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第1章 幽霊探偵
第9話
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「ん……?」
あのホテルではないことは、すぐにわかった。天井が違う。潮の香り。
「あれ……」
場所の変化よりも重要なのは、手が自由に動くことだ。血が通っている。足も、ほかの部分も。体を起こして見回すと、初めて来る場所ではなかった。
「ここ、かよ……」
よりにもよって。
苦笑しかけて、ため息をついた。
部屋の様子は五年前と変わっていない。布団カバーの柄も、カーテンも、小物も。
「変わってないどころか……」
すべて同じだ。時が止まっている。
「ハハ、まさかな」
頭に浮かんだ考えを笑い飛ばし、床に足をつけた。少しふらつくが、歩ける。閉まったカーテンの隙間から覗くと、海が煌めいている。相模湾だ。気絶したホテルからは、車なら一時間半ほどの距離。
カーテンをつかむ手が震えた。感情が込み上げる。頬を伝う涙を舐め取る舌に体温はないが、雪女のものではない。恋焦がれた妻が葉桜の左側に姿を現し、ぴったりと寄り添っている。浮かべているのは、互いの胸に疑念が浮かぶ余地などなかった頃の表情。あの頃は、一心に慕い、甘えてきた。
(俺も甘えさせてもらった……支えられていた)
日頃何もしてやれない代わり、せめてもの感謝の印にと、旅行を計画した。行き先は、近場のK県。宿泊先に選んだのが、このペンションだった。
「あのまま置いてこようと思ったの。でも東雲さんが来て……咄嗟に、ここへ飛んじゃった」
「じゃあ……ここへ来るのも時間の問題だな」
警部に、浮かれて話したことがあった。
――今度の休み、琴絵と海に行くんですよ。近場ですけど。
――なら、何としてでもこのヤマを解決しないとな。
――はい!
雪女に襲われたホテルまで追ってきたなら、あの話を思い出してここを探し当て、捕まえてくれるだろう。宿泊施設を片っ端から当たるくらいのこと、刑事には朝飯前だ。
ただ、この建物には人の気配がない。
「閉鎖されてるの。だから、見つかりにくいと思って……」
琴絵は、葉桜が捕まらないことを望んでいる。葉桜の思惑とは逆だ。
そそのかしておきながら、自分以外の者と枕を交わすことに嫉妬し、次々に相手の息の根を止め、夫を連続殺人の容疑者に仕立て上げた。恨み言を言わずにはいられなくなり、雪女に乗り移って、愛する夫を攻撃した。あげくの果てに最悪の場所へ連れ込み、かくまったつもりになっている。
矛盾している。自分も琴絵も、行動がめちゃくちゃだ。
窓から離れ、ベッドに腰かけて妻を抱きしめた。
「お前がいなくなってからの俺は……生ける屍だ」
「変ね。私はずっと一緒にいたじゃないの」
「ああ、そうだな……。なあ、もう疲れた……」
「康平……」
琴絵の纏う服が、懐かしい結婚式の日のものへと変化していく。純白のドレスだ。
「綺麗だ……この世の何よりも」
「私をもう一度、あなたのお嫁さんにしてくれる?」
「もちろんだ。……おいで」
閉鎖されたペンション。誰にも遠慮はいらない。見えるものすべて、琴絵の術による幻想かもしれないが、構わない。唯一の存在との交わり。彼女がいなくては、生きていけない。
幸福だった。幽体の花嫁は愛撫に応えて光り輝き、達する瞬間は激しく明滅した。葉桜の唇を、指を、欲の象徴を、恥じらいながら受け止め、貪った。
「康平、綺麗……」
「俺が?」
「うん……光ってる」
「ああ、ほんとだ……」
自分の体も中から光を放っている。二人の光がひとつになり、魂が歓喜する。至上の悦び。
――愛してる、愛してる、愛してる! 康平……。寂しいの……寂しい……。
今と過去の感情が交錯して伝わってくる。彼女を遠く感じたこともあったが、今となっては何もかも愛しい。
あのホテルではないことは、すぐにわかった。天井が違う。潮の香り。
「あれ……」
場所の変化よりも重要なのは、手が自由に動くことだ。血が通っている。足も、ほかの部分も。体を起こして見回すと、初めて来る場所ではなかった。
「ここ、かよ……」
よりにもよって。
苦笑しかけて、ため息をついた。
部屋の様子は五年前と変わっていない。布団カバーの柄も、カーテンも、小物も。
「変わってないどころか……」
すべて同じだ。時が止まっている。
「ハハ、まさかな」
頭に浮かんだ考えを笑い飛ばし、床に足をつけた。少しふらつくが、歩ける。閉まったカーテンの隙間から覗くと、海が煌めいている。相模湾だ。気絶したホテルからは、車なら一時間半ほどの距離。
カーテンをつかむ手が震えた。感情が込み上げる。頬を伝う涙を舐め取る舌に体温はないが、雪女のものではない。恋焦がれた妻が葉桜の左側に姿を現し、ぴったりと寄り添っている。浮かべているのは、互いの胸に疑念が浮かぶ余地などなかった頃の表情。あの頃は、一心に慕い、甘えてきた。
(俺も甘えさせてもらった……支えられていた)
日頃何もしてやれない代わり、せめてもの感謝の印にと、旅行を計画した。行き先は、近場のK県。宿泊先に選んだのが、このペンションだった。
「あのまま置いてこようと思ったの。でも東雲さんが来て……咄嗟に、ここへ飛んじゃった」
「じゃあ……ここへ来るのも時間の問題だな」
警部に、浮かれて話したことがあった。
――今度の休み、琴絵と海に行くんですよ。近場ですけど。
――なら、何としてでもこのヤマを解決しないとな。
――はい!
雪女に襲われたホテルまで追ってきたなら、あの話を思い出してここを探し当て、捕まえてくれるだろう。宿泊施設を片っ端から当たるくらいのこと、刑事には朝飯前だ。
ただ、この建物には人の気配がない。
「閉鎖されてるの。だから、見つかりにくいと思って……」
琴絵は、葉桜が捕まらないことを望んでいる。葉桜の思惑とは逆だ。
そそのかしておきながら、自分以外の者と枕を交わすことに嫉妬し、次々に相手の息の根を止め、夫を連続殺人の容疑者に仕立て上げた。恨み言を言わずにはいられなくなり、雪女に乗り移って、愛する夫を攻撃した。あげくの果てに最悪の場所へ連れ込み、かくまったつもりになっている。
矛盾している。自分も琴絵も、行動がめちゃくちゃだ。
窓から離れ、ベッドに腰かけて妻を抱きしめた。
「お前がいなくなってからの俺は……生ける屍だ」
「変ね。私はずっと一緒にいたじゃないの」
「ああ、そうだな……。なあ、もう疲れた……」
「康平……」
琴絵の纏う服が、懐かしい結婚式の日のものへと変化していく。純白のドレスだ。
「綺麗だ……この世の何よりも」
「私をもう一度、あなたのお嫁さんにしてくれる?」
「もちろんだ。……おいで」
閉鎖されたペンション。誰にも遠慮はいらない。見えるものすべて、琴絵の術による幻想かもしれないが、構わない。唯一の存在との交わり。彼女がいなくては、生きていけない。
幸福だった。幽体の花嫁は愛撫に応えて光り輝き、達する瞬間は激しく明滅した。葉桜の唇を、指を、欲の象徴を、恥じらいながら受け止め、貪った。
「康平、綺麗……」
「俺が?」
「うん……光ってる」
「ああ、ほんとだ……」
自分の体も中から光を放っている。二人の光がひとつになり、魂が歓喜する。至上の悦び。
――愛してる、愛してる、愛してる! 康平……。寂しいの……寂しい……。
今と過去の感情が交錯して伝わってくる。彼女を遠く感じたこともあったが、今となっては何もかも愛しい。
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