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第26話:奇跡の霊薬と生存者バイアス
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王都の社交界で、奇妙な流行が起きていた。
聖女の涙と呼ばれる小瓶に入った水が、法外な値段で取引されているのだ。
発信源は、もちろんイザベラ・ローズだった。
彼女はサロンの檀上に立ち、青い小瓶を掲げて熱弁を振るっていた。
「皆さん、信じてください! これは私が精霊に祈りを捧げて清めた聖水です。これを飲めば肌は若返り、どんな病も治り、幸運が舞い込むのです!」
周囲には、すでに信者と化した貴族たちが群がっている。
「おお、イザベラ様! 私にもその水を!」
「前回の分を飲んだら、本当に腰痛が治ったんです!」
「私は商談がうまくいきました!」
熱狂的な賛辞の声。
イザベラは満足げに頷き、会場の隅にいたリリアを見つけた。
「あら、リリアさん。貴女、顔色が冴えませんわね。日々の行いが悪いから精霊に見放されているのではありませんか?」
イザベラは憐れむような目でリリアに歩み寄った。
「特別に貴女にも売ってあげますわ。金貨10枚。安いくらいですけれど、貴女のその淀んだ魂を浄化するにはこれしかありませんよ」
「えっと……、お水に金貨10枚は、さすがに……」
リリアが困惑して断ろうとすると、周囲の信者たちが一斉に非難の声を上げた。
「なんて信心が足りないんだ!」
「イザベラ様の善意を無にする気か!」
「だから彼女は不幸なのだ!」
異様な同調圧力。
断れば悪だと決めつけられる空気。
リリアが押し黙ったその時、冷たい声が響いた。
「――実に興味深い感染症の現場だな」
アルヴィスだった。
彼はハンカチで鼻と口を覆い、まるで汚染区域に入り込む防疫官のような格好で現れた。
「アルヴィス様? 感染症って……」
「ミームだ」
彼はイザベラと信者たちを指差した。
「とある人物が提唱した概念だ。情報は遺伝子のように、人の脳から脳へと複製・伝染し、宿主(人間)の行動を操る。今ここで起きているのは、この水は効く、という根拠のない情報ウイルスが、思考停止した君たちの脳にパンデミックを起こしている状態だ」
「な、なんですって!?」
イザベラが柳眉を逆立てた。
「失礼な! これはウイルスなんかじゃありません! 現に効果があったという証言者がこんなにいるのですよ!」
彼女は数人の貴族を前に押し出した。
「ほら、男爵夫人は肌荒れが治ったし、子爵は持病が良くなったと仰っているわ! これが奇跡の証拠じゃなくて何なんですの!」
証言者たちが「その通りだ!」「奇跡だ!」と口々に叫ぶ。
しかし、アルヴィスは冷徹に言い放った。
「それは奇跡ではない。プラセボ効果と自然治癒だ」
「ぷらせぼ……?」
「効くと信じ込んで飲むことで、脳内麻薬が分泌され、一時的に痛みや不調が緩和される現象だ。あるいは、単に風邪が治るタイミングと水を飲んだ時期が重なっただけの偶然だ」
アルヴィスは証言者たちを一瞥した。
「君たちの治ったという主観的な感想は、医学的なエビデンスにはならない」
「往生際が悪いわね!」
イザベラが叫ぶ。
「でも、誰も『効果がなかった』なんて言っていないわ! 飲んだ人はみんな幸せになっているのよ!」
「ほう、そうか」
アルヴィスは眼鏡の奥で目を細めた。
「そこが最大の落とし穴だ。君たちは今、典型的な生存者バイアスに陥っている」
「せいぞんしゃ……?」
アルヴィスは会場を見渡した。
「イザベラ。君は『効果があった』と騒ぐ生存者の声だけを拾い上げている。だが、その背後には、水を飲んでも治らなかった人、むしろ悪化して寝たきりになった人、死んでしまった人という、声なき多数派(サイレント・マジョリティ)が存在するはずだ」
「そ、そんな人いないわよ!」
「いない? 死人に口なしだからな。彼らはここに来て文句を言うことすらできない状態かもしれない」
アルヴィスは懐から一枚の報告書を取り出した。
「現に、私の領地の病院には、ここ数日で謎の腹痛と高熱を訴える患者が急増している。彼らの共通点は、この聖女の涙を飲んだことだ」
会場が凍りついた。
「な、何ですって……?」
「この水を分析させてもらった」
アルヴィスはイザベラから小瓶をひったくり、光にかざした。
「成分はただの井戸水だ。だが、保存状態が悪く、大腸菌群が爆発的に繁殖している。これは聖水ではない。腐った水だ」
「ひっ……!」
信者の一人が青ざめて口を押さえた。
「君たちが『好転反応』だの『デトックス』だのと言って喜んでいた下痢や発熱は、単なる食中毒だ。……さあ、どうするイザベラ。これは傷害罪、あるいは殺人未遂に問われる可能性があるぞ」
イザベラの手から、小瓶が滑り落ちて割れた。
腐敗臭が漂い、信者たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。
「ち、違うの! 私はただ、みんなを元気に……!」
「無知は罪だ。そして、それを金に変えようとするのは悪だ」
アルヴィスは冷たく宣告した。
イザベラは真っ青になり、衛兵が駆けつけてくるのを見て、裏口から脱兎のごとく逃走した。
騒動が収まった後、リリアは割れた小瓶を見つめていた。
「……信じる気持ちを利用するなんて、悲しいですね」
「人間は弱い生き物だ。何かにすがりたいという心の隙間を、ウイルスは狙ってくる」
アルヴィスはリリアの肩を抱いた。
「だが、君には必要ない。君の健康は、私の完璧な栄養管理プログラムによって維持されているからな」
「ふふ、はい。アルヴィス様の考案したスープの方が、どんな聖水よりも効きます」
リリアが微笑むと、アルヴィスは照れくさそうにそっぽを向いた。
偽りの奇跡は暴かれ、確かな科学と愛情だけが後に残ったのだった。
聖女の涙と呼ばれる小瓶に入った水が、法外な値段で取引されているのだ。
発信源は、もちろんイザベラ・ローズだった。
彼女はサロンの檀上に立ち、青い小瓶を掲げて熱弁を振るっていた。
「皆さん、信じてください! これは私が精霊に祈りを捧げて清めた聖水です。これを飲めば肌は若返り、どんな病も治り、幸運が舞い込むのです!」
周囲には、すでに信者と化した貴族たちが群がっている。
「おお、イザベラ様! 私にもその水を!」
「前回の分を飲んだら、本当に腰痛が治ったんです!」
「私は商談がうまくいきました!」
熱狂的な賛辞の声。
イザベラは満足げに頷き、会場の隅にいたリリアを見つけた。
「あら、リリアさん。貴女、顔色が冴えませんわね。日々の行いが悪いから精霊に見放されているのではありませんか?」
イザベラは憐れむような目でリリアに歩み寄った。
「特別に貴女にも売ってあげますわ。金貨10枚。安いくらいですけれど、貴女のその淀んだ魂を浄化するにはこれしかありませんよ」
「えっと……、お水に金貨10枚は、さすがに……」
リリアが困惑して断ろうとすると、周囲の信者たちが一斉に非難の声を上げた。
「なんて信心が足りないんだ!」
「イザベラ様の善意を無にする気か!」
「だから彼女は不幸なのだ!」
異様な同調圧力。
断れば悪だと決めつけられる空気。
リリアが押し黙ったその時、冷たい声が響いた。
「――実に興味深い感染症の現場だな」
アルヴィスだった。
彼はハンカチで鼻と口を覆い、まるで汚染区域に入り込む防疫官のような格好で現れた。
「アルヴィス様? 感染症って……」
「ミームだ」
彼はイザベラと信者たちを指差した。
「とある人物が提唱した概念だ。情報は遺伝子のように、人の脳から脳へと複製・伝染し、宿主(人間)の行動を操る。今ここで起きているのは、この水は効く、という根拠のない情報ウイルスが、思考停止した君たちの脳にパンデミックを起こしている状態だ」
「な、なんですって!?」
イザベラが柳眉を逆立てた。
「失礼な! これはウイルスなんかじゃありません! 現に効果があったという証言者がこんなにいるのですよ!」
彼女は数人の貴族を前に押し出した。
「ほら、男爵夫人は肌荒れが治ったし、子爵は持病が良くなったと仰っているわ! これが奇跡の証拠じゃなくて何なんですの!」
証言者たちが「その通りだ!」「奇跡だ!」と口々に叫ぶ。
しかし、アルヴィスは冷徹に言い放った。
「それは奇跡ではない。プラセボ効果と自然治癒だ」
「ぷらせぼ……?」
「効くと信じ込んで飲むことで、脳内麻薬が分泌され、一時的に痛みや不調が緩和される現象だ。あるいは、単に風邪が治るタイミングと水を飲んだ時期が重なっただけの偶然だ」
アルヴィスは証言者たちを一瞥した。
「君たちの治ったという主観的な感想は、医学的なエビデンスにはならない」
「往生際が悪いわね!」
イザベラが叫ぶ。
「でも、誰も『効果がなかった』なんて言っていないわ! 飲んだ人はみんな幸せになっているのよ!」
「ほう、そうか」
アルヴィスは眼鏡の奥で目を細めた。
「そこが最大の落とし穴だ。君たちは今、典型的な生存者バイアスに陥っている」
「せいぞんしゃ……?」
アルヴィスは会場を見渡した。
「イザベラ。君は『効果があった』と騒ぐ生存者の声だけを拾い上げている。だが、その背後には、水を飲んでも治らなかった人、むしろ悪化して寝たきりになった人、死んでしまった人という、声なき多数派(サイレント・マジョリティ)が存在するはずだ」
「そ、そんな人いないわよ!」
「いない? 死人に口なしだからな。彼らはここに来て文句を言うことすらできない状態かもしれない」
アルヴィスは懐から一枚の報告書を取り出した。
「現に、私の領地の病院には、ここ数日で謎の腹痛と高熱を訴える患者が急増している。彼らの共通点は、この聖女の涙を飲んだことだ」
会場が凍りついた。
「な、何ですって……?」
「この水を分析させてもらった」
アルヴィスはイザベラから小瓶をひったくり、光にかざした。
「成分はただの井戸水だ。だが、保存状態が悪く、大腸菌群が爆発的に繁殖している。これは聖水ではない。腐った水だ」
「ひっ……!」
信者の一人が青ざめて口を押さえた。
「君たちが『好転反応』だの『デトックス』だのと言って喜んでいた下痢や発熱は、単なる食中毒だ。……さあ、どうするイザベラ。これは傷害罪、あるいは殺人未遂に問われる可能性があるぞ」
イザベラの手から、小瓶が滑り落ちて割れた。
腐敗臭が漂い、信者たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。
「ち、違うの! 私はただ、みんなを元気に……!」
「無知は罪だ。そして、それを金に変えようとするのは悪だ」
アルヴィスは冷たく宣告した。
イザベラは真っ青になり、衛兵が駆けつけてくるのを見て、裏口から脱兎のごとく逃走した。
騒動が収まった後、リリアは割れた小瓶を見つめていた。
「……信じる気持ちを利用するなんて、悲しいですね」
「人間は弱い生き物だ。何かにすがりたいという心の隙間を、ウイルスは狙ってくる」
アルヴィスはリリアの肩を抱いた。
「だが、君には必要ない。君の健康は、私の完璧な栄養管理プログラムによって維持されているからな」
「ふふ、はい。アルヴィス様の考案したスープの方が、どんな聖水よりも効きます」
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