婚約破棄と追放ですか? 辺境が王都すら越える経済圏になってしまいますが、よろしいのですね?

水上

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第95話:ハネムーンは活火山、愛の熱変性

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 馬車に揺られること数時間。
 私たち新婚夫婦が到着したのは、ハイランド大公国の奥地にある竜のあくびと呼ばれる地熱地帯だった。

「……素晴らしい硫黄の香りだわ!」

 馬車を降りた瞬間、私は深呼吸をした。
 鼻を突く腐卵臭(硫化水素臭)。

 一般人なら顔をしかめるところだが、地質学者にとっては地球が生きている証であり、最高のアロマテラピーだ。

 目の前には、荒々しい岩肌から白い蒸気がシューシューと噴き出している。
 ボコッ、ボコッという泥火山の音。
 極彩色の噴気孔。

「マリアンヌ。……普通の令嬢なら『臭い』と言って気絶する場所だぞ」

 クラウスが苦笑しながら、私の肩にショールをかけてくれる。

「あら、最高のロケーションですわ。……見てください、あの岩の黄色い結晶! 純度100%の硫黄ですよ! 持って帰って火薬の実験に……」

「ストップ。ハネムーン中に爆発物は禁止だ」

 クラウスは私の手を引き、予約していた大公家専用ヴィラへと案内した。
 岩山をくり抜いて作られたその宿は、窓から活火山を一望できる、マニア垂涎のスイートルームだ。

「さて、クラウス様。……お湯に入る前に、大事な実験があります」

 部屋に着くなり、私は持参したバスケットを開けた。
 中に入っているのは、アースガルド領で採れた新鮮な卵と、温度計、そして網だ。

「……実験? 夕食の準備か?」

「いいえ。温泉卵の作成です」

 私はテラスにある、源泉が湧き出る小さな石造りの槽に向かった。
 温度計を差し込む。

「……68度。完璧ですわ」

「何がだ?」

「タンパク質の熱変性温度です」

 私は卵を網に入れ、慎重にお湯に沈めた。

「卵の白身と黄身は、固まる温度が違います。……黄身は約65度から固まり始めますが、白身は完全に固まるのに80度近く必要です」

 私は懐中時計を取り出し、セバスチャンに渡した。

「つまり、65度から70度のお湯に30分間浸けておくとどうなるか? ……黄身はねっとりと固まり、白身はトロトロの半熟状態になる。……これこそが、物理法則が生み出す究極の食感、温泉卵なのです!」

「……なるほど。ただ茹でるだけではないのだな」

 クラウスは感心しつつも、呆れたように私の髪を撫でた。

「だがマリアンヌ。……君は卵の温度管理には熱心だが、私の体温についてはどう考えているんだ?」

「え?」

 見上げると、クラウスが少し拗ねたような、それでいて熱っぽい瞳で私を見下ろしていた。

「新婚旅行の初夜だぞ。……卵より先に、私を温めてくれないか?」

「……極楽ですわ」

 卵が茹で上がるまでの間、私たちはヴィラに併設された露天風呂に浸かっていた。

 乳白色の濁り湯。
 硫黄成分とミネラルが豊富で、肌にまとわりつくような滑らかさがある。
 頭上には満天の星空。
 目の前には、赤く光る火山の噴煙。

「君がアースガルドで掘り当てようとしていたのも、こんな温泉か?」

 隣に座るクラウスが、お湯をすくって私の肩にかける。

「ええ。成分分析を見る限り、アースガルドの地下にはこれ以上の水脈が眠っていますわ。……帰ったら本格的に掘削して、一大リゾート地を作りましょう」

「仕事熱心だな。……だが、今は忘れろ」

 クラウスがお湯の中で私の手を取り、指を絡ませた。
 薬指のダイヤモンドが、月明かりとお湯の反射でキラリと光る。

「マリアンヌ。……私は君と出会って、世界が変わった」

 彼は静かに語り始めた。

「以前の私は、この国を寒くて厳しい岩の国だと思っていた。……だが君は、岩の中に宝石を見つけ、雪の中に温かさを見つけ、毒の川すら資源に変えた」

 彼の手が、私の頬に触れる。

「君の目を通すと、この世界は可能性に満ちていて、美しく輝いて見える。……君は私の人生の開拓者だ」

「クラウス様……」

 私はお湯の中で彼の胸に寄り添った。
 地質学は、過去を知る学問だ。
 でも、彼との時間は未来を作っていく。

「私にとっても、貴方は最高の鉱脈です。……掘れば掘るほど、新しい一面(優しさや情熱)が出てくるんですもの。一生かけても分析しきれないかもしれません」

「フッ。……覚悟しておけ。私の埋蔵量は無尽蔵だぞ」

 クラウスが顔を近づけ、湯気の中で唇が重なった。
 火山の熱気よりも熱く、硫黄の香りすら甘く感じるような、濃厚なキス。

「……おっと。お熱いところ失礼します」

 タイミング悪く(あるいは良く)、セバスチャンの声がした。

「お嬢様、お時間です。……卵が、理論通りに仕上がりましたぞ」

 湯上がり。
 私たちはバスローブ姿で、月を見ながら実験結果を味わった。

 殻を割ると、プルンとした白身が滑り落ち、中から黄金色の黄身が濃厚なソースのように溢れ出した。
 出汁を少しかけて口に運ぶ。

「……美味い」

 クラウスが目を見開いた。

「白身は喉越しが良く、黄身は舌に絡みつくほど濃厚だ。……固茹で卵とは全く別物だな」

「でしょう? これが68度の魔法です」

 私も一口食べた。
 トロリとした食感と、卵の甘み。
 そして、微かな硫黄の香りがスパイスになっている。

「成功ね。……アースガルドの温泉が湧いたら、これを名物にして売りましょう。愛の温泉卵なんてどう?」

「……ネーミングセンスは再考の余地があるが、味は保証しよう」

 クラウスが笑い、もう一口私に食べさせてくれた。

 外では、火山がゴゴゴと低い音を立てている。

 地球の鼓動と、二人の心音が重なる夜。
 ハネムーンの実験は大成功。

 私たちの愛も、この温泉卵のように、熱によって甘く、濃厚に固まりつつあった。
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