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【第3章】恋愛フラグ、そして身悶える

第6話

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キーン、コーン、カーン、コーン

「それでは本日の授業はここまで。連絡事項は特にないので、このまま各自掃除なり部活なりに勤しんでくれたみゃえ! ……コホン、勤しんでくれたまえ! 解散!」

 もはや安中先生の名物と言ってもいい、秘儀「萌え噛み」が発動。
 周りの男どもは「普段は怖いけど、ときどき出る天然。これこそ至高の癒し」「マジで萌え萌えキュン」と勝手な感想を述べていた。

 ともあれ、朝はどうなるかと思ったけど、なんとか乗り切った。
 このまま夕飯の買い出しをして帰るか。

 あれ? 何か忘れているような……

「太田、君はまだ仕事が残ってるだろ?」

 安中先生が、教壇の上にずっしりと置いてある英語辞典や資料を指さす。
 あれ、資料室から持って来るのめちゃくちゃ大変だったんだよな。
 部活を辞めて筋肉が落ちた俺には少しこたえる……
 それゆえに、嫌な記憶として脳に保存され、綺麗さっぱり忘れようとしていた。

 任された仕事はきちんと果たさないとな。
 さすがの安中先生も、俺一人に持たせることはなく、手分けして資料室へと運ぶこととなった。

 資料室に到着し、持ってきた荷物を整理中。

「で、今朝はどうしたんだ? いつもは私の話を一言一句聞き逃さないように真剣に取り組んでいたのに、今日はなんだか集中しきれていないようだが?」

 なるほど、心配してくれていたのか。
 この資料の片づけは、あくまで話を聞くための口実。
 少し天然なところはあるけど、やっぱり頼れる大人の人だ。
 だからこそ、そこまで緊張せずとも言葉が出せる。

「なんか、自分のキャパオーバーなことが最近立て続けに起こって、頭の整理が追いつかないというか……」
「うむ。それで?」

 優しく相槌を打ちながら、最後まで話しきらせるために誘導してくれる。

「俺も変わらなきゃいけないってことは分かっているんです。戸惑ってばかりだけど、きっと今起きていることは、現状のダメな自分を打開するチャンスなんだって。だから正面から立ち向かわなきゃいけない。でも……なかなかうまくいかなくて……正直、焦ってます」

 先生は身体の向きを俺から窓の外へと向ける。
 窓には先生の姿とそれを見つめる自分。

「そうか。話してくれてありがとう。君はまだ高校生だ。悩みなんて腐るほど出てくるだろう。しかし、その一つ一つの悩みは本人にとってはものすごく重いものだ。深く聞くつもりはないが、きっとそうだろう。解決の糸口が見つからず、どんどんその重みが増えていき、より現状から脱出できなくなる。そうだろう?」
「……そうですね」

 まさにその通りだ。
 俺は女の子と意識してしまうと、ろくに話せない。目も合わせられない。
 応援してくれるパートナーがいるのに、一向に変われる気がしない。
 この一つ一つの悩みは、他の人にとっては、一生の間に一度たりとも悩みすらしないものだったりするだろう。
 前橋さんは、あれでも一生懸命に俺のこの性格を直すために力を貸してくれていると思う。
 その思いに報いたい。安心して成仏させてあげたい。

 でもどうやって?
 それが分からないから悩んでいるんだ。

 バサッ

 彼女のすらりとした身体にフィットしたベージュのジャケットが、かっこよく揺らめく。
 大人の魅力がこれでもかと伝わってくる。

 そして、安中先生はこう言った。

「お前はできる子だ。何事に対しても真面目に懸命に向き合い、抗い続ける。だが、たまに空回りして周りの人間を心配させてしまう。まさに私と君は似ているんだ」

 空回っていることは自覚してるのか。
 いやいや、今は変な茶々を入れている場合じゃない。
 先生は俺と真剣に向き合ってくれているんだ。
 先生はそのまま続ける。

「どうせお前のことだ。ちゃんと目標くらい立てているのだろう? だったら簡単だ。迷ったら振り出しに戻って全体を見渡せ。遠くから全体を見渡すことにより、自分がいかにちんけなところで悩んでいたのか思い知る。そして、改めて目標を再確認だ。なんでその目標を達成したいのかを常に思い起こして再チャレンジ。それでも達成できないということであれば、素直に諦めて別の道を模索すればいいさ」
「先生が簡単に諦めろなんて言っていいんですか?」

 ちょっと意地悪く聞いてみる。

「できもしないことに挑戦させて、時間を無駄にすることこそが一番愚鈍な選択だ。人それぞれにできること、できないことはある。だったら素直にできない道は諦めさせて、できる道を伸ばしてあげたい。それが私の教育方針だ」

 堂々と自分の考えを言ってのける。一切の淀みなく。
 本気でそう思っていて、それこそが先生の目標なのだろう。
 本当にかっこよくて強い人だ。素直に憧れる。

————できなかったら諦めればいい。

 なんかそれって、逃げ腰なような気がするけど、すごく前向きな言葉だ。
 俺の目標は端から見たらバカらしいことに思えるだろう。

 だけど、真剣に恋がしたい。素敵なパートナーと一緒になって前に進んでいきたい。
 そうすれば知らない世界でも勇気を持って踏み出せる。踏み出していく。

 それが俺の目標だ。

 だったら立ち向かっていくしかない!
 できなかったら、そのときはそのときだ。
 前橋さんに呆れられるかもしれないけど、懸命にやった結果だとしたら、彼女もなんだかんだ言いながら許してくれるだろう。

「ありがとうございます、安中先生! 俺、最後まで立ち向かっていこうと思います!」
「うむ! それでこそ男の子だ。さて、片付けも終わったことだし、そろそろ帰りなさい。手伝ってくれてありがとう」
「いえ、おかげさまで頭の中が整理できました!」
「私はこのまま職員室へ戻るとしよう」

 安中先生は、俺の横を通り過ぎ扉へ向かおうとした。

 そのとき————

「きゃっ」

 先ほどの大人の女性のイメージとは打って変って、女の子らしい可愛い叫び声があがる。
 何もないところでつまずいた先生は、そのまま俺に覆いかぶさる形で倒れ込んだ。

 ドシン!

 部屋にホコリが舞う。
 ちゃんと掃除してないだろ、これ。

「いたたっ、先生大丈夫ですか? って、ふぉ!?」

 先生の状態を確かめようとしたら、「あること」に気付いてしまった。
 なにか柔らかいクッションのようなものが、俺の胸を押しつぶしている。

 って、これ、先生の胸じゃないかぁぁぁぁぁーーーー!!!!

 程よく張りがあるからなのか、全部が押しつぶされているわけではなく、弾力をもって押し返そうという圧も感じる。
 スーツを着ているから、そこまで大きいとは思わなったけど、これはそれなりに大きいんじゃないか?

 いかん! いかん!

 紳士たるもの、まずは先生の安否確認だ。
 身体を起こし、改めて先生に声をかけると、

「大丈夫だ。問題ない。すまんな、急にこけてしまって」
「いえ、ごちそうさまです。やばっ!」

 思わず口を滑らせる。
 存在は忘れていたけど、前橋さんが俺のみぞおちに向かってチョップを繰り出している。

「何を言っているんだ、まったく。……いたっ」

 その場から立ち上がろうとした先生は、か細い声を出しながら左足首を抑え、再び座り込む。

「もしかして足首を捻ったんですか?」
「どうやらそうらしい……。それに、なんだか、急に疲れが……」
「うわっと!」

 今度はよろめきながら倒れ掛かる上半身を俺が支える形となった。

「先生どうしたんですか? あっ!」

 さっきまでは、そこまで近くで顔を見れていなかったため気付かなかったが、先生の目元にはクマがくっきりと浮かんでいた。

「先生、もしかしてあまり寝ていないんですか?」
「あはは……バレてしまったか。化粧でうまく隠せていたと思ったが、この距離になると気付かれてしまうな……。お前たちの授業の準備はとても楽しいから、ついあれも教えよう、これも教えようと色々な資料を読み漁ってしまってな」
「本当にそれだけですか? 先生はそこまで無理はしない性格だと思います。できることはやって、できないことには手を出さないって、さっきも言っていたでしょう?」
「さすがだな……。最近は授業の準備の他に、目上の先生たちから雑用を押し付けられることが多くてな。若いってつらいな……」

 確かに安中先生は若い。
 まだ26歳にも関わらず、県内でもトップレベルのこの学校で教鞭をとり、なおかつクラス担任までこなしている。
 相当優秀だと見込まれているからだろう。
 今は先生よりも若い人がいない、いや、まだまだこの若さでこの学校でやっていける人材がいないんだ。
 だからこそ、本来なら若手で手分けしてやるはずの雑用が安中先生一人に押し付けられる。
 先生は公務員だ。公務員は年功序列がはっきりしていると聞く。
 それゆえ、上の連中は何の疑問も抱かず安中先生に雑用を押し付けているんだ。
 こんなに生徒思いで、生徒のために時間を費やしてくれている先生に。
 正直、むかつく。

「先生は、むかつかないんですか?」
「むかつくさ。でも、これを乗り切ることができたら、私はもっと強くなれる」
「先生は女性なのですから、時には男に甘えてもいいんじゃないですか?」
「その言い方は今の世の中的にどうかと思うがな。あと、私に甘えられる男などいない」

 まったく、この先生は。
 大人だからこそ強がってしまうのだろう。
 だけど、子供だって大人に頼られて、自分は成長したんだって見せつけたいときもある。
 先生に背中を向け、よっこいしょと彼女の重みを受け止めた。

 軽いな。
 身長はそれほどだけど、それにしても軽い気がする。ちゃんとご飯食べているのかな。

「にゃ、にゃにをしゅる!?」
「猫みたいになっていますよ? このままおんぶして保健室に連れていきます」
「だ、だ、大丈夫りゃ! じ、自分でも歩けりゅ!」
「いいから、いいから。そのままじっとしててください。落ちちゃいますよ?」
「う……」

 やっと諦めてくれたのか、恥ずかしさを耐え忍ぶ声を漏らしながら、黙って俺の背中に身を預けてくれた。

「よし、これでOK!」

保健の先生が不在だったため、勝手に包帯と湿布を拝借し、怪我をした先生の足を固定する。

「なかなか手際がいいな」
「これでも中学までは陸上やってて、こういう経験も何度かありましたし」
「そうか。……今こうして部活をしていないのも目標のためか?」
「おっしゃる通りで」
「自分の進みたい道にどんどん挑戦するがいい。迷ったり立ち止まったりしたら、いつでも私が相手になってやる」
「俺って先生と戦うんですか?」

軽口を挟みながら借りた道具を片付ける。

「どうします先生? 少し寝ていきますか?」
「そうだな。軽く寝ていくとするか。起きたら仕事再開だ」

 そう言いながらベッドへ移動する。

「あー、肩貸しますよ!」
「けっこうだ、これ以上教え子に醜態は見せられない」
「頑固だな」
「うるさい」

 そうしてベッドに潜り込んだかと思うと、急に何も聞こえなくなる。

「あれ? 先生?」

 ベッドの近くに移動し、様子を見てみる。
 決して寝顔が見たいとかそんなやましい感情はない。

「スー、スー、スー」

 安らかな息を立てながら、すでに深い眠りについていた。

「寝つきよすぎだろ。どんだけ寝ていなかったんだ」

 先生の努力を労わりながら、布団を肩までかけ、そのまま保健室を後にする。

 そのつもりだった————

 あれ?

 何者かに制服を掴まれ、身動きが取れない。
 その原因を確認すると、安らかな寝息を立てている先生が、俺の裾を掴んでいた。ものすごい力で。
 起こさないように。だけど、そっと力を入れて、掴んだ指を一本ずつ離していく。

 しかし、最後の一本になったかと思うと、再び残りの指が復活し、掴みを再開。
 赤ちゃんの反射みたいだ。

 でも、いつまでもこのままじゃ帰れないぞ。
 どうしようかと考えていたそのとき—————

「うわっ!」

 ものすごい力で引っ張られたかと思うと、急に視界が真っ暗になった。

「むごぼごむご……!」

 おまけに言葉もうまく話せない。まるで何かに口を遮られているかのようだ。
 そして、顔には先ほど感じていた柔らかくも程よい弾力のある膨らみ。

「むぼぉぉぉぉぉーーーー!!!!!」

 どうやら俺は、先生の抱き枕のごとく、がっちりとホールドされているようだ。
 先生は足まで使って俺に絡みついている。
 寝つきはいいが、寝相が悪すぎる!!

 やばいぞ、この状況。

「ん……、あ……」

 俺が身動きを取ったり、無理に喋ろうとしたりしたせいなのか、先生は普段とは違う妙に色っぽい声を出し始めた。

 ドクンッ

 これは本当にまずい……
 先生は憧れの大人の人だ。こんな大人になりたいと心の底から思わせてくれた。
 女の人としてではなく、一人の人間として意識していた。
 その証拠として、軽口を叩けるほど自然に話すことができていた。
 目も普通の人よりは見ることができた。

 しかし、この状況で女の人として意識しないなんて、ありえないだろ。
 うわぁ、なんだこの匂い。ほのかにバニラ系の香水の香りがする……

 そうだ! こんな時こそ前橋さんだ!

「前橋さーん」

 先生を起こさないように、前橋さんの名前を呼ぶ。

「知らないわ。自分で何とかしなさい。この変態」

 あれ? なんか応援の態度じゃなくない?

「私は外の様子でも見てくるわ。どうぞ楽しんでください」
「ちょっと前橋さん!? 前橋さーーーん!!!」

 小さな叫びはむなしく行き場を失い、前橋さんは廊下に出ていってしまった。

 どうしよう! どうしよう! どうしよう!

 つい鼻息が激しくなってしまい、布団内の空気も蒸してくる。

「ん……熱い……」

 ガサゴソ

「ちょ、ちょっとそれはダメ―――!」

 先生はスーツ内の蒸し暑さを解放するために、胸元のボタンを開ける。
 必死に目を背ける俺。紳士。
 しかし今度は、俺の顔を掴んで押し上げ、先生の顔が目の前に現れた。
 綺麗な顔立ちがはっきりと分かる位置まで近づく。

 あれ? ちょっとこれ、まずくない?
 吐息が顔にかかる距離まで近づく。

 もう、これ……キス……しちゃうのか……?
 本人にその気はないだろうし、俺だってそうだ。
 先生は確かに美人で可愛い一面もある。
 しかし、それが好きかと言われれば別問題だ。

 でも、この状況は……抗えない……。
 先生の艶やかな唇がもうすぐ目の前に。
 思わず息を止め、目を閉じる。
 もうダメだ……
 
 すると————

「私は……信じてる……みんなを……」

 その言葉を聞いた瞬間、すでに先生の頭から離れていた枕を手に取り、先生と俺の顔の間に滑り込ませた。
 緊張の糸がプツンと切れたような音が聞こえたかと思うと、そのまま意識も途切れてしまった—————

 あれからのことはよく覚えていない。
 いや、正確には脳が処理しきれなくて、思い出すことを拒絶していただけなのかもしれない。
 安中先生の発狂とも悲鳴ともとらえることができる声で目を覚ました。
 先生の顔は、まるで取れたてのリンゴみたいに真っ赤で艶っぽかったことだけは覚えている。
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