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第4話
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紫乃とは、四度話した。彼女は回を重ねるごとに、目元が和らいでいった。
親が土足で自分の世界に踏み込んでくることへの反発。それこそが思春期の反抗なのだろうが、親には理解できない。彼らは、自分たちもまたそういう時を過ごした若者であったことを忘れてしまったわけでもあるまい。ただ、「親として完璧であれ」と自分自身にプレッシャーをかけているのだ。
「親も、『親の経験』は初めてなんですよね。自分が四十代になった頃でしょうか、そう思えるようになったのは」
紫乃は、落ち着いて言葉を紡ぐようになった。普段は冷静に、目の前に展開される物語をひと言ひと言書き留めるように、人生を受け止めているのだ。行きたい方向を一点に絞り、邁進する。誰にも邪魔はさせないという気迫。彼女には、才能、頭脳、環境、運、すべてそろっている。同じ業界であれば誰もがうらやむ展開をし、その分嫉妬も買っているが、どこ吹く風だ。「嫉妬されるようになってからがスタートです」と、そこはカラッと言ってのける。
日頃は、きちんと理解しているのだ。両親とも毒親かもしれないが、卓越した能力でそれぞれの分野で成功した人間であり、理念も志もあった。元気な時の紫乃は、「私は、私が求める環境を選んで生まれてきたんです」とさえ言い放つ。すべてのことが、今の自分につながっていると。何もかも自分のためにお膳立てされたように、世界が進んできたと。怖いぐらいに。ひとつボタンをかけ違えても、この結果にはたどり着けなかっただろう、と……。
「私、娘として完璧にはなれそうもありません」
肩の力が抜けた声だった。
「そうですか」
「ええ。考えてみたら、私が無意識に目指していたのはそれなのかなって。完璧な子供なら……父に捨てられることもなかったのに、って」
無理もない。彼女は十五の時、母親に言われているのだ。「あんたがそんなだからお父さん、出て行っちゃったのよ!」と。「賢くなくていい、もっと普通の子が欲しかった!」と――。捨てる、という直接的な行為で父親に裏切られ、母は父ではなく娘を詰った。じゃあどんな子ならいいの、と悩み、傷ついて、十五の彼女はずっと膝を抱えて苦しんでいたのだろう。三十年以上の時を経て、その少女が諦めた。彼女は、ほんのわずかな部分かもしれないが、解放されたのだ。
「私も、完璧な夫にも、完璧な親にもなれませんでした。まして、完璧な人間など程遠い。それでも人という生き物は……どれかひとつだけでも完璧であれと、自分に課すものなのかもしれません」
「無限地獄ですか……」
「だから、救いを求める物語も、それを体系化しようとする動きも生まれる……私見ですがね」
踏み込み過ぎたかもしれない。いわゆる宗教を想起させる方へと話を持っていってしまったが、このような話運びを嫌う者もいるだろう。
だが、紫乃は優しい微笑みを湛えていた。
「ねえ、白崎さん」
「はい」
「私たちはみんな、自分に夢を見ているっていうことですよね」
紫乃の瞳が輝き始めた。
「ああ……なるほど」
彼女は、答えを見つけたようだ。
「それって、究極のロマンだと思います」
「ロマンか。いいですねえ」
「はい。夢とロマンは私の栄養ですから」
「『ここ』にも、あった?」
今の、辛く苦しい日々の中にも。
「はい。毎日、テストの連続ですけど。百点取れなくても、いいですよね」
「挑戦し続けていれば、得られるものは百点よりずっと多い。六十点が十回なら六百点だ。百回なら六千点ですよ」
「六十点かあ。うーん、確かに。体感ではそんなものかも」
「ひとつひとつはね……そう感じられる時もあるかと」
「でも、ひとつひとつ。とにかく、目の前に出されたテストは解く! 解けなかったら、ほかの問題を先にやる!」
「そうですよ。そのうちに、どれかの扉が開くか……少なくとも、鍵は見つかります」
自分の扉は……いまだ、固く閉ざされているが。
「白崎さんも、鍵、見つけてくださいね」
彼女はもう、ここへは来ないだろうと直感した。
「はい。なかなか見つからなければ、またここに入り浸っていますよ」
「開いた扉の向こうは、つながっているんでしょうか。私の扉の向こうと、白崎さんの扉の向こう」
「どうでしょうか。世界は広いですからねえ」
「ええ。どこまでも、広がってる」
皆に一礼して去っていく彼女は、家主が丹精込めた大輪の薔薇のように、堂々としていた。
紫乃の母親も、杖をついて一歩ずつ、未来を探している。求めている。大きな音でテレビを観るのも、自分の感覚を呼び覚ましたいがため。ドラマを、映画を観て、本を読むのも、人が生きるには伴走者となる物語が欠かせないからだ。
(俺も、小説を書いてみるか)
「何を馬鹿な」
思い浮かんだことを即座に打ち消したが、もう遅い。一度興味が沸いたことは、取り掛かるまで心を離れない。そうやって、心の奥で埃をかぶっている夢の抜け殻の、何と多いことか。
「小説、ねえ……」
小説。書き手は、独自の世界を作り出して「さあ、どうぞ」と提示する。読み手は、それを受け取って自由に想像の翼を広げる。書き手と読み手のゴールが同じとは限らない。
「それもまた会話、か」
世界は無限であり、一人一人もまた、無限なのだ。
親が土足で自分の世界に踏み込んでくることへの反発。それこそが思春期の反抗なのだろうが、親には理解できない。彼らは、自分たちもまたそういう時を過ごした若者であったことを忘れてしまったわけでもあるまい。ただ、「親として完璧であれ」と自分自身にプレッシャーをかけているのだ。
「親も、『親の経験』は初めてなんですよね。自分が四十代になった頃でしょうか、そう思えるようになったのは」
紫乃は、落ち着いて言葉を紡ぐようになった。普段は冷静に、目の前に展開される物語をひと言ひと言書き留めるように、人生を受け止めているのだ。行きたい方向を一点に絞り、邁進する。誰にも邪魔はさせないという気迫。彼女には、才能、頭脳、環境、運、すべてそろっている。同じ業界であれば誰もがうらやむ展開をし、その分嫉妬も買っているが、どこ吹く風だ。「嫉妬されるようになってからがスタートです」と、そこはカラッと言ってのける。
日頃は、きちんと理解しているのだ。両親とも毒親かもしれないが、卓越した能力でそれぞれの分野で成功した人間であり、理念も志もあった。元気な時の紫乃は、「私は、私が求める環境を選んで生まれてきたんです」とさえ言い放つ。すべてのことが、今の自分につながっていると。何もかも自分のためにお膳立てされたように、世界が進んできたと。怖いぐらいに。ひとつボタンをかけ違えても、この結果にはたどり着けなかっただろう、と……。
「私、娘として完璧にはなれそうもありません」
肩の力が抜けた声だった。
「そうですか」
「ええ。考えてみたら、私が無意識に目指していたのはそれなのかなって。完璧な子供なら……父に捨てられることもなかったのに、って」
無理もない。彼女は十五の時、母親に言われているのだ。「あんたがそんなだからお父さん、出て行っちゃったのよ!」と。「賢くなくていい、もっと普通の子が欲しかった!」と――。捨てる、という直接的な行為で父親に裏切られ、母は父ではなく娘を詰った。じゃあどんな子ならいいの、と悩み、傷ついて、十五の彼女はずっと膝を抱えて苦しんでいたのだろう。三十年以上の時を経て、その少女が諦めた。彼女は、ほんのわずかな部分かもしれないが、解放されたのだ。
「私も、完璧な夫にも、完璧な親にもなれませんでした。まして、完璧な人間など程遠い。それでも人という生き物は……どれかひとつだけでも完璧であれと、自分に課すものなのかもしれません」
「無限地獄ですか……」
「だから、救いを求める物語も、それを体系化しようとする動きも生まれる……私見ですがね」
踏み込み過ぎたかもしれない。いわゆる宗教を想起させる方へと話を持っていってしまったが、このような話運びを嫌う者もいるだろう。
だが、紫乃は優しい微笑みを湛えていた。
「ねえ、白崎さん」
「はい」
「私たちはみんな、自分に夢を見ているっていうことですよね」
紫乃の瞳が輝き始めた。
「ああ……なるほど」
彼女は、答えを見つけたようだ。
「それって、究極のロマンだと思います」
「ロマンか。いいですねえ」
「はい。夢とロマンは私の栄養ですから」
「『ここ』にも、あった?」
今の、辛く苦しい日々の中にも。
「はい。毎日、テストの連続ですけど。百点取れなくても、いいですよね」
「挑戦し続けていれば、得られるものは百点よりずっと多い。六十点が十回なら六百点だ。百回なら六千点ですよ」
「六十点かあ。うーん、確かに。体感ではそんなものかも」
「ひとつひとつはね……そう感じられる時もあるかと」
「でも、ひとつひとつ。とにかく、目の前に出されたテストは解く! 解けなかったら、ほかの問題を先にやる!」
「そうですよ。そのうちに、どれかの扉が開くか……少なくとも、鍵は見つかります」
自分の扉は……いまだ、固く閉ざされているが。
「白崎さんも、鍵、見つけてくださいね」
彼女はもう、ここへは来ないだろうと直感した。
「はい。なかなか見つからなければ、またここに入り浸っていますよ」
「開いた扉の向こうは、つながっているんでしょうか。私の扉の向こうと、白崎さんの扉の向こう」
「どうでしょうか。世界は広いですからねえ」
「ええ。どこまでも、広がってる」
皆に一礼して去っていく彼女は、家主が丹精込めた大輪の薔薇のように、堂々としていた。
紫乃の母親も、杖をついて一歩ずつ、未来を探している。求めている。大きな音でテレビを観るのも、自分の感覚を呼び覚ましたいがため。ドラマを、映画を観て、本を読むのも、人が生きるには伴走者となる物語が欠かせないからだ。
(俺も、小説を書いてみるか)
「何を馬鹿な」
思い浮かんだことを即座に打ち消したが、もう遅い。一度興味が沸いたことは、取り掛かるまで心を離れない。そうやって、心の奥で埃をかぶっている夢の抜け殻の、何と多いことか。
「小説、ねえ……」
小説。書き手は、独自の世界を作り出して「さあ、どうぞ」と提示する。読み手は、それを受け取って自由に想像の翼を広げる。書き手と読み手のゴールが同じとは限らない。
「それもまた会話、か」
世界は無限であり、一人一人もまた、無限なのだ。
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