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解けたわだかまり

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「ってかさ。どうしてそこまでしてこの学園に居たいわけ? 別に進学校なら他に一杯あるし、この学園に中途でねじ込めるくらいお金あるんだから何処だっていけるでしょ? こんな場所に寝泊りしてまで何をしたいわけ?」
 冷たい視線で僕に問いかける。
 やっぱりそう思われているんだろうなぁ――。

「具の無い味噌汁と、ししゃも三匹に漬物」
「は?」
「それが僕の家の朝食」
 求めていた答えとはまるでかけ離れた言葉に、彼女は目を丸くする。

「家は木造のトタン屋根。物心付いた頃から父親と二人暮しで、小学生から新聞配達、酒屋の配達のアルバイトをして家計を助け、義務教育が終わったら就職だなぁと子供ながらに思う家庭環境――それが真実だよ。僕はお金持ちなんかじゃない」
「は? 嘘でしょ? だって――じゃあ何で……?」
 その表情は、冗談を鼻で笑う類のものではない。
 僕の言葉が真実だと理解した上で、それでも信じられないと言った様子。  

「これは秘密なんだけど、たまたまこの学園の理事長と僕の父が知り合いだったから、悪く言えばコネ入学かな。折角掴んだチャンスを無駄にしたくない。ちゃんと卒業して、父に恩返しをしたい。僕がここに居る理由はそんなところかな」
 他言無用とされていた経緯をあっさりと話したのは、僕の口が軽いわけでは無いことを告げておこう。
 彼女になら――腹を割って話そう。と思ったからだ。
「まぁ。だから厩舎でもあんまり家と変わらないって言うか――」
 自分の言葉に気恥ずかしくなっておどけて見せようとした時、目に入った彼女の表情に驚いた。
「私……そんなの全然知らなくてっ……」 
 両手で口元を押さえ、瞳から大粒の涙を零す。
 自分の罪を悔やむように。
 その瞳から零れ落ちる天使の涙は、淀みなく、美しく。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
 謝罪の言葉を放つ彼女に、僕は情けなくも狼狽る事しか出来なかった。



「もう大丈夫……」
 しばらく経ち、落ち着いた彼女が呟いた。
「あ、うん……。良かった……」
 気まずすぎる。一体何を言っていいのか全く分からない。
 この時程、自分のボキャブラリーの無さを痛感した事はない。
 漂う沈黙をかき消そうと話題を探していると、彼女がゆっくりと口を開いた。

「――私、高校デビューなんだ」
 正確には高等部デビューかな。と付け加え、続けた。
「一貫校ってさ、小中で大体決まっちゃうんだよね。スクールカーストって言うのかな、序列――クラスでの立ち位置みたいな。ずっと真ん中だったんだよね、ダメなわけじゃないけど、別に目立ちもしない、みたいな」

 それは何処の学校でも、いや、社会に出ても存在する悩みかもしれない。
 そして十二年もの間、周囲が殆ど変わらぬまま過ごすこの学園では、その立ち位置がどれだけ重要な事かなんて、考えなくても分かる。
「それがずっと嫌で、中三の秋頃かな、変えなきゃって思った。自分自身――そして『自分の立ち位置』をね」
 変わるためにした苦労は並大抵のモノじゃなかったのだろう。
 そう思わせるだけの力強さが彼女の言葉にはあった。

「進級して、ゾディアックに選ばれて嬉しかった。やっと認めてもらえた――そう思うと、自分が生まれ変わったような気もした」
「愛染君がウチのクラスに入るって聞いた時は、もうどうにかして早く追い出さないとって思った。怖かった。全てを壊されそうな気がして」
 必死で手に入れた新しい自分。新しい立ち位置。

「でも……私……許されない事を……。両親はこんな事をさせるために……私をこの学園に入れてくれたわけじゃないのに……」
 守るモノが出来た時、人は強くなると言う。
 それが大切であればあるだけ、固執し、執着する。
 大切なモノを守るため、大切なモノを失ったとしても。
 失っていくとしても。
 気づく事は――簡単じゃない。

 目の前で涙を流す彼女は、僕に卵をぶつけた彼女とはとても同一人物だとは思えない。
 学園に巣食う悪魔にとり憑かれた天使。
 人の痛みに、自分の過ちに涙を流す事の出来る、心の優しい天使がここにいた。

 それから僕達は、日が暮れるまで語り合った。
 互いの知らない世界を重ねあって、笑ったり、驚いたり。
 最初から溝などなかったかのように、僕達の距離は縮まっていた。
「あ、もうこんな時間か。そろそろ戻った方いいんじゃない?」
「ホントだ。楽しくてすっかり時間忘れちゃってたよ」
 はにかんだ彼女に、少しドキッとした。

「ねぇ、明日から一緒に授業受けよう」
 ドアの前で、不意に彼女が言った。
「え? うん。一緒にって?」
「それは明日になってのお楽しみかなっ じゃあまた明日ね」
――また明日。
 その言葉に頬が緩むのを必死に抑える。
「ん。また明日――」
「きゃっ!?」
 ドアを開けた先、人影に驚いて彼女が声を上げた。そこに立っていたのは、下級生の馬子だ。
「あっ……あっ……」
「灰名!」
 その場に崩れ落ちた灰名を馬子が支えた。

「……あなたは彼女に一体どんな狼藉を働いたのですか?」
「なっ、何もしてないわ! 大丈夫か?」
 冷たい視線を僕に向ける少女。いつもの冗談だと思いたいが。 
「とりあえず保健室に行きましょうか。馬の餌、ここに置いておきますからあげといて下さい」
「あ、ああ。灰名を頼む」
 貧血――かな? 
 ってか馬子を見るのは久しぶりだ。
 毎日餌やりには来てるみたいだけど、すれ違ってばっかりだったから。
 最後に会ったのは――二度目の決闘前夜だ。

「黒影、林檎もらってもいい?」
『何でもいいから早く餌をよこせ』とばかりにブルンと鼻を鳴らす。
――また明日ね。
 生卵を眺めながら、彼女の言葉を思い出してにやける。
 それが彼女の、最後の言葉になる事を、この時はまだ知らなかった。
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