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第3章 桜が散る時
第2話
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八〇三号室の住人は、五年前と変わっていなかった。エントランスのインターフォンで呼び出すと、涼やかな声で応答があった。ロックが解除され左右に開いた透明のドアを抜け、八階へ向かった。
各戸の玄関が内廊下に面しているタイプだ。以前、八階は全戸を戸部が所有していると聞いた。この際、近所に聞き耳を立てられる気遣いがないのは好都合だ。
彼は住居のドアを開けて待ち構えていた。眼鏡をかけた、スマートな風貌の男。冷たい印象を受けるが、前に話した時には、それだけではないものを感じた。どこかに置き忘れてきた人間らしい感情を、取り戻せる気がしたのにつかみ損ねた……それが、東雲の中に残る戸部伸司のイメージだった。
今、不機嫌な顔で出迎えた彼は、真冬の朝にしては薄着だった。シャツとスラックスを身につけてはいるが、上二つのボタンは留めていない。いつもピシッと撫でつけていた髪は、最後に見た時よりも艶がない。葉桜と同じ生まれ年だから、今年で三十五になる。老け込むには早い。
(自宅であんなことがあったんだから、無理もないが……)
刑事としての習慣から東雲が観察するのを、戸部は――なぜか――憐れむように見て、口を開いた。
「今度は何です?」
「近くで殺人と思われる事件が発生しましてね。ご協力願いたい」
「何も知りませんよ」
ドアに寄りかかり、態度で「うんざりだ」と示してみせる。わざと室内を見せるのは、こちらを挑発しているのだろうか。
「ほぅ? まだ何もお聞きしていないのですがね。大崎孝信をご存じですか」
「誰ですって?」
「大崎孝信。私の部下です」
「私の尾行でもしていたんですか。あなた方は本当にしつこい……」
「それが仕事ですからな。大崎はこの住所のメモを持っていました。昨日の午後から今朝にかけて、あなたはどこにいましたか」
「この部屋で仕事をしていましたよ。途中から眠っていましたが……近頃、何だか体が怠いもので。頭もぼんやりしてましてね。目覚ましのコーヒーでも飲みに行こうと思っていたところです」
眼鏡の奥の切れ長の瞳が潤んでいる。頬が少し赤い。本人の話と合わせて考えれば軽い風邪などの可能性もあるが、直感は別の答えを導き出していた。
「今、中に誰かいますか」
そう思って見れば、彼は退廃的な空気を醸し出している。別にそれ自体をとやかく言うつもりは毛頭ないが、事件に関係のある者を匿っているかもしれない。
「いいえ。前にも言ったでしょう。客が来るような家ではないと」
「例外を、私は少なくとも一人知っている。ああ、失敬。彼女は『客』ではなかった。ここの合鍵を持っていたわけですからな」
「何が言いたいんです。彼女が幽霊になってよみがえってきたとでも?」
ギクッとしたが、何の気なしに発した言葉のようだ。この男にしてはぼんやりとした表情。そこに儚げな笑みを貼り付けている様に、異様なものを感じた。
(だが、これも勘に過ぎない。惨劇のあった部屋に暮らし続けているというだけで、疑いをかけるわけにもいかんし……)
ここはいったん引き下がるかと嘆息した時、「中を見るならどうぞ」と許可が出た。
葉桜は、エントランスに現れた東雲の背後を守るようにして、ついてきていた。
(無駄だ……ここをどう探したって、昨夜のことは何もわかりはしない)
それを警部に伝える術もなく、成り行きを見守った。戸部に対して複雑な思いはあるが、気配を漏らさないよう必死で堪えた。
「こちらは寝室でしたな。拝見しても?」
戸部は肩を竦めた。
「どうぞ。お見苦しいですが」
開いた扉の向こうには、乱れたシーツの皺が生々しいベッド。東雲は「ふむ」と首を傾げるのみだが、葉桜にはほかのものも見えていた。
「あら」
ベッドから身を起こした女性は、何も身に纏っていない。どれだけ激しい行為だったのか、気怠い仕草で髪を弄っている。自分と同じく完全な幽体となった夫に、目を逸らすことなく笑いかけた。
「琴絵……?」
各戸の玄関が内廊下に面しているタイプだ。以前、八階は全戸を戸部が所有していると聞いた。この際、近所に聞き耳を立てられる気遣いがないのは好都合だ。
彼は住居のドアを開けて待ち構えていた。眼鏡をかけた、スマートな風貌の男。冷たい印象を受けるが、前に話した時には、それだけではないものを感じた。どこかに置き忘れてきた人間らしい感情を、取り戻せる気がしたのにつかみ損ねた……それが、東雲の中に残る戸部伸司のイメージだった。
今、不機嫌な顔で出迎えた彼は、真冬の朝にしては薄着だった。シャツとスラックスを身につけてはいるが、上二つのボタンは留めていない。いつもピシッと撫でつけていた髪は、最後に見た時よりも艶がない。葉桜と同じ生まれ年だから、今年で三十五になる。老け込むには早い。
(自宅であんなことがあったんだから、無理もないが……)
刑事としての習慣から東雲が観察するのを、戸部は――なぜか――憐れむように見て、口を開いた。
「今度は何です?」
「近くで殺人と思われる事件が発生しましてね。ご協力願いたい」
「何も知りませんよ」
ドアに寄りかかり、態度で「うんざりだ」と示してみせる。わざと室内を見せるのは、こちらを挑発しているのだろうか。
「ほぅ? まだ何もお聞きしていないのですがね。大崎孝信をご存じですか」
「誰ですって?」
「大崎孝信。私の部下です」
「私の尾行でもしていたんですか。あなた方は本当にしつこい……」
「それが仕事ですからな。大崎はこの住所のメモを持っていました。昨日の午後から今朝にかけて、あなたはどこにいましたか」
「この部屋で仕事をしていましたよ。途中から眠っていましたが……近頃、何だか体が怠いもので。頭もぼんやりしてましてね。目覚ましのコーヒーでも飲みに行こうと思っていたところです」
眼鏡の奥の切れ長の瞳が潤んでいる。頬が少し赤い。本人の話と合わせて考えれば軽い風邪などの可能性もあるが、直感は別の答えを導き出していた。
「今、中に誰かいますか」
そう思って見れば、彼は退廃的な空気を醸し出している。別にそれ自体をとやかく言うつもりは毛頭ないが、事件に関係のある者を匿っているかもしれない。
「いいえ。前にも言ったでしょう。客が来るような家ではないと」
「例外を、私は少なくとも一人知っている。ああ、失敬。彼女は『客』ではなかった。ここの合鍵を持っていたわけですからな」
「何が言いたいんです。彼女が幽霊になってよみがえってきたとでも?」
ギクッとしたが、何の気なしに発した言葉のようだ。この男にしてはぼんやりとした表情。そこに儚げな笑みを貼り付けている様に、異様なものを感じた。
(だが、これも勘に過ぎない。惨劇のあった部屋に暮らし続けているというだけで、疑いをかけるわけにもいかんし……)
ここはいったん引き下がるかと嘆息した時、「中を見るならどうぞ」と許可が出た。
葉桜は、エントランスに現れた東雲の背後を守るようにして、ついてきていた。
(無駄だ……ここをどう探したって、昨夜のことは何もわかりはしない)
それを警部に伝える術もなく、成り行きを見守った。戸部に対して複雑な思いはあるが、気配を漏らさないよう必死で堪えた。
「こちらは寝室でしたな。拝見しても?」
戸部は肩を竦めた。
「どうぞ。お見苦しいですが」
開いた扉の向こうには、乱れたシーツの皺が生々しいベッド。東雲は「ふむ」と首を傾げるのみだが、葉桜にはほかのものも見えていた。
「あら」
ベッドから身を起こした女性は、何も身に纏っていない。どれだけ激しい行為だったのか、気怠い仕草で髪を弄っている。自分と同じく完全な幽体となった夫に、目を逸らすことなく笑いかけた。
「琴絵……?」
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