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第3章 桜が散る時
第1話
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「結局、ここに戻るのか……」
葉桜康平は、忘れるはずのないマンションの玄関前に来ていた。人間として「生きて」いた間は越えられなかった深淵も、幽体なら何のことはない。この建物を囲むどす黒い靄も、幽霊として力をつけた今なら抜けられる。普通の人間には深淵も靄も見えないから、この周辺で事故や事件が多くても、大して気に留める者はいなかった。
死んだ大崎がメモしていたのは、このマンションの所在地と、ある住人の部屋番号だった。どういうつもりで、どんな経緯でたどり着いたのかは知らない。が、彼の性格と職業からいって、追う対象であり相棒ともなった男を過去にさかのぼって調べるのは当然だ。その周辺、例えば妻の死についても。
木目調の扉をすり抜け、エントランスに入った。各部屋へ通じるインターフォンがある。八〇三号室には、五年前と同じ『戸部』の名が表示されている。
「よく住んでられるよな……」
同じ頃、大崎が命を落とした公園にパトカーが到着していた。
降りてきたのは東雲警部だ。深夜に受信した大崎のメールを、朝一番で読んだ。ただならぬものを感じ、電話をかけたが、応答はなかった。GPSを頼りにやってきて目にしたものは、部下の変わり果てた姿だった。大量の血を流し、どう見ても事切れている。
「大崎君っ」
手遅れとわかってはいても、駆け寄らずにはいられない。
「一体、何が……」
現場は血だまりだが、血液が付着した足跡は見当たらない。夜中に降った雪がとけて犯人の痕跡を消したとも考えられるが、腑に落ちない。
彼がここへ来ていたことに対して、不審を抱いているわけではない。昨日資料庫で会った時から、わかっていたことだ。その後は姿が見えず、鞄は庁舎に置いてあった。最近は葉桜探偵事務所の捜査にかかりきりだったから、またそっちに行ったのだろうと、みんな思っていた。
――二月十四日は休みます!
彼がそう宣言した時、五年前を思い出した。葉桜康平は、妻と海に行くのだと嬉しそうに話していた直後、悲劇に見舞われた。大崎も、詳細は聞いていないが大事な約束があったのだろう。
(相手は……この女性か?)
割れた時計塔の破片が、すぐ下のベンチを避けるような形状で飛び散っている。そのベンチに寝ているのは、二十代とみられる女性。コートの上にかかっているのは、大崎の背広だ。屋根はないというのに、彼女は雨にも雪にも、ほとんど濡れた様子がない。間近で一人の男が悲惨な死に方をしているのに比べ、あまりにも平和に、すやすやと眠っている。
(おかしい……)
女性の横に置いてあるのは、大崎のスマートフォンではないだろうか。東雲は、ここへ来るまでの間に何度も電話をかけた。サイレントにする習慣はないから、マナーモードの呼び出し音は鳴っていたはずだ。
背筋に寒いものを感じながら自分のスマートフォンを取り出し、履歴から大崎の番号をタップする。ベンチの上の端末が震え、なかなかに大きな音を立てた。しばらく続けてみたが、女性が目を覚ます気配はない。眉も、耳も、ピクリとも反応しない。ただひとつの変化は、唇がわずかに動いたこと。耳を寄せると、東雲の部下の名を紡いだ。
「孝信さん……」
大崎の夢を見ているのだろうか。安心しきった、幸福に満ちた声音だ。部下の交遊関係をすべて把握しているわけではないが、知る限りでは、恋人同士と呼べるような相手はいなかった。葉桜の件を任せていたひと月の間に知り合い、急速に進展したと考えるのが自然だ。
「となると……」
通常ではあり得ない何かが関係しているのか。
呼び出しを終了すると、ベンチの上は再び静かになった。女性のかすかな寝息が聞こえるぐらいだ。底冷えのする朝の公園に、このまま放置することはできない。彼女が大崎を手にかけたとは思いたくないが、今のところほかに手がかりがない。救急車と応援を要請し、待っている間に周辺を調べた。動いていないと、自分も何かに飲み込まれそうな気がした。
(葉桜君は、五年前に死んでいたことがわかったばかりだ。彼は我々の前に生きている人間として現れ、行動していた。ついひと月前までだ……)
K県のペンションで白骨死体を発見する直前、東雲と大崎は、葉桜琴絵の霊にも遭遇している。いかに信じがたいことであっても、自分の目で見て、自分の耳で聞いたことは信じる。
葉桜の死はまだ公表されず、警察内部でも全員が知っているわけではない。姿を見せなくなった葉桜と入れ替わるように、鮮やかに幽霊案件を解決してみせたのが大崎だった。K県から戻ってすぐのことだ。
――幽霊探偵で食っていけるな。
そう言ってからかった。絶対にいやだと、怖がりの彼らしく全力で否定していたのを思い出す。
その彼が昨日、琴絵の死亡に関する記録に興味を持っていた。東雲は当時、事故ではなく殺人事件として捜査した。容疑のかかった男は証拠不十分で起訴できなかったが、引っかかるものを感じていた。
「行ってみるか……」
彼の住所は、ここからなら目と鼻の先だ。
東雲には、そのマンションを覆う黒いものを感知することはできない。足元に広がる深淵にも気付かず、何かに守られるようにして避けていった。
葉桜康平は、忘れるはずのないマンションの玄関前に来ていた。人間として「生きて」いた間は越えられなかった深淵も、幽体なら何のことはない。この建物を囲むどす黒い靄も、幽霊として力をつけた今なら抜けられる。普通の人間には深淵も靄も見えないから、この周辺で事故や事件が多くても、大して気に留める者はいなかった。
死んだ大崎がメモしていたのは、このマンションの所在地と、ある住人の部屋番号だった。どういうつもりで、どんな経緯でたどり着いたのかは知らない。が、彼の性格と職業からいって、追う対象であり相棒ともなった男を過去にさかのぼって調べるのは当然だ。その周辺、例えば妻の死についても。
木目調の扉をすり抜け、エントランスに入った。各部屋へ通じるインターフォンがある。八〇三号室には、五年前と同じ『戸部』の名が表示されている。
「よく住んでられるよな……」
同じ頃、大崎が命を落とした公園にパトカーが到着していた。
降りてきたのは東雲警部だ。深夜に受信した大崎のメールを、朝一番で読んだ。ただならぬものを感じ、電話をかけたが、応答はなかった。GPSを頼りにやってきて目にしたものは、部下の変わり果てた姿だった。大量の血を流し、どう見ても事切れている。
「大崎君っ」
手遅れとわかってはいても、駆け寄らずにはいられない。
「一体、何が……」
現場は血だまりだが、血液が付着した足跡は見当たらない。夜中に降った雪がとけて犯人の痕跡を消したとも考えられるが、腑に落ちない。
彼がここへ来ていたことに対して、不審を抱いているわけではない。昨日資料庫で会った時から、わかっていたことだ。その後は姿が見えず、鞄は庁舎に置いてあった。最近は葉桜探偵事務所の捜査にかかりきりだったから、またそっちに行ったのだろうと、みんな思っていた。
――二月十四日は休みます!
彼がそう宣言した時、五年前を思い出した。葉桜康平は、妻と海に行くのだと嬉しそうに話していた直後、悲劇に見舞われた。大崎も、詳細は聞いていないが大事な約束があったのだろう。
(相手は……この女性か?)
割れた時計塔の破片が、すぐ下のベンチを避けるような形状で飛び散っている。そのベンチに寝ているのは、二十代とみられる女性。コートの上にかかっているのは、大崎の背広だ。屋根はないというのに、彼女は雨にも雪にも、ほとんど濡れた様子がない。間近で一人の男が悲惨な死に方をしているのに比べ、あまりにも平和に、すやすやと眠っている。
(おかしい……)
女性の横に置いてあるのは、大崎のスマートフォンではないだろうか。東雲は、ここへ来るまでの間に何度も電話をかけた。サイレントにする習慣はないから、マナーモードの呼び出し音は鳴っていたはずだ。
背筋に寒いものを感じながら自分のスマートフォンを取り出し、履歴から大崎の番号をタップする。ベンチの上の端末が震え、なかなかに大きな音を立てた。しばらく続けてみたが、女性が目を覚ます気配はない。眉も、耳も、ピクリとも反応しない。ただひとつの変化は、唇がわずかに動いたこと。耳を寄せると、東雲の部下の名を紡いだ。
「孝信さん……」
大崎の夢を見ているのだろうか。安心しきった、幸福に満ちた声音だ。部下の交遊関係をすべて把握しているわけではないが、知る限りでは、恋人同士と呼べるような相手はいなかった。葉桜の件を任せていたひと月の間に知り合い、急速に進展したと考えるのが自然だ。
「となると……」
通常ではあり得ない何かが関係しているのか。
呼び出しを終了すると、ベンチの上は再び静かになった。女性のかすかな寝息が聞こえるぐらいだ。底冷えのする朝の公園に、このまま放置することはできない。彼女が大崎を手にかけたとは思いたくないが、今のところほかに手がかりがない。救急車と応援を要請し、待っている間に周辺を調べた。動いていないと、自分も何かに飲み込まれそうな気がした。
(葉桜君は、五年前に死んでいたことがわかったばかりだ。彼は我々の前に生きている人間として現れ、行動していた。ついひと月前までだ……)
K県のペンションで白骨死体を発見する直前、東雲と大崎は、葉桜琴絵の霊にも遭遇している。いかに信じがたいことであっても、自分の目で見て、自分の耳で聞いたことは信じる。
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