、俺と同じ轍は踏むな」

 ジェラルドは黒板を叩いた。

「無知は罪だ。……だが、失敗を認めず、修正しないことはもっと重い罪だ。俺はそれを、泥の中で学んだ」

 彼は私の方をチラリと見て、少しだけ口角を上げた。

「……優秀なのおかげでな」

「素晴らしい講義でしたわ、ジェラルド先生」

 私が拍手を送ると、生徒たちからも割れんばかりの拍手が巻き起こった。

 かつての愚かな王子は死んだ。
 そこにいるのは、自らの過ちを糧にし、次世代を導く教育者だった。

 講義の後。
 校庭のベンチで、ジェラルドが煙草(アースガルド産の葉タバコだ)をふかしていた。

「……人気講師ね。生徒たちが『もっと話を聞きたい』って言っていたわよ」

「フン。俺の恥を切り売りしているだけだ」

 ジェラルドは煙を吐き出した。

「だが……、悪くない。俺が失敗した分だけ、あいつらが賢くなるなら、あの頃の俺も少しは救われる気がする」

「ええ。貴方はもう、立派な礎よ」

 私は彼に、新しい辞令を手渡した。

「来月からは、リリーナ先生の農業実習も始まります。……彼女、野菜への愛情が強すぎて、生徒より熱心に畑を耕しているそうよ」

「あいつ……。相変わらず極端な奴だ」

 ジェラルドが笑う。

 かつて国を傾けた二人が、今は国の未来を育てている。
 これほど効率的なリサイクル(人材再生)はないだろう。

「マリアンヌ。……お前が作ったこの場所は、金山よりも価値があるな」

 ジェラルドがアカデミーの校舎を見上げた。

「知識は減らない。分け与えれば増える。……俺が王だった頃には、決して気づけなかった真理だ」

「気づけたなら、合格よ」

 チャイムが鳴り、次の授業が始まる。
 教室へ走っていく子供たちの背中には、未来への希望が詰まっていた。

 知識のバトンは渡された。
 私の得た地質学も、農学も、そしてジェラルドが得た教訓も。
 すべては次の世代の中で混ざり合い、新しい化学反応を起こしていくだろう。

「さて、セバス。……学校も軌道に乗ったし、そろそろ最後の仕上げね」

「仕上げ、ですか?」

「ええ。……リリーナ先生が育てたトマト、最近すごく美味しいのよ。彼女が完全に改心したかどうか、味覚で確かめに行きましょう」

 アースガルドの空は、どこまでも青く、高く澄み渡っていた。
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