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【第5章】時の悪戯、そして決意する

第8話

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 6月30日、水曜日(4回目)。

 俺は高崎さんが来るのを待たずに、階段を駆け上がっていた。

「急に走り出してどうしたの?」
「……」

 前橋さんの言葉に耳を傾けることなく走り続ける。
 気が付けば3階にある3年の教室に来ていた。

 中は誰もいない。それでいい。
 今はただ一人になりたいんだ。

「ねぇ、大丈夫……?」

 前橋さんはなんだかんだ優しい。
 でもその優しさが今は胸を抉る。

 何も知らないはずの前橋さんに向かって、弱さを全部ぶちまけたいと思ってしまう。
 だから言葉が止まらなくなる

「……何回……踏みにじればいいんだ……」
「えっ?」
「何回巻き戻しても、彼女は自分の思いをぶつけてくれた。好きって言ってくれたんだ!」

 前橋さんは何がなんだか分からないだろう。言葉を出す気配がない。

「嬉しかった。とてもとても嬉しかったんだ。女の子から告白されたことがなかった俺が、女の子とろくに話しができなかったこんな俺が、あんな素敵な女の子に告白されたんだ。嬉しくないはずないだろ!」

 窓を閉め切っているためか、目から汗が止まらない。

「でも、告白してくれた途端、それが巻き戻ってなかったことになる。彼女の抱いてくれた気持ちを、伝えてくれたその気持ちを、台無しにしてしまったんだ。でも、ほっとしている自分もいた。気持ちを伝えられたとしても、自分の中の答えは出せていなかったから。可愛いな、素敵だなって思ったとしても、それは特別な感情じゃない。今まで現実の女の子に恋なんてしたことがなかったから、その気持ちが好きかどうかなんて分からない。それでも、気持ちを伝えてもらったからには、どんな結果になろうとも、そのとき抱いた感情を伝えるべきなんだ。それすらできなかった……」

 情けないよな……
 何も分からない人からしたら、ただの妄想内で病んでいる変な奴だ。
 さぞかし前橋さんも哀れに思う表情を—————


 えっ?


 前橋さんの表情を確認すると、そこには哀れみや軽蔑の意は一切ない。
 今にも泣き出しそうなくらい……


 浮かない顔をしていた。


 この表情、前にも見た気が……

 ふと前回の巻き戻しでの前橋さんの横顔がフラッシュバックする。
 同時に、初めて高崎家に行ったとき、ちょっと怒ったように部屋を出ていく姿。
 ギュッと握られた拳。
 一番最初に《巻き戻し》が起こったときの唖然とした表情、だんだん浮かない顔になっていく女の子。普段は無表情のくせに、どこか感情が分かってしまう可愛くて綺麗な女の子。


—————そっか。そういうことだったのか。


 ここは3階。
 そして窓の外にはグラウンドが広がっている。

「前橋さん、俺、分かったよ」
「え?」

 前橋さんの反応を無視して窓を開け、そのままベランダに移動する。
 日付上は、今日は6月30日。
 もうすぐ本格的な夏が来る。
 日も傾き始めているが、正直2週間後と変わらないくらい蒸し暑い。
 でも、時折吹く風は優しく包み込んでくれる。

 ここにいる女の子もそうだ。
 彼女の場合は、蒸し暑いというよりは、ひんやり冷たいけど。

 グラウンドには人がほとんど残っていない。
 もうすぐ試験ということもあり、部活を終えた後はすぐに帰宅する生徒が多いのだろう。
 少し横に移動する。ここなら大丈夫だ。

 手すりに背中を預け、前橋さんの方を向く。前橋さんと目が合った。
 やっぱり前橋さんの目は、ぱっちりしていて吸い込まれそうなくらい綺麗だ。

「ねぇ、何が分かったの?」
「うん、前橋さんはなんだかんだ優しいってことだよ」

 俺は微笑んで、手すりに乗っかる。

 そして、


————そのまま飛び降りた。


 落下しながら前橋さんも一緒に落ちていく。
 そうだよな、前橋さんと俺は離れられないもんな。
 もう無表情ではなく、必死な形相でこちらに手を伸ばす前橋さん。
 何かを叫んでいるようだ。
 風の音で遮られているが、口の動きではっきりと分かる。


————ダメ


 その言葉と同時に世界が止まる……

 意識が遠のき、暗闇に包まれていく……

 ………………………………

 ………………

 ……

 …
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