「君は自分の利益しか考えてないのか?」と私の成果をタダで配る偽善者の浮気夫。〜やりがい搾取に疲れたので、すべての権利をいただいて去ります〜

水上

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第35話:露見した脱出計画

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 大祭典の前夜。
 王都の空には華やかな花火が打ち上がり、街中が祝祭の喧騒に包まれていた。

 ウィンザー伯爵邸も例外ではなく、セドリックとステラが王宮の前夜祭へ向かうための豪奢な馬車が、玄関先に横付けされていた。

「さあ、ステラ。今夜は我が家の名声を王都中に知らしめる夜だ」

「ええ、セドリック様。私、精一杯皆様に愛をお配りしてまいりますわ」

 二人の浮き足立った声が、窓越しにオリヴィアの自室まで微かに聞こえてきた。

 オリヴィアは暗い部屋の中で、その声が完全に遠ざかり、馬車の車輪の音が石畳の彼方へ消えていくのを、冷ややかな瞳で見送った。

(……行ったわね)

 オリヴィアは、静かに立ち上がった。
 彼女が身に纏っているのは、伯爵夫人としての豪奢なドレスではない。

 街に溶け込むような、質素で動きやすい濃紺の外套と、歩き慣れた革靴だった。
 手には、最低限の路銀と、ハワード会頭との契約書を忍ばせた小さな鞄だけが握られている。

「奥様、お支度はよろしいですか」

 背後で、同じように地味な外套を羽織ったマーサが、声を震わせながら尋ねた。

「ええ、マーサ。裏口の鍵は開いているわね?」

「はい。使用人たちは皆、前夜祭の特別手当をもらって酒盛りに夢中です。今なら、誰にも見られずにお屋敷を出られます」

 オリヴィアは、最後に一度だけ、自分が長年幽閉されていたアトリエという名の牢獄を見回した。

 机の上には、いかにも完成したレースが収められているかのように偽装された、巨大なベルベットの木箱がポツンと置かれている。

 明日の朝、セドリックが意気揚々とこの箱を開けた時、中に入っているのは、ただの不要な布切れと、彼への永遠の決別を告げる一通の短い手紙だけだ。

「さようなら、ウィンザー家。私の血と汗を吸い尽くした、空っぽの名声の館」

 オリヴィアは、一切の未練も感傷もない、氷のような声で呟くと、迷いなく扉を開けた。

 二人は音を立てないように廊下を進み、厨房の裏手にある使用人用の出入り口へと向かった。

 計画は完璧だった。
 ハワード会頭が手配した馬車が、屋敷から少し離れた辻で待機しているはずだ。

 そこに乗り込みさえすれば、オリヴィアは完全に自由の身となる。

 裏口の重い樫の木の扉に手をかけ、そっと押し開けた瞬間だった。

「……こんな夜更けに、どこへ行くんだい、オリヴィア?」

 暗がりから、ひどく穏やかで、しかし芯に氷を孕んだような男の声が響いた。

 オリヴィアの心臓が、音を立てて跳ねた。
 マーサが「ヒッ」と短い悲鳴を上げて後ずさる。

 扉の向こう、月明かりに照らされた裏庭に立っていたのは——王宮の前夜祭へ向かったはずの、セドリックだった。

 彼は完璧な夜会服に身を包んだまま、腕を組み、ただ静かにオリヴィアを見下ろしていた。

「セドリック……様……?」

 オリヴィアは、咄嗟に表情を引き締め、声の震えを抑え込んだ。

「なぜ、ここに……。前夜祭の晩餐会へ向かわれたのでは……」

「ああ、向かっていたさ」

 セドリックは、まるで世間話でもするかのように、爽やかな笑みを浮かべて一歩近づいてきた。

「だがね、馬車の中でステラが、ふと言ったんだ。『奥様は連日の徹夜で、お顔色も悪く、とてもお疲れのご様子でした。もしかしたら、過労で倒れていらっしゃるのではないかしら。心配で、前夜祭を楽しめませんわ』ってね」

 セドリックは、芝居がかった手つきで大げさに溜息をついた。

「彼女のその無私の愛に打たれてね。僕はステラを先に王宮へ向かわせ、馬を返して君の様子を見に帰ってきたというわけだ。……どうやら、僕の妻は倒れるどころか、夜逃げの準備で忙しかったようだが?」

 セドリックのブルーの瞳が、オリヴィアの質素な外套と、手にした鞄を冷ややかに射抜いた。
 その瞬間、オリヴィアは悟った。

 ステラは本気で心配したわけではない。

 彼女の持ち前の勘と、自分が華やかな舞台に立つ前に、裏方であるオリヴィアが何か企んでいるのではないかという猜疑心が、セドリックを引き返させたのだ。

「……誤解でございます、セドリック様」

 オリヴィアは、背筋を伸ばし、完璧な貞粛な妻の仮面を即座に被り直した。

「私はただ……明日の祭典でステラ様が着られるドレスに合わせる、特別な絹糸を商会へ取りに行こうと……」

「嘘をつくなッ!」

 セドリックの怒声が、静寂の裏庭を切り裂いた。
 彼は猛然と距離を詰め、オリヴィアの腕を乱暴に掴み上げた。

「あっ……!」

「絹糸を取りに行くのに、なぜ裏口からコソコソと出かける必要がある! その鞄の中身は何だ! 君は……、この僕を裏切り、祭典の前に逃げ出そうとしていたんだな!」

 彼の顔は怒りで赤黒く染まり、爽やかな名君のメッキは完全に剥がれ落ちていた。
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