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【第2章】彼女がいた世界、そして笑う

第10話

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 授業が終わり、放課後。

 俺は前橋さんを連れて駅とは反対方向に歩いていた。

「本当に行くの?」
「ええ、ちゃんとこの目で見ておきたいの。もしかしたらこの世に残っている理由が何かは分かるかもしれないし」

 前橋さんがなぜこの世に残っているのか、少しでもヒントを得るために前橋さんが亡くなった事故現場を目指している。

「それにしてもここら辺は何も変わっていないわね」
「そりゃあ、まだ亡くなって2カ月も経ってないんだから劇的に変わるわけないだろ」
「それもそうね。なんとなく浦島太郎の気分だったのだけど、現実の時間は全然進んでなんていなかった」
「進んでてほしかったのか?」
「どうかしら」

 前を向いていた前橋さんが目線を下げる。
 何か気になっていることでもあるのだろうか。

「でも、浦島太郎に比べれば、一緒に旅する下僕もいることだし、寂しくないわ」
「下僕って、もしかして俺のことか?」
「あなた以外に誰がいるというのかしら」

 この人は無感情にボケなのか本気なのか分からないことを言ってくる。

「俺は亀でも下僕でもなんでもない」
「そうね。あなたは、あなただわ」

 前橋さんは、今度は目線を少し上に向けた。
 生憎のどんよりした空模様のせいなのか、前橋さんの大きく凛とした目も、少し曇っているように見える。

「そう、俺は俺だ」

 とりあえず当たり障りのないこと口にした。

「でも太田君って、今はこうやって普通にしゃべってくれてるけど、学校じゃほとんど無口よね。どうしてなの?」
「男とはちゃんと喋るぞ。しゃべりかけてくれればだけどな」
「あなたって本当に受け身よね。とくに女の子を目の前にしたときの反応はエンターテインメントだわ」
「ねぇ、バカにしてるよな?」
「してないわよ。本当のことを言っただけ。ププ」
「絶対にしてるだろ。それに感情のないププもやめてくれ。これでもこの性格は直さないとと思っているんだから」
「私とちゃんと喋れてるんだから他の子とも話せると思うのだけど?」
「前橋さんは女の子だけど、今は幽霊だからね。もしかしたら性別とか気にしてないのかも」
「なんだかそれは、ちゃんと女の子として見られていないみたいで嫌な言い方ね」
「それはすまない」
「いいわ。だってそうだもの」

 曇り空に向かって大きく伸びをする前橋さん。
 後ろ髪もその動きに合わせてユラユラ揺れる。
 でも、女の子特有の甘い香りどころか、何の匂いも感じない。香ってくるのは、補整されたアスファルトの匂いと、もうすぐ雨が降りそうな予感を漂わせる土臭い香りだけ。
 もしかしたらこれも緊張しないで話せる理由なのかもしれない。
 そのまま前橋さんは言葉を続ける。

「あなたごときに女の子として意識されていないのは癪なのだけど、せっかくこうして一緒にいることだし、私で話す練習をすればいいわ。ちゃんと目を見てね」

 何回目かはもう数えていないけど、前橋さんが俺の顔を下から覗いてくる。
 一瞬だけ目が合うが、すぐさま視線を近くの電柱に逃がした。

「さすがにこれはまだ厳しいみたいね」
「うっせ」
「どれだけ時間が残されているのかは分からないけど、お互い頑張りましょ」
「勝手に話をまとめるな」

 でも、これはありがたい話でもある。
 いつまでもこのままではいけない。
 だって俺は運命の相手と素敵なスクールライフを送ることが目標なのだから。
 でも……幽霊と一緒に過ごさなきゃいけない時点で、ちょっと詰んでませんかね?

「まとめるわよ。だってもう目的地についちゃったし」
「え」

 学校から歩いて20分。
 あたりは住宅街が広がり、夕飯の支度をしているのか、どこかからおいしそうな匂いも漂っている。
 そして目の前には信号つきの交差点。
 そこまで道幅は広くないが、すぐ通りを抜ければ大通りに出ることもあって、そこそこ交通量も多い。

「ここで私は死んだのね」

 目の前にはただの補整された道路のみ。
 最初のうちは花とかお供え物とかあったのかもしれないが、今は何もない。
 ここに来たのは初めてだ。
 事故の日を思い出しているのだろうか。
 ぼーっと地面を見つめる前橋さんを横目に、自然と手を合わせ、目を閉じる。

「私が目の前にいるのに拝まれるのはちょっと複雑な気持ちね」
「もしかしたら、安らかに眠りたまえって念じたらそのまま天に召されるかと思ってな」
「結果はこのざまね」

 腕を広げて少しパタパタとさせる。
 念じた甲斐もなく、見事に何の変化もない。

「実際に事故現場を見てみてどうだ?」

 パタパタさせた腕を止め、今度は親指と人差し指を顎に当てて目を閉じる。
 感情は乏しいけど、身振り手振りは多いよな。感情を表に出さない分、自然と身動きに現れているのかな。意外な発見だ。

「とくに何も感じないわ」
「じゃあ前橋さんの家に行ってみる?」
「えっ?」

 普通の提案のつもりだったけど、前橋さんからすれば虚を突くものだったようだ。

「そんなに意外?」
「いえ、当然の提案だと思うわ。ただ、私は特に家に対しても家族に対しても何も思っていなかったら候補に入っていなかっただけ」
「母親とか父親に対しても何も思っていないのか?」
「父はいないわ。」
「ご、ごめん。何も知らずに勝手なこと言って。まさか亡くなってるなんて」
「死んではいないわ、多分ね。私が小さい頃に母親と離婚して家を出て行ってしまったから、家にはいないってだけ。私は母親と二人暮らしよ」
「そうだったのか」

 家庭の事情は、その家族ごとに色々ある。こういった問題はデリケートなのだから迂闊に発言すべきではなかった。

「でも、家に行っても誰もいないと思う」
「そうなのか?」
「ええ、母は弱い人なの。父と離婚してその寂しさを紛らわすために、仕事に没頭していたわ。だから私ともめったに顔を合わせなかった。そして私も死んでしまった。おそらくこの町にいることすら嫌になって、東京に行ってしまったのではないかしら。もともと東京で働いていたし」

 人の性格は環境によって左右される。その人がどんな環境で育ち、どういった人と触れ合ってきたかで、自分なりの考え方や行動パターンを自然と身に着けていく。
 前橋さんは感情が乏しい人だ。
 当然何かしらの要因があって今のような性格になっているんだと思っていた。
 もしかしたら、親の愛情をしっかりと感じることができず、寂しい思いをしてしまったために、心に壁を作り、人をあまり近づけないようになってしまったのではないだろうか。
 人の家の事情に踏み込むつもりはないし、本人が今を変えたければ変えればいい。変えたくなければこのままでいればいいのだ。
 だけど、家族ってもっと大切なものなんじゃないか?

 「何も思っていない」と前橋さんは言うけど、それは本心なのか?

 これがこの世に残っている直接的な原因かは分からないけど、今のままではなんとくなくダメな気がする。
 だから、自然と言葉が沸き起こってきた。

「一度行ってみないか? 前橋さんの家に」
「私の家に興味があるの? 太田君も男の子ね」
「ちげぇよ! 今がどうなっているのかをちゃんと確かめないと、前に進めない気がするだけだ」

 そう、これは本心だ。

「いいわ。ここからすぐ近くだから行ってみましょうか」

 雲がさっきよりも濃く、暗くなってきている。もうすぐ雨が降りそうだ。
 そんなことを思いながら前橋さんの自宅に向かうことにした。

 しかし、前橋さんの自宅を訪れたはいいものの、中身はもぬけの殻で、家主であるはずの前橋さんの母親の姿は確認できなかった。
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