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第3章 桜が散る時
第3話
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会いたくてたまらなかった妻が、目の前にいる。ほかの男――よりにもよって戸部伸司――との情事の名残を、隠すどころか見せつけて。
「誰もいないようですな」
「だから言ったでしょう……」
警部と戸部は寝室を出て話し続けたが、そんなのは後回しだ。
自分を凝視する夫を、琴絵は幼子を諭すように目で宥めた。何の前触れもなく、体を隠す衣服が現れる。葉桜が初めてプレゼントしたワンピースだ。髪も綺麗にまとめ、何事もなかったかのようにベッドを離れた。ふわりと漂ってきたのを、ふわりと受け止める。一般的には、男として怒り心頭に発しても許される場面だ。しかし自分の所業と、琴絵が「寝る」ことの意味を思えば、戦慄するほかなかった。
この世もあの世も含めた中で、最も愛しい存在が、耳元で毒を囁く。
「あと少しなの。見逃してくれない? 刑事さん」
「お前……まさか」
ふふっと蠱惑的な笑みが返ってくる。
廊下で話している戸部は、声に力がない。普通の人間の目には、少々疲れが表れている程度にしか見えないだろう。しかし、葉桜から見れば死亡寸前だ。恵麻が少しずつ、内側から殺されるところだったのとは、わけが違う。
(あの子は、大崎が最後の力を振り絞って浄化した……もとの健康体に戻っているはずだ。だが、戸部はもう……)
恵麻に憑いていた怨霊は実にたちが悪かったが、戸部はある意味、それ以上に容赦のない存在に憑かれている。彼女は、なりふり構わずエネルギーを吸い取っているらしい。外見の衰えがその証拠だ。方法は――おそらくは毎晩、至上の快楽のうちに。男の方は、「懐かしい女の夢を最近よく見る」ぐらいにしか感じていないのだろう。兆候に気付く機会さえ与えられずに、間もなく死ぬ。
無理もない。夫としての心情では、そんな言葉も出る。だが元刑事としては、目をつぶることなどできない。人が一人、命を奪われようとしているのだ。
「怖い顔。あなただって、一咲さんや、そのあと抱いた女たちを放って逃げたじゃない。あと一人、見ない振りをしてくれればいいの。それで、すべてが終わる」
「なぜだ……なぜ、お前はそこまで」
「外へ行きましょう。ここの空気は最悪」
警部の動きが気になるが、ここは妻を追うしかなかった。天井を抜け、屋上へ出る。通勤時間となり、眼下には駅へ向かう人々の群れが見える。
公園では捜査が続いている。ちょうど、大崎の遺体が運ばれていくところだった。時計塔の下のベンチは空になっていたから、恵麻は病院に搬送されたのだろう。
(彼女はもう大丈夫だぞ、大崎)
容疑がかかることは避けられなくとも、少なくとも体は――。
「随分、頑張ってたわね。おかげで私も忙しかった」
少し後ろから発せられた声に、心がとろけていく。振り返ると、琴絵は空中に安楽椅子でもあるかのような格好で寛いでいた。公園の方を悲しそうに見やったのは、大崎に対して思うところがあるのだろうか。
「冥界への案内人は続けていたんだな」
「ええ。予想よりずっと早くノルマ達成。……だからね、もう終わらせたいの」
「琴絵……一体、何がどうなってるんだ? この五年間、俺たちはどういう……」
「これが片付いたら、話すわ」
戸部を殺したら、話すという意味だ。
「……どう言えば、やめる?」
幽霊としての力は、どう考えても琴絵の方が上だ。説得して思いとどまらせるしかない。
「今更やめたって、手遅れ。私と同じ」
「琴絵っ……」
「警部さんが帰るわよ。ついていかなくていいの?」
今は聞き入れそうにないが、離れたら、今日のうちにも戸部はとどめを刺されるかもしれない。
(じわじわと嬲り殺すつもりなら、数日……一週間はあるか? 何てことだ……)
「もう一度聞く。なぜ、そこまでする」
答えは明快だった。
「あなたが好きだから」
「誰もいないようですな」
「だから言ったでしょう……」
警部と戸部は寝室を出て話し続けたが、そんなのは後回しだ。
自分を凝視する夫を、琴絵は幼子を諭すように目で宥めた。何の前触れもなく、体を隠す衣服が現れる。葉桜が初めてプレゼントしたワンピースだ。髪も綺麗にまとめ、何事もなかったかのようにベッドを離れた。ふわりと漂ってきたのを、ふわりと受け止める。一般的には、男として怒り心頭に発しても許される場面だ。しかし自分の所業と、琴絵が「寝る」ことの意味を思えば、戦慄するほかなかった。
この世もあの世も含めた中で、最も愛しい存在が、耳元で毒を囁く。
「あと少しなの。見逃してくれない? 刑事さん」
「お前……まさか」
ふふっと蠱惑的な笑みが返ってくる。
廊下で話している戸部は、声に力がない。普通の人間の目には、少々疲れが表れている程度にしか見えないだろう。しかし、葉桜から見れば死亡寸前だ。恵麻が少しずつ、内側から殺されるところだったのとは、わけが違う。
(あの子は、大崎が最後の力を振り絞って浄化した……もとの健康体に戻っているはずだ。だが、戸部はもう……)
恵麻に憑いていた怨霊は実にたちが悪かったが、戸部はある意味、それ以上に容赦のない存在に憑かれている。彼女は、なりふり構わずエネルギーを吸い取っているらしい。外見の衰えがその証拠だ。方法は――おそらくは毎晩、至上の快楽のうちに。男の方は、「懐かしい女の夢を最近よく見る」ぐらいにしか感じていないのだろう。兆候に気付く機会さえ与えられずに、間もなく死ぬ。
無理もない。夫としての心情では、そんな言葉も出る。だが元刑事としては、目をつぶることなどできない。人が一人、命を奪われようとしているのだ。
「怖い顔。あなただって、一咲さんや、そのあと抱いた女たちを放って逃げたじゃない。あと一人、見ない振りをしてくれればいいの。それで、すべてが終わる」
「なぜだ……なぜ、お前はそこまで」
「外へ行きましょう。ここの空気は最悪」
警部の動きが気になるが、ここは妻を追うしかなかった。天井を抜け、屋上へ出る。通勤時間となり、眼下には駅へ向かう人々の群れが見える。
公園では捜査が続いている。ちょうど、大崎の遺体が運ばれていくところだった。時計塔の下のベンチは空になっていたから、恵麻は病院に搬送されたのだろう。
(彼女はもう大丈夫だぞ、大崎)
容疑がかかることは避けられなくとも、少なくとも体は――。
「随分、頑張ってたわね。おかげで私も忙しかった」
少し後ろから発せられた声に、心がとろけていく。振り返ると、琴絵は空中に安楽椅子でもあるかのような格好で寛いでいた。公園の方を悲しそうに見やったのは、大崎に対して思うところがあるのだろうか。
「冥界への案内人は続けていたんだな」
「ええ。予想よりずっと早くノルマ達成。……だからね、もう終わらせたいの」
「琴絵……一体、何がどうなってるんだ? この五年間、俺たちはどういう……」
「これが片付いたら、話すわ」
戸部を殺したら、話すという意味だ。
「……どう言えば、やめる?」
幽霊としての力は、どう考えても琴絵の方が上だ。説得して思いとどまらせるしかない。
「今更やめたって、手遅れ。私と同じ」
「琴絵っ……」
「警部さんが帰るわよ。ついていかなくていいの?」
今は聞き入れそうにないが、離れたら、今日のうちにも戸部はとどめを刺されるかもしれない。
(じわじわと嬲り殺すつもりなら、数日……一週間はあるか? 何てことだ……)
「もう一度聞く。なぜ、そこまでする」
答えは明快だった。
「あなたが好きだから」
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