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第1話:身を削る妻と、夫の甘くて優しい言葉
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深く、重い夜の静寂の中、かすかに絹糸の擦れる音だけが室内に響いていた。
ウィンザー伯爵邸の一角にある、本来なら優雅な客間として使われるはずの部屋。
今やそこは、膨大な図案の羊皮紙と、色とりどりの絹糸、そして完成間近のレースの山に占拠された、オリヴィア・ウィンザーの事実上の牢獄だった。
「あと、少し……」
オリヴィアはひび割れた唇から、掠れた息を吐き出した。
銀の燭台に立てられた蜜蝋の短い蝋燭が、心許なく揺れている。
彼女の目の下には、隠しきれないほど濃い、紫色の隈が張り付いていた。
落ち着いた亜麻色の髪はきっちりと結い上げられているものの、数本の乱れ髪が疲労を物語るように頬にへばりついている。
手元にあるのは、極細の絹糸を複雑に編み上げて作るボビンレースの最高級品だ。
少しでも力の入れ具合を間違えれば、繊細な模様が歪んでしまう。
瞬きすら惜しむように目を酷使し続けているため、眼球の奥が焼け付くように痛んだ。
肩から背中にかけては鉛を背負っているかのように重く、指先は長年針とボビンを握り続けたことで硬いタコができ、すっかり荒れ果てている。
(明日の正午までに、これを三十枚。……間に合わせなければ)
オリヴィアは、麻痺しかけている頭に鞭を打ち、機械のように手を動かし続けた。
ウィンザー伯爵家は、かつて多額の負債を抱え、破産寸前の状態にあった。
その窮地を救ったのは、他でもないオリヴィアの才能だった。
没落寸前の男爵家から、借金返済の肩代わりという名目で白い結婚として嫁いできた彼女は、幼い頃から身につけていた手刺繍とレース編みデザインの卓越した技術を持っていた。
彼女が独自に考案した図案と、丈夫で美しい編み方は、瞬く間に王都の貴婦人たちの間で評判となり、特産品としてブランド化された。
彼女の生み出すレースは飛ぶように売れ、伯爵家の財政は見事に黒字へと転換したのである。
最初は、ただ自分の身の置き所を確保するためだけの労働だった。
しかし、夫であるセドリック・ウィンザーが、寝る間も惜しんで働く彼女に優しく微笑みかけ、「君のおかげで領地が救われた。ありがとう、僕の誇りだ」と言ってくれた時、オリヴィアの胸に小さな灯りがともった。
この人の役に立ちたい。
この優しい夫を支えたい。
その純粋な思いこそが、彼女を縛る呪いの始まりだったとは、当時のオリヴィアは知る由もなかった。
「……オリヴィア。まだ起きているのかい?」
不意に、背後の重厚なオーク材の扉が開く音がした。
ビクッと肩を震わせたオリヴィアが振り返ると、そこには夫のセドリックが立っていた。
夜明け前だというのに、彼の身なりは完璧だった。
上質なナイトガウンを纏い、輝く金髪は乱れ一つなく整えられている。
爽やかなブルーの瞳には、誰をも惹きつける親しみやすい光が宿り、唇には慈愛に満ちた柔らかな微笑みが浮かんでいた。
「セドリック様……。はい、明日の納品分が、まだ少し残っておりまして」
「ああ、なんてことだ。こんな時間まで君を働かせてしまうなんて、僕は本当に不甲斐ない夫だ。君の身を削るような努力を見るたびに、胸が締め付けられる思いだよ」
セドリックは大げさに眉を下げ、痛ましそうに首を振った。
彼の言葉は、いつだって甘く、優しく、そして——徹底的に空虚だった。
「胸が締め付けられる」と口にしながらも、彼が一歩を踏み出してオリヴィアの冷え切った手を温めようとすることはない。
温かい紅茶の一杯を淹れて労うことすらしない。
ただ、入り口の近くに立ったまま、美しい言葉の羅列を上から降り注ぐだけである。
ウィンザー伯爵邸の一角にある、本来なら優雅な客間として使われるはずの部屋。
今やそこは、膨大な図案の羊皮紙と、色とりどりの絹糸、そして完成間近のレースの山に占拠された、オリヴィア・ウィンザーの事実上の牢獄だった。
「あと、少し……」
オリヴィアはひび割れた唇から、掠れた息を吐き出した。
銀の燭台に立てられた蜜蝋の短い蝋燭が、心許なく揺れている。
彼女の目の下には、隠しきれないほど濃い、紫色の隈が張り付いていた。
落ち着いた亜麻色の髪はきっちりと結い上げられているものの、数本の乱れ髪が疲労を物語るように頬にへばりついている。
手元にあるのは、極細の絹糸を複雑に編み上げて作るボビンレースの最高級品だ。
少しでも力の入れ具合を間違えれば、繊細な模様が歪んでしまう。
瞬きすら惜しむように目を酷使し続けているため、眼球の奥が焼け付くように痛んだ。
肩から背中にかけては鉛を背負っているかのように重く、指先は長年針とボビンを握り続けたことで硬いタコができ、すっかり荒れ果てている。
(明日の正午までに、これを三十枚。……間に合わせなければ)
オリヴィアは、麻痺しかけている頭に鞭を打ち、機械のように手を動かし続けた。
ウィンザー伯爵家は、かつて多額の負債を抱え、破産寸前の状態にあった。
その窮地を救ったのは、他でもないオリヴィアの才能だった。
没落寸前の男爵家から、借金返済の肩代わりという名目で白い結婚として嫁いできた彼女は、幼い頃から身につけていた手刺繍とレース編みデザインの卓越した技術を持っていた。
彼女が独自に考案した図案と、丈夫で美しい編み方は、瞬く間に王都の貴婦人たちの間で評判となり、特産品としてブランド化された。
彼女の生み出すレースは飛ぶように売れ、伯爵家の財政は見事に黒字へと転換したのである。
最初は、ただ自分の身の置き所を確保するためだけの労働だった。
しかし、夫であるセドリック・ウィンザーが、寝る間も惜しんで働く彼女に優しく微笑みかけ、「君のおかげで領地が救われた。ありがとう、僕の誇りだ」と言ってくれた時、オリヴィアの胸に小さな灯りがともった。
この人の役に立ちたい。
この優しい夫を支えたい。
その純粋な思いこそが、彼女を縛る呪いの始まりだったとは、当時のオリヴィアは知る由もなかった。
「……オリヴィア。まだ起きているのかい?」
不意に、背後の重厚なオーク材の扉が開く音がした。
ビクッと肩を震わせたオリヴィアが振り返ると、そこには夫のセドリックが立っていた。
夜明け前だというのに、彼の身なりは完璧だった。
上質なナイトガウンを纏い、輝く金髪は乱れ一つなく整えられている。
爽やかなブルーの瞳には、誰をも惹きつける親しみやすい光が宿り、唇には慈愛に満ちた柔らかな微笑みが浮かんでいた。
「セドリック様……。はい、明日の納品分が、まだ少し残っておりまして」
「ああ、なんてことだ。こんな時間まで君を働かせてしまうなんて、僕は本当に不甲斐ない夫だ。君の身を削るような努力を見るたびに、胸が締め付けられる思いだよ」
セドリックは大げさに眉を下げ、痛ましそうに首を振った。
彼の言葉は、いつだって甘く、優しく、そして——徹底的に空虚だった。
「胸が締め付けられる」と口にしながらも、彼が一歩を踏み出してオリヴィアの冷え切った手を温めようとすることはない。
温かい紅茶の一杯を淹れて労うことすらしない。
ただ、入り口の近くに立ったまま、美しい言葉の羅列を上から降り注ぐだけである。
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